{華子}

リビングの空気は、鉛のように重かった。夫の低い声が、わたしの耳の奥でまだ響いている。何を言われたのか、正確には覚えていない。ただ、その言葉の一つ一つが、わたしの心を針で刺すように、じくじくと痛む。


わたしは、流し台の前に立ち尽くし、冷たい水がシンクの底に吸い込まれてゆく音だけを聞いていた。

指先が、震えている。握りしめた食器用スポンジの感触が、やけに生々しい。夫は、ソファに座ったまま、こちらに背を向けている。その背中が、まるで大きな壁のように、わたしの前に立ちはだかっていた。もう、何も話すことはない。そう、決定的に感じられた。

反射的に流し台から体を離す。足元が、ぐらつくような感覚がした。そのまま、二階に続く階段を上る。一段一段、踏みしめるたびに、ミシミシと音がする。その音が、わたしの内側の軋みと重なるような気がする。

寝室に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。ここは夫との共有空間である。


わたしはその場所に、もはや何の温もりも感じない。クローゼットの扉を開けると、布の匂いがした。

中に並んだ服は、どれもこれも、わたしの日常を彩ってきたはずのものだ。けれど今は、そのどれもが、色褪せて、意味を失っているように見えた。

スーツケースをベッドの上に広げる。使い慣れたはずの布地が、やけに固く感じられる。


一枚、また一枚と、服を詰め込んでゆく。その動作は、感情のこもらない、機械的なもので、自分自身の存在が怖くなる。

何を詰めているのか、どこへ向かうのか、深く考えることはしない。ただ、この場所から離れたい。その一心だけが、わたしを突き動かしていた。

必要なものは、ほとんどないかもしれない。そう、漠然と思う。


もう、この家で、わたしが必要とされることはないだろう。そう考えているのに、涙は出なかった。胸の奥が、乾ききった砂漠のように、ひたすら虚ろなだけだ。

全てのものが、この家の嫌な記憶に結びつく。

数週間で、わたし達は変わってしまった。


中が良かった数週間前が考えられない。



娘の寝室の前を通る。ドアは、閉まっている。中の気配は、分からない。もしかしたら、今は一階の居室にいるのかもしれない。


声をかけることも、できなかった。かける言葉がない。どのような顔で、娘に何を伝えればいいのか、分からなかった。娘に、この重苦しい空気を吸わせていることが、何よりも、わたしの心を締め付けていた。

スーツケースのチャックを閉める。ギシギシと、硬い音がする。その音は、わたしの内側の何かが、完全に閉ざされる音のようなきがした。取っ手を掴み、床を引きずる。ゴロゴロと、車輪の音が、廊下に響き渡る。その音が、この家に響く、最後のわたしの音になるのだろうか。

階段を降りる。一段一段、足元を確認しながら降りなくては、ここがわたしの死に場所になってしまう。それだけは必ず避けなければならない。


足取りは、ひどく重い。


リビングには、夫がまだいる。彼の姿が、視界の端に映った。振り返らない。振り返れば、恐らく何かを言ってしまう。そして、もう、取り返しのつかないことになる。そう、直感的に分かっていた。


玄関のドアを開けていた。夜の冷たい空気が、頬を撫でる。ひんやりとした感覚が、今のわたしの心を、そのまま表しているようだ。

スーツケースを外に引き出した。

腕をひっかけ、少し引きずると、重みが、腕に食い込む。

振り返らずに、ドアを閉める。

ガチャンと、鈍い音がする。その音が、この家との、わたしの関係が、完全に断ち切られた音のような気がした。

夜の闇の中を、走るように進んでゆく。スーツケースの車輪が、アスファルトの上で乾いた音を立てた。その音が、やけに大きく、わたしの耳に響く。どこへ向かっているのか。分かっている。実家だ。両親だけはわたしを受け入れてくれるかもしれない。



けれどそのことを考えても何故か、少しも心は穏やかにならない。


実家に帰れば、この苦しみから解放されるのだろうか。そんなことはない。この胸の奥に抱えた、重い塊は、場所を変えたところで、消えるわけではないのだ。

街灯の光が、アスファルトの上に、細長く伸びている。わたしの影が、その光の中に伸びてゆく。

その影は、ひどく頼りなく、孤独に見えた。


タクシー乗り場に半ば滑り込むように着くと、タクシーを拾おうとする。

なかなか来ない。来たばかりで来るはずもないのに、そう考えてしまう。


ここは寂れた住宅街だ。二十分から三十分は来るはずもない。思わず貧乏揺りをしながら、三十分を待った。


漸く来たタクシーの後部座席に座り、スーツケースを足元に置く。運転手の顔は見ない。ただ、窓の外に流れてゆく街の光を、ぼんやりと眺める。消えかけのネオンサインの点滅が、わたしの心を、ざらつかせる。

わたしたちは、どんな出気ごとから、このような風になってしまったのだろう。

数週間前だということだけはわかっているが、いつから夫との間に、こんなにも深い溝ができてしまったのだろう。具体的な理由など、今はもう、どうでもよかった。ただ、その事実だけが、わたしの内側を蝕む。


車が走り出す。家が、どんどん遠ざかってゆく。


窓の向こうで、夫と娘は、今、何を考えているのだろう。わたしのことを、どう思っているのだろう。そう考えても、答えは出ない。もう、関係ないのだ。

背もたれに、体を預ける。疲労が、全身を襲う。


この正体も分からない苦しみの終わりは、一体いつ来るのだろう。そのような問いが、わたしの心の中で、繰り返し響いている。実家に近づくにつれて、胸の奥の靄が、さらに濃くなってゆくのを感じる。実家に着けば、一時的に安心できるだろう。だが、その安心は、表面的なものに過ぎない。この重い感情は、ずっと、わたしの中に残り続けるのだろう。

車の揺れに合わせて、体が揺れる。わたしの人生そのものも今、大きく揺れ動いている。そう思おど、実感が持てず真剣に考えられない。


もはや未来は、何も見えない。ただ、暗闇が広がっているだけに思えてしまう。

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