エピソード3

{絵梨奈}

リビングの電話が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。夜の静寂は完全に断ち切れ、ベルの音が、わたしの心臓を直接叩く。


わたしが驚く傍らで、父が、受話器を掴んだ。


話の内容からか、彼の手が、見る見るうちに、白く強ばってゆくのが分かった。父の口から、低い声が漏れる。何だろう、と思いながら、内容を聞こうと耳をすませる。


「…倒産?」


確かに彼はそう言った。

父の一言が、鋭い刃物のように、わたしの鼓膜を突き破る。

父の顔から、みるみるうちに血の気が引いてゆく。背中が、一瞬にして、大きく縮んだように見えた。わたしは、ただ、ソファに座ったまま、その光景を、息を詰めて見つめることしかできなかった。電話が切れる音が、乾いた音を立てて響く。父は、受話器を置いたまま、そこに立ち尽くしている。父の姿は、まるで、彫像のように固まっていた。


翌朝から、家の空気は一変した。

朝食の食卓には、毎朝の温かい味噌汁がない。パンと、冷たい牛乳が、無造作に置かれている。父は、何も食べない。ただ、目の前の食卓を見つめている。視線は、虚ろで、何の感情も宿していない。わたしも、殆ど口をつけられない。


胃の奥が、冷たく締め付けられ、食欲がわかない。

スーパーでの買い物も、変わっていた。母がいなくなってから、わたしがほとんどの買い物を担当している。以前は、何も考えずにカゴに入れていた食材が、今は、一つ一つ、その値段をじっと見つめなければならない。手に取ろうとした肉のパックを、ハッと手を引っ込める。値段が高い。代わりに、見切り品コーナーに足が向く。そこに並ぶ、萎びた野菜や、期限の近いパンを手に取るしかない。


それが、今のわたしたちの食卓を埋めるものなのだ。

食費を切り詰めても、電気やガス、水道の請求書は、無情に届く。ポストを開けるたびに、その白い封筒が、わたしの心臓を氷のナイフで突き刺す。明細を見るたびに、数字が踊る。その数字の一つ一つが、わたしを嘲笑っているように見える。


支払いの期日が、容赦なく迫ってくる。


焦りが、全身を駆け巡る。



父は、どこかに出かけることもなくなった。


一日中、リビングのソファに座って、テレビを見ている。けれど、父の視線は、テレビ画面を通り過ぎて、遠くを見ているようだ。


わたしが、家事をしている間も、父は、そこにじっと座っている。その存在が、まるで、重い荷物のように、わたしの肩にのしかかる。父がいなければ、少し費用が抑えられるのではないだろうか。


そんなことを考えてしまう。


夜遅く、父が、突然、大きな音を立てて立ち上がった。その足音が、リビングに響き渡る。父は、何かを探すように、部屋の中をうろうろと歩き回る。棚の引き出しが、乱暴に開け閉めされる。中から、何かがガタガタと音を立てる。その音を聞くたびに、わたしの心臓が、跳ねる。


「…ない」


父の口から、低い声が漏れた。何を「ない」と言っているのか。考えることもできない。ただ、その声の音に、絶望が滲んでいるのが分かる。


父は、探し物を諦めたように、ソファに崩れ落ちた。その姿は、まるで、壊れた人形のように情けない。見ていて悲しくなる。

電気代を節約するために、夜の照明は、必要最低限に抑えることになった。リビングの天井から吊るされた電球一つだけが、頼りなく光を放つ。その薄暗い中で、父の顔は、陰になって、ほとんど見えない。ただ、彼の肩が、小刻みに震えているのが分かる。

わたしは、自分の部屋に戻っても、眠りにつくことができない。天井を見上げても、そこに広がるのは、暗闇だけだ。この家全体が、まるで、底なし沼に沈んでゆくように感じられる。


わたしたちは、その沼の底で、じっと、沈んでゆくのを待つしかないのだろうか。


眠れるのは、睡眠負債が溜まった数日に一日だ。



食卓には、食パンの耳ばかりが並ぶようになった。以前は、見向きもしなかった、安価なレトルト食品が、今のわたしたちの主食だ。咀嚼するたびに、口の中に広がる、味気ない感覚が、今の生活の全てを物語っている。


父は、日に日に痩せてゆく。彼の頬は、こけ落ち、目は窪んでいる。


口数は、さらに減った。


わたしが話しかけても殆ど返事がない。まるで、わたしの声が、父には届いていないようだ。父は、ただ、そこにいる。その存在は、まるで、壁のように、わたしの前に立ちはだかる。

郵便受けに、赤色の封筒が届いた。支払い催促の通知だ。その赤い文字が、血の色のように、わたしの目に焼き付く。これを払わなければ、電気もガスも、止まってしまう。そう考えるだけで、全身の血が凍るような感覚がする。

夜中、父の呻き声が、リビングから聞こえてくる。微かに、苦しんでいるような声が聞こえくる。

その声に、わたしは、布団の中で身を震わせる。助けてた方が良いのはわかる。しかし、何をどうすればよいのかすら分からない。


わたしには、何一つ、できることがない。



この貧困の渦の中で、わたしの心は、深く沈んでゆく。靄は、何時になれば晴れるのだろうか。


冷たい現実が、わたしの全身を包み込み、呼吸をすることも苦しい。

わたしは、ただ、この暗闇の中で、じっと耐えるしかない。


父も。

わたしも。


底のみえない沼の中で、わたしたちは、ただ、沈んでゆくことしかできないのだろうか。

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