第3話
次の日の朝。
障子越しの光が淡く室内を満たし、冷えた空気が肌を撫でる。
静けさだけが漂う中、朝峯は何事もなかったように兵馬へ反発した。
昨夜の拒絶も、苦悶も、微塵も見せない。
兵馬もまた、あえて触れなかった。
――触れたところで、この子の心には届かない。
あの拒絶に対し、自分には何も出来なかった。
命令されるまま下がった自分を思い出す。
半ば諦めのような感情が、兵馬の胸にひたりと沈んでいた。
やがて「朝峯は兵馬を嫌っている」という空気は、白鷹家全体にじわじわと回り、主君―朝元の耳にも届く。
だが誰も朝峯を咎めず、誰も兵馬を責めなかった。
「事が起こらなければ、それでよい」
そんな思惑が廊下の隅にまで漂っていた。
朝峯が黙って“訓練”を続けていれば、それでいい――
その無言の合意は兵馬にも、そして朝峯にも、確かに伝わっていた。
思い悩んだ末、兵馬は決めた。
朝峯には、“務め”としてだけ接する。
これ以上、心を寄せれば自分が削られる。
元々心を通わせよとは命じられていない。
自分は“影”であり、ただ役目を果たす。
そう思い定めてからは、不思議と心が軽くなった。
朝餉の席で箸を投げられ、着付けを拒まれ、何を命じても「いやだ」と返されても、さらりと受け流せるようになった。
小さく、賢く、誇り高いあの子が、あまりにも見苦しく反抗を続ける日々。
周囲の目には、それはただの“わがまま”に映り、自然と同情は兵馬へ向かう。
やがて朝峯は兵馬の言葉に従うようになった。
――諦め。
反抗しても何も変わらないと悟ったのだろう。
「稽古の準備だ」と言えば着替え、
「冷えるから」と羽織を渡せば受け取り、
手を差し伸べれば、静かに手を重ねる。
「ありがとうございます」「はい」「わかりました」
最初に会った頃のように、丁寧な言葉だけが残った。
それ以外は、口にしなくなった。
――これが、この子の“務め”。
兵馬は余計な思いを押し殺した。
その夜。
灯明の炎がゆらぎ、薄明かりの中に影を揺らす。
兵馬は淹れたての茶を差し出した。幽香房の、例の香り高い茶だ。
兵馬は相変わらずその香を好まなかったが、朝峯は「ありがとうございます」と小さな両手で静かに受け取った。
少し、痩せた気がする。
「へいま」
部屋を出ようとした時、珍しく呼び止められた。
盆を抱えたまま振り返る。
「はい」
「おまえは…」
文机に顔を向けたまま、朝峯が言う。
「おまえは……ぼくがきらいなんだろう」
「いいえ」
迷いはなかった。
「わたしは朝峯様のお目付け役を、主君より命じられた身。
好きも嫌いもありません」
廊下の暗がりを背に、背筋を伸ばして答える。
偽りは、一つもなかった。
「……そっか」
短い沈黙ののち、呟くように声が続く。
「よかった…
ぼくはね、へいまがきらいだよ」
振り返った顔は、香炉の煙か、湯呑から立ちのぼる湯気か、あるいはその両方かに隠れて見えなかった。
いや、見ようとしなかった。
兵馬は静かに頭を下げ、襖を閉めた。
◇
「はぁ…〝きらい〟ねぇ…」
無精髭を指先でなぞりながら、黒木は難しげな表情を作ってみせる。
朝の鍛錬を終えた後、道場脇の井戸端で、兵馬と黒木は立ち話をしていた。
黒木――兵馬と同じく白鷹家に仕える影の一人。
幾度も共に任務に赴き、血煙の中を生き抜いてきた戦友でもある。
兵馬が本音を口にできる、数少ない相手だった。
「坊ちゃんがお前を嫌ってるってのは耳にしてたが…お前、何かやらかしたのか?」
「いえ、何も…」
「だろうな」
思い当たる節はただ一つ、
――己が“影”であること。
だが、それだけが理由とは朝峯の態度からは思えなかった。
「お前、顔が怖ぇからな」
「黒木殿…」
兵馬の暗い表情に、黒木はおどけたように笑いを混ぜる。
「ははっ、悪い悪い。…ま、実際は坊ちゃんが誰かと深く関わるのを嫌ってんだろ」
「そう…ですか」
「俺にはそう見えるな。誰とでも上辺だけで付き合って…懐いてたと言えるのは、せいぜい乳母くらいだ」
「乳母…」
兵馬の脳裏に、幼い日の情景が浮かぶ。
春の陽射しの下、小柄で丸顔の女性に手を引かれ、頬を染めながら笑う幼い朝峯。
朝峯を見かけた時、その傍らには乳母がいた。
「真弓殿…のことですか」
「そうそう、真弓。坊ちゃんもあれにはずいぶん懐いてた」
黒木は髭を撫で、目を細める。
きっと、兵馬と同じ風景を思い出しているのだろう。
「“器”にするには、邪魔だったか」
ぽつりと落ちた言葉。
真弓は、もう白鷹家にはいない。
いつから姿を消したのか、記憶を辿っても、気づけばいなくなっていたとしか言いようがない。
――姿が見えなくなったのは、幽香房が出入りするようになってからだった気がする。
朝峯に近づきすぎた真弓は、“器”を作る過程で邪魔になると判断されたのだろう。
信頼していた乳母を奪われ、幽香房の稽古を受け、誰もが朝峯を“器”としてしか見ない。
あの子の味方は、一体誰なのか。
少なくとも自分は、味方であることをやめた。
「ぼくはね、へいまがきらいだよ」
その言葉が頭を過る度、自ら選んだとはいえ、もはや越えられない溝が出来てしまったのだと思い知らされる。
「ま、気楽にやれよ」
黒木が軽く肩を叩く。
「“お前なら”そう簡単には外されねぇ」
「…はい」
黒木は兵馬をよく知っている。
よく知ってるからこその励ましの言葉だったのだろう、だが兵馬には、それが朝峯から逃げられない鎖になっていると悟った。
「あぁ、兵馬様!」
侍女が珍しく道場の方まで駆けてきた。
きょろきょろと辺りを見回し、兵馬を見つけるとにこりと笑う。
「幽香房様がお呼びです」
◇
「ご用とは」
兵馬が身構えるのは、襖の向こうから漂う香のせいか。
それとも、目の前の女が纏う、嫌悪感を催す匂いのせいか。
―女は香女(こうじょ)と呼ばれ、幽香房より派遣され、器が香に慣れるための初期教育を担当する。
朝峯の部屋から少し離れた廊下。
香女は外の庭に視線を投げたまま、淡々と告げた。
「本日より、朝峯様の香を変えています」
相変わらず抑揚のない声。
兵馬の警戒心に気づいているのか、いないのか。
「危険なのですか」
「そういうわけではありません」
香女は身体を横に向けたまま、視線だけで兵馬を射抜く。
「今までの香は、香に慣れるためのものでした。
今日からの香は――余計なものを落とす香です」
「余計なもの…」
兵馬の胸に、不安がじわりと広がる。
「稽古の後、意識が曖昧になり、記憶が混ざることが予想されます。
そのとき、お付きの貴方には慌てずにいていただきたい」
「その香…どういうものなのですか」
「朝峯様という“記憶”を落とすものです」
「そこまで――!」
反射的に否を唱える。
香女はそこで初めて正面を向いた。
「再三申し上げています。朝峯様は“器”になるお方。
完璧な器に“己”は不要なのです」
声には初めて感情が宿っていた。
冷たく、どこか嘲るような色を含んで。
「“器”は本来十三で献上されます。
その前には、献上先の審査があるのです。
…時間は、足りない」
十三――その年を迎える頃には、朝峯は完全な“器”になっている。
今はまだ八つ。
それまでに、何をされるのか。
想像できないからこそ、恐ろしかった。
ゴトッ。
奥の部屋から鈍い音が響く。
「ッ!」
兵馬は襖を開け放った。
途端、濃い香が空気を押し出すように溢れ出す。
中央には床に倒れる朝峯の姿。
纏わりつく煙を手で払いながら、朝峯へ飛びつき肩を抱き起こす。
「朝峯様!」
武骨な手が、柔らかな頬を包む。
息はしている。
「落ち着いて」
香女がゆるやかに入ってきて、兵馬の隣に膝をつく。
その手が朝峯の小さな背を撫でる。
「説明したとおりにしてください」
冷たい声。
だが、その撫で方は妙に優しさを帯び、不気味だった。
数度撫でた後、朝峯の睫毛が揺れ、うっすらと目が開く。
「ぅ、ん……ぁ?…」
焦点が合わず、視線は兵馬も女も通り過ぎる。
「あ…れ……?あれ…?」
困惑が色濃くなっていく。
「朝峯様…!」
兵馬が呼ぶと、朝峯は彼を見て眉をひそめ、搾り出すように言った。
「あ、あさ、みね…って、なに?」
息を飲む。
作り物ではない、本物の無知の表情。
たった一度の香で――。
鼓動が速まる。手が震える。
兵馬は抱く腕に力が入りすぎぬよう、必死に抑えた。
「恐れることはありません。
すべて、貴方様のために良いことです」
香女が背を撫でながら淡々と告げる。
「……いい、こと…」
「ええ」
朝峯は少し香女を見つめ、再び目を閉じる。
やがて規則正しい呼吸が聞こえた。
その身体は、見た目以上に軽かった。
――こんな子が、“器”に。
直視を避けてきた現実が、容赦なく兵馬を呑み込む。
「三日後、また来ます」
香女の声が背後で響いたが、兵馬は振り向かなかった。
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