プロローグ2

{絵梨奈}

沙貴が声をかけてくる。


わたしの心臓が、ぎゅっと縮み上がった。

下駄箱に向かっていたわたしの背中に、沙貴の声が突き刺さる。振り返るかどうか、一瞬、迷った。けれど、ここで無視すれば、沙貴は恐らく、もっと傷つく。そう思い、ゆっくりと体を捻った。

沙貴は、普段の沙貴とは違った。顔色は土気色で、今にも泣き出しそうに唇を震わせている。その姿を見て、胸の奥がチクリと痛んだ。彼女が、この数週間、クラスでどんな状況に置かれていたか、わたしは知っている。知らないふりをしてきた。見て見ぬふりをしてきた。


「絵梨奈、ちょっと話せるかな?」


沙貴の声が、まるで枯れた木々が風に揺れるように、細く聞こえる。わたしは、すぐには返事ができなかった。脳裏に、数日前の希の顔がちらつく。放課後の教室で、希がわたしに向かって言った言葉が、鮮明に蘇る。


「沙貴のこと、もう相手にしなくていいから。あんたまで変な目で見られたら、困るしね」


希の顔は、普段通りの笑顔だった。しかし、その笑顔の奥には、凍えるような冷たさが宿っていた。わたしが少しでも反論しようとすれば、その笑顔が、きっと牙を剥いてくるだろう。わたしは、希のそういう部分を、知っていた。表立っては見せない、底知れない冷酷さを。

沙貴が、わたしとの距離を詰めてくる。わたしは、反射的に一歩下がった。この距離が、わたしの心を、少しだけ落ち着かせる。


「ああ沙貴。あたし今、ちょっと急いでて」


口から出た言葉は、わたしの本心とは裏腹に、驚くほど冷たい響きを持っていた。沙貴の顔が、さらに強張る。その表情を見るのが辛くて、思わず視線を逸らした。壁に寄りかかり、自分の心を守るように腕を組む。


「お願い。少しだけでいいから。大事な話なの」


沙貴の声が、悲痛なほどにわたしの耳に届く。その声に、心が揺れる。わたしは、沙貴の苦しみを理解している。希が沙貴に対してしていることは、あまりにもひどい。わたしは、沙貴の味方でいてあげたい。そう、心の中では強く願っていた。

だが、同時に、恐怖がわたしの全身を支配する。もし、沙貴の味方になれば、次はわたしが、希の標的になる。

希が、わたしに向けて、あの冷たい視線を向けるだろう。わたしも、沙貴と同じように、クラスから孤立させられるかもしれない。あの、無視されるという、じっとりとした恐怖は耐えられないだろう。その状況を想像するだけで、全身の毛穴が開くような感覚がした。


「……何?」


わたしの声は、やはり冷たいままだった。沙貴は、その声に気づいているだろう。それでも、沙貴は縋るように、わたしに問いかけた。



「あの、希に、何か言われた?」


沙貴のその言葉に、わたしの心臓が跳ねた。鋭く、核心を突かれた。どう答えれば良いのだろう。

嘘をつくのは苦手だ。けれど、本当のことは言えない。希に言われたことを、沙貴に話せば、沙貴はもっと深く傷つく。そして、わたしが希に逆らえない弱い人間だと、沙貴に知られてしまう。

「……別に、何も」

視線を伏せて、絞り出すように答えた。その言葉が、沙貴にどう聞こえただろうか。わたしの内側では、罪悪感が渦巻いている。沙貴は、簡単に人を信じる。だからこそ、希の裏切りが、沙貴をここまで傷つけたのだろう。


「嘘だよ。希に何か言われたんでしょ? わたし、希に裏切られたの。ひどいこと言われた。絵梨奈は、わたしのこと、信じてくれるよね?」


沙貴が、わたしの腕に手を伸ばそうとした。その手が、わたしの皮膚に触れる寸前で、わたしは体をかわした。拒絶。その意味は、沙貴に伝わっただろう。沙貴の顔に、明確な絶望の色が浮かぶ。

その表情を見て、わたしの心は深く沈んだ。だが、もう、引き返すことはできない。一度、この道を選んでしまったら、もう後戻りはできないのだ。


「沙貴、わたし、そういうの、よくわかんないから」


わたしの声は、感情を排して、さらに冷たくなった。まるで、自分ではない誰かが、話しているかのようだった。沙貴の顔が、絶望に歪む。その顔を直視するのが、あまりにも辛い。

わたしは、下駄箱の方を見た。そこには、わたしの友人のグループが、楽しそうに話している。彼女たちは、希のグループに属している。わたしがもし、沙貴の味方をすれば、あの輪から、わたしは弾き出されるだろう。

当たり前の日常が、失われる。

わたしの心の中は、天秤にかかっている。




片方には、傷つき、助けを求める沙貴。


もう片方には、日常と、希という恐怖。




わたしは、無意識のうちに、後者を選んでいた。

「沙貴。わたし、もう行くね」


それだけを言って、わたしは沙貴に背を向けた。早くこの場を離れたかった。沙貴の悲痛な表情から、一刻も早く逃げ出したかった。後ろから、沙貴の声が聞こえる。


「絵梨奈! 待って!」


その声は、わたしの耳に届いている。しかし、わたしは立ち止まらなかった。立ち止まることはできない。立ち止まれば、わたしは、沙貴と同じ場所へ引きずり込まれる。あの、冷たい孤独の中へ。

わたしの足は、下駄箱に向かって、段々速足になる。

振り返らない。決して、振り返ってはならない。

後ろからは、もう沙貴の声は聞こえない。


わたしの背後で、沙貴がどんな顔をしているか、どんな感情でいるか、想像したくもなかった。

わたしの脳裏には、希の冷たい笑顔が焼き付いている。もし、わたしが沙貴の味方になっていたら、今頃、希はわたしに向けて、あの容赦ない言葉を浴びせていただろう。あの冷たい視線が、わたしを貫いていただろう。

希は、友達を選ぶ。希は、自分にとって邪魔な人間を、容赦なく切り捨てる。そのことを、わたしは知っている。そのためわたしは、彼女の機嫌を損ねてはならない。わたしは、彼女の言う通りにしなければならない。


下駄箱にたどり着き、自分の靴に履き替える。

わたしの友人が、楽しそうに「絵梨奈、遅いよ!」と声をかけてくる。わたしは、無理に口角を上げた。


笑顔が、虚しい。


わたしは、沙貴を見捨てた。それは、自分を守るための、唯一の選択だった。そう自分に言い聞かせる。わたしの心臓は、まだ大きく脈打っている。罪悪感が、じっとりとわたしの内側に纏わり着く。だが、それよりも、希への恐怖が、わたしの行動を支配した。

この選択が、わたしにとって、本当に正しいものだったのだろうか。そんな問いが、頭の片隅で小さく囁く。しかしわたしは、その問いに答えることを拒絶した。わたしのクラスで生き残るために、わたしは、こうするしかなかったのだ。

わたしは、友人の輪の中に紛れ込む。彼女たちの楽しそうな声に紛れて、わたしの心の中のざわめきを、かき消そうと努めた。沙貴のことは、もう、考えない。

考えたら、

恐らく後悔するであろうから────。

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