第4話 第二天使セレネ戦 其のニ
〈アージュ〉が高く唸り、爆ぜるように崩れ落ちた。
「まずは一体目……このまま次も!」
そう言ってリュカが《黒翼》を剣に変え、両手に構える。彼の背から伸びたもう片翼が呼応するように膨張し羽ばたくと、闇の粒子が風の逆流に乗って空間に渦を描きながら拡散していく。だが《黒翼》の羽ばたきと同時に、氷結領域の天頂に“裂け目”が生じた。重く曇った氷の天蓋が軋み、甲高い金属音のような異音が辺りに響き渡る。次の瞬間、雷鳴にも似た轟音が空を引き裂き、凍てついた空間の頂がひび割れ、音速を超えた破砕音が氷晶の雨を降らせた。
――〈ノクス〉。その名を冠する氷鴉が、まさに氷の断層から音もなく出現する。その身は漆黒の羽根に覆われているが、内側からは青白い冷気の波動が脈動し、周囲の熱を瞬時に奪い取っていく。空を滑るように飛翔するその動きは、視線を置いた次の瞬間には既に背後にいる――そんな錯覚を与えるほどの超高速。氷結領域の冷気と音波により、感覚そのものが鈍らされるこの空間において、〈ノクス〉の速度はまさに致命的な脅威であった。
「来る……!」
リュカは体を半回転させ、背後から迫る気配に反応する。だが、音も影も感じ取れない。代わりに首筋を撫でたのは、吐息のような氷の魔力だった。〈ノクス〉の翼が無音のまま広がり、そのままリュカの背中へ鋭利な嘴が突き刺さらんとする。刹那――彼の手が動いた。
《黒翼》の刃に闇の粒子を収束させ、凶鳥の出現地点を読んで振り下ろされた。その軌道は直線的でありながら、確実に傷を刻まんとするような鋭さを持っていた。刃が届くと同時に、《黒翼》の刀身から黒色の稲妻のような魔力が放たれ、空中に振動を走らせる。
そして——金属と氷が同時に砕けるような破砕音が、空を覆った。〈ノクス〉の胴体中央、核たる氷晶の一点が、的確に捉えられたのだ。視認すら困難だった鴉の輪郭が一瞬にして明確になり、その身体が空中で静止する。
「——砕けろ」
リュカの低い呟きと同時に、〈ノクス〉の身体は内側から光を放ち、まるで氷像が太陽光に照らされたかのように脆く砕けた。無数の氷片と羽根の欠片が重力に逆らうように空中で舞い、そこに残されたのは、僅かに残る冷気と黒翼に吸収された氷属性魔力の余波だけだった。
その光景を、セレネは確かに目撃していた。
霊獣〈ノクス〉が一閃にして断たれ、空中で氷晶の霧と化した瞬間。無表情に張りついた仮面のような顔に、かすかな揺らぎが走る。硬質な銀の瞳が、わずかに――ほんのわずかに震えた。
「……このままでは……」
吐息のように零れたその声は、冷たく、悲しみにも似た響きを帯びていた。
セレネの体内で、魔力の流れは既に臨界に達しつつあった。霊獣の召喚、領域の展開、精霊との連動詠唱による魔法の展開ーーすべてが彼女の魔力を削り尽くしていた。だが、それでも彼女は膝を折らない。
蒼銀の衣をはためかせ、彼女は静かに両手を掲げる。すると、その頭上に空間が軋み、無数の氷片が渦を巻くように収束し始めた。魔力を空間に織り込んだその中心に、それは顕現する。
「貫いて……〈氷の聖槍〉」
それは単なる魔法の産物ではない。かつて彼女が守り、そして失った民への想い。精霊たちとの誓約。神への赦しと、自らへの罰――すべてを束ね、魂の深層から編み上げた、最後の“祈りの凶器”であった。
彼女の唇が動く。凍てついた声が、静かに降り立つ。
「……消えなさい。このまま、あなたたちの選択が世界を壊す前に……」
その瞬間、氷結領域に低く唸る風が走る。槍が空を断ち、死の光条となって振り下ろされた。
天地が一つの白に染まるかのような冷たい終焉が迫っていた。
だが――
「それでも私たちは、未来を正すために選択し続けます!それが、私たちのやるべきことですのでッ!!」
そう叫びながらガルドは〈氷の聖槍〉の軌道上に躍り出た。盾を斜めに構え自身にありったけの身体強化をかけ、氷霧の中で聖槍の直撃を受け止めた。氷の槍が盾を粉砕し、鎧の外装が裂け、血飛沫が舞う。
だが、軌道は逸れた。
ガルドの決死の防御が、奇跡的に槍を逸らさせたのだ。
更にフィオナが結界を二重展開する事により亀裂だらけだった防御層を再構築する。そして全ての魔力が尽き、大技の反動で動けないセレネをリュカは見逃さなかった。
大地を蹴り一気に加速した剣先がセレネに肉薄し《黒翼》がセレネの腹部に突き刺さる。
「終わりだ…解け、〈吸魔の羽〉」
《黒翼》が静かに――しかし容赦なく――セレネの命を魔力に変え、その全てを啜っていく。
霊獣たちはセレネの魔力の枯渇と共に、泡のように消えていった。
すると《黒翼》がセレネの中に巣食っていた神の魔力を吸い出したからだろうか、思いがけないものが呼び起こされた。
長き氷の眠りに封じられていた、ひとり人間の心が、ひと筋の光を取り戻す。セレネの目に、初めて明確な心の色が差した。
「私は……誰を、守るために戦っていたの……?」
その呟きは震えていた。いや、震えていたのは彼女の心そのものだった。
「もう……誰もいないというのに……」
《黒翼》の刀身が深く刺さった腹部から、氷が逆流するように広がっていく。セレネ自身の力によって、自身が凍り始めていた。だがそれは、痛みでも死でもなかった。ただ、静かな“還元”だった。
「……もうすぐ……皆に……あの頃に戻れるのね……」
その声は風に溶け、身体は凍りの彫刻のように硬質になり、そしてセレネ・ルミナの肉体は、細かな結晶となって砕け、白い雪と化した。
光に溶け、天へと昇るその粒子が描く軌跡は、まるで彼女の魂がかつて護りたかった民のもとへと還る旅路のようだった。
誰も言葉を発しなかった。氷の残響と共に、そこにはただ、かつての誇り高き王の“安息”があった。
リュカたちは、また一つ、その記憶を胸に刻みながら、次の守護天使との戦いへと足を踏み出していく。
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