傍観者
如月幽吏
プロローグ1
{沙貴}
わたしは何故、普通の幸せを手にできないのだろう。
※※※
公園のベンチに座って、乾いた地面を見つめていた。少し前まで降っていた雨の跡が、薄くアスファルトに残っている。じめりとした空気が肌にまとわりついて、気持ちが悪い。吐き出されたため息は、濁った空気に溶けてゆく。
まるで、わたしの存在そのものが希薄になってゆくような感覚だった。
隣には希がいる。普段と変わらない顔で、スマートフォンの画面を指で触れている。
その指の動き一つ一つが、何故か今のわたしの心臓を鈍器で殴りつけるように感じられてしまう。
たった今、希が画面に打ち込んだメッセージの文字が、脳裏に焼き付いて離れない。わたしたちは隣にいるのに、何故言葉も交わせないのだろうか。
彼女は今、わたしを友人ではないただのクラスメイトにしようとしていた。
「沙貴はさ、ほんと普通じゃないから」
その言葉が、耳の奥で、わたしの声で、何度も繰り返される。
胸の奥が、冷たい水で満たされてゆくように苦しい。喉の奥がひりついて、唾を飲み込むのが辛い。希の横顔を盗み見る。長い髪が風に揺れて、視界の隅でちらつく。
そしてすぐに髪をかき分け、希の顔が顕になった。
この、何一つ影のない顔を、どれだけ眩しいと感じたことだろうか。
そして、どれだけ、信頼してきたことか。
ふと、物思いに耽っていた。
「ねえ、沙貴、聞いてる?」
希の声が、突然、鼓膜を震わせた。びくりと肩が跳ねる。顔を向けることができない。この期に及んで、わたしはまだ、希の表情を見るのが怖かった。一体どんな顔をして、わたしに話しかけているのだろう。普段の優しい、少しおどけたような声のトーンとは違う、刺々しい響きがそこにある。
「うん、聞いてた。何?」
掠れた声しか出ない。
情けない。
こんな時でも、わたしは希に弱みを見せたくなかった。最後の矜持が、そうさせた。けれど、もう、そんなもの、意味がないことは分かっている。
「だから、この前貸した参考書さ、いつ返してくれるのって聞いてるんだけど」
そんな瑣末なことのために、希はわたしを呼び出したのだろうか。そう考えようとしたが、直ぐにわかった。
いや、違う。
この状況で、希がわざわざ参考書の話を持ち出す意味を、わたしは痛いほど理解していた。これは、わたしの心を抉るための、単なる口実だ。
「……今日、持ってきてない」
俯いたまま、絞り出すように答える。希は小さく舌打ちをした。その音が、わたしの心臓を針で突き刺す。
「ふうん。まあ、いいけどさ。もうちょっと、ちゃんと管理してほしいかな、自分の物じゃないんだから」
その言葉の裏に隠された、とげとげしい感情が、皮膚の下に突き刺さり、上を向けなくなる。
わたしの物ではない。希の物。
まるで、わたしたちの関係性そのものを表しているようだった。希は、いつでもわたしの前で優位に立っていた。わたしは、いつだって希の後を追うばかりであった。
ふと、希がスマートフォンを向けてきた。反射的に顔を上げる。画面には、見慣れたグループチャットのトーク履歴が映し出されていた。わたしの、友達だと思っていた人たちとの、他愛ない会話の羅列がならんでいる。
その中に、ひときわ大きく表示されたメッセージがあった────ような気がした。
「沙貴って、ほんとに最低だよね」
差出人は希だ。そのすぐ下にメッセージが続く。
「あんなに被害者ぶってるけど、全部自作自演だし」
「ほんと、おかしいっていうか、構ってちゃんだよね」
「みんなで無視してやろうよ。あの子、すぐいなくなるから」
心臓が、まるで誰かに鷲掴みにされたかのように、きゅっと縮み上がった。呼吸ができない。肺が酸素を求めてひくつく。画面の文字が、墨のように黒く滲んで、視界を覆い尽くす。指先が、足先が、みるみるうちに冷たくなってゆく。
これだ。わたしがずっと、薄々感じていた違和感の正体は。ここ数週間、メールの返信が遅くなったり、グループでの集まりに誘われなくなったりした理由もこれが全てだったのだ。
わたしが、自分でもわたしのことを「普通じゃない」と内心で罵倒していたのは、間違いではなかった。それは、わたしの思い過ごしなどではなかった。
現実だった。
希は、わたしの顔色をじっと見ている。その唇が、動くのが見えた。
「ね、沙貴。これ、見てわかるでしょ?」
声のトーンは、先ほどよりもさらに冷たくなっていた。わたしの体温が、みるみるうちに奪われてゆく。
「あんた、自分で言ってたじゃん。『わたし、普通じゃないから友達もできない』とか」
違う。わたしは、そんなこと言ってない。
わたしは、ただ、「わたし、普通の友達って、ちゃんとできたことないから、希が初めてなんだ」と、そう言っただけなのに。
わたしの言葉が、希の口から出ると、こんなにも歪められてしまうのだろうか。
「それでさ、わたしがどれだけあんたのために時間割いて、気を使ってあげたか、わかる?」
希の声が、段々大きくなる。公園にいる他の人間の視線が、ちらりとこちらを向いたような気がした。見られたくない。こんな情けない自分を、誰にも見られたくない。
「あんたの、あのネガティブな発言の数々。聞いてるこっちが疲れるんだよ。わたしだって、毎日楽しいことばかりじゃないのにさ、あんたの暗い話聞いて、いちいち励まして、もううんざりなんだって」
背筋に、冷たい汗が流れる。希の言葉が、氷の刃のようにわたしの心を切り裂いてゆく。わたしは、希にそんなに負担をかけていたのだろうか。
わたしは、希にとって、そんなにも厄介な存在だったのだろうか。
「それにさ、わたしがあんたの悩みに付き合ってやったのに、あんた、わたしのこと、なんにも理解してくれなかったよね?」
希の顔が、わたしの目の前に迫る。その表情は、普段の明るい笑顔とはかけ離れていた。見開かれた目は、感情の読めない、暗い光を宿している。
「あの時、わたしがどれだけつらかったか、あんた、気づいてた? わたしがどれだけ苦しんでたか、少しでも考えたことあった?」
希が何を言っているのか、理解できない。わたしは、希が辛い時、毎回隣にいて、話を聞いて、寄り添ってきたつもりだった。
希が母と喧嘩した時も、テストで思うような点数が取れなかった時も、わたしはいたはずだ。
「あんたは、自分のことしか見えてないんだよ。だから、誰からも好かれないんだ。そういう人間は、一人で生きていけばいいんだよ」
希の言葉が、わたしの頭の中で響き渡る。まるで、大きな鐘が鳴り響くかのように、脳髄を揺らす。わたしの全細胞が、その言葉を受け入れることを拒絶しているのに、体は微動だにできない。
わたしの心臓から、何かが剥がれてゆくような感覚がした。それは、信頼だったのかもしれない。愛情だったのかもしれない。希望だったのかもしれない。今までわたしの内側を支えていた、漠然とした「幸せ」という構造物が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちてゆく。
希は、わたしの顔から視線を外し、再びスマートフォンの画面に目を落とした。もう、わたしに興味はない、と言わんばかりに。その仕草が、わたしの心を凍てつかせる。
ベンチの座面が、冷たく、硬く感じられる。わたしの隣に座っているのは、もう、わたしの知っている希ではない。そこにあるのは、わたしの友情を弄び、踏みにじり、そして嘲笑う、見知らぬ誰かだ。
公園の片隅で、人々の笑い声が聞こえる。楽しそうな、何の濁りもない声だ。
その声はためう、わたしの耳には届かない。聞こえるのは、ただ、わたしの心の中で、何かが、音を立てて死んでゆく音だけだった。
乾いたアスファルトの匂いが、鼻腔をくすぐる。どこからか、焼き焦げたような、焦げ付くような匂いがした。それは、わたしの心が燃え尽きて、灰になってゆく匂いなのかもしれない。
わたしは、ただ、じっと座っていた。この状況から逃げることも、反論することもできない。わたしの体は、まるで石になってしまったかのように、動かない。ただ、目の前にある、冷たい現実だけが、じっとりとわたしの存在を蝕んでゆく。
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