第5章: 鏡の中の人は私じゃない

— 東京、夜遅く。恵比寿近くの撮影スタジオの裏手、照明はすでに落とされていた。メイクルームには、大きな鏡からのほのかな電球の光だけが残っている。


**黒羽 蓮(くろわ れん)**は静かに鏡を見つめていた。ほとんどメイクを落とし終えた顔は、目の下のクマが目立ち、唇の端には長時間の口紅でできた赤みがうっすら残る。フラッシュもセリフもない。ただ、疲労だけがそこにあった。


目の腫れ、長時間の撮影で凝り固まった肩、そのすべてが蓮の身体に沈んでいた。空虚感が、首の後ろあたりからじわじわと広がっていく。繰り返されるカット、感情の残らないセリフたち。もしかしたら、そこに原因があるのかもしれない。


そこへ、マネージャーのアキがノックしながら入ってきた。


「蓮、車出ました。ただ駅前の通りが少し混んでるみたいです」


蓮はうなずいた。ゆっくりと立ち上がり、薄手のフーディーを羽織り、黒いマスクをつける。痩せた身体、眠りの足りない目元。何も言わず、ポケットに手を突っ込んでアキと一緒に駐車場へ向かった。


「コンビニ寄ります? この前行った角のやつ、まだやってますよ」


蓮は少し考えて、うなずいた。


数分後、コンビニの自動ドアが開き、あの馴染みのチャイムが鳴った。


「ピロン〜♪」


蓮は反射的に軽く会釈しながら入店する。白く冷たい蛍光灯の光が、清掃された床に落ちる。スープの匂い、蒸したての餅の香り、そして誰も自分を知らない場所特有の静けさがそこにあった。


アキは黙って右側の棚に進み、蓮は飲料棚の前に立つ。


見慣れた赤と青の缶コーヒー。手は両方に伸びかけて止まった。どっちが甘いんだっけ……? 思考はぼやけていた。


撮影9シーン目あたりで、記憶はスタジオに置いてきたらしい。


そのとき、小さな声が聞こえた。


「…どれだったっけ? 梅塩、しょっぱいかな… 魚…辛い? メ…ンタ…?」


蓮は反射的にその声の方へ顔を向けた。


黒髪の少女が一人、胸元までの髪、ぱっつん前髪、小柄な体格。ノーメイクで、小さなニキビの跡があり、目はひたむきに平仮名のパッケージを追っている——まるで、まだよく知らない世界のピースを必死に探すように。


気づけば蓮の口が動いていた。


「……こっちとこっち、どっちが甘いですか?」


少女は少し驚いて顔を上げる。その目は澄んでいて、怯えてもいない。何より、蓮のことを誰かとも思っていないようだった。


「えっと…赤いの…たしか…あまい?」


不確かで小さな声。でも、不器用じゃなかった。ただ——本物だった。飾り気も、よそよそしさもない。


蓮は軽く会釈をする。


「ありがとう。」


そう言って赤い缶を手に取り、歩き出した。胸は高鳴らない。ただ、何かがふっと静かに沈んだ。


アキはレジ前で待っていた。蓮が近づくと、彼女は顔を上げ、小声で言った。


「少し休んだ方がいいですよ。本当に、今日は疲れてる顔してます」


「うん。」


たったそれだけ。でも蓮の心には、あの少女のまっすぐな目が残っていた。


美人だったからじゃない。どこかで見た顔でもない。ただ、あまりにも自然に、「ただの自分」を見られた気がしたから。


その夜、目黒の橋を渡る車の中、蓮は窓に頭を預けた。東京の街は今もまばゆく光っていた。


だが、窓に映った自分の顔は——どこか、いつもの自分と違っていた。


あの瞬間、自分はスターじゃなく、役者でもなく——


ただの「一人の人間」として、そこにいた。


そして、あの目。その目だけは、きっと——


ずっと、忘れない気がする。


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