【第四章④】
朝は少し早めに目が覚めた。
父さんが用意してくれていたトーストと目玉焼きを、黙って口に運ぶ。
ワンルームのキッチンに漂う焼きたての香りが、なぜか懐かしく感じられた。
父さんは僕より一足先に出ていった。
仕事へ向かう背中に、軽く「いってらっしゃい」と声をかけたけれど、返事は聞こえなかった。
たぶん、気づかなかっただけだと思う。
今日は、上野と渋谷をまわる予定にしていた。
父さんが紙に書いてくれたルートメモを、折りたたんでポケットに入れる。
小さな字で、路線図と乗り換えの駅名が丁寧に並んでいた。
まずは、渋谷を目指すことにした。
駅に向かう道すがら、僕の足取りはどこかぎこちなかった。
電車の中では、ひたすら次の駅名を目で追い続けた。
間違えてはいけない、降りそびれてはいけない。
乗り換えのたびにメモと駅名を見比べて、ひとりで緊張していた。
それでも、なんとか渋谷に着いたときには、少しだけ息をつけた。
改札を出た瞬間、目の前に広がった人の波に、思わず立ち止まる。
――ここが、渋谷。
ハチ公前の広場には、待ち合わせをする人、人、人。
スクランブル交差点では、信号が変わるたびに何百人もの足音が一斉に動き出す。
ビルは高く、空は遠かった。
見上げるたびに、僕の知らない色や音が押し寄せてくるようだった。
道玄坂を歩けば、109の看板が視界に飛び込んできた。
テレビで見たことのあるその建物が、ほんとうに目の前にあることが、不思議だった。
大都会の景色に、僕はただ圧倒されていた。
無意識のうちに、その眩しさに惹かれていた。気づけば、この場所に、もう少しいてみたいと思っていた。
歩き疲れて、近くのカフェに入ることにした。
ーーカラン。
ドアベルの音が、肩にかかっていた緊張をふわりとほどいてくれる。
全国チェーンのカフェみたいだったけれど、僕にはまだ馴染みがなかった。
メニューは英語が多くて、どこを見ればいいのか迷ってしまう。
うしろには何人か並んでいて、少し焦った。
――どうやって頼めばいいんだろう。
レジ前で戸惑いながら、ふと目が合った店員さんに、小さく頭を下げる。
なんとかメニューを指さして伝えると、店員はやさしく頷いてくれた。
カウンター越しに声を出したとき、
その声は少しだけ、うわずっていた。
窓際の席に座って、アイスコーヒーを一口。
ほんのわずかに苦くて、でも不思議とその味が、今の自分には合っている気がした。
気づけば、今日はまだ恵梨に連絡をしていなかった。
ポケットから携帯を取り出し、画面を開く。
《今、渋谷に着いた。すごい人混み。祭りでもやっちょるんかって思ったくらい》
送信ボタンを押すと、数分も経たないうちに返信が届く。
《へぇ、それはすごそうやね。私も見てみたいなぁ》
店内のざわめきの中で、画面の文字だけが静かにそこにあった。
《いつか、一緒に見に来ようや》
打ち込んだその文が、ほんの少しだけ気恥ずかしくて、けれど、それ以上に自然だった。
《それは楽しみ。……案内してね?》
《もちろん。そっちは友達と楽しんじょるか》
《うん、今、下松のボーリング場に来て、これからカラオケしようと思うちょるよ》
画面に浮かぶ短いやりとりが、知らない土地での僕に、小さな灯りのように寄り添ってくれていた。
知らない街にいるはずなのに、不安がどこかに消えていた。
その後、しばらく渋谷を歩き回ったものの、何をしていいのか分からず、早々に引き上げることにした。
この街には、何か目的を持っている人しか馴染めないような気がした。
帰り道の途中、上野に寄ってみる。
地図アプリを頼りに、駅から上野公園まで歩いてみた。
木々が広がる道をゆっくりと歩きながら、思った。
――東京にも、ちゃんと自然はあるんだな。
けれど、それでもやっぱり地元の山や川の空気の方が、僕にはしっくりくる気がした。
整えられた植栽や舗装された遊歩道には、どこか「都会の自然」らしい整然さがあった。
街が変わるごとに、見える風景も人の顔ぶれも、空気の色さえも違う。
そのすべてに、人の多さという共通点があることに、改めて驚かされる。
歩き疲れて、上野の駅近くのラーメン屋に入った。
カウンターに腰を下ろし、湯気の立つ器が運ばれてくるのを待つ。
――下松のラーメンは、牛骨が主流だったな。
ふと、そんなことを思い出す。
よく通っていたあの店の、少し甘めのスープ。
目の前にあるこの豚骨醤油のラーメンとは、まるで別の食べ物のようだった。
東京の味に、ほんの少しだけ、軽い戸惑いを覚えた。
次の日は、父さんに千葉の街を少しだけ案内してもらった。
最初に連れて行ってもらったのは、江戸川の土手沿いだった。
川の向こうには東京のビル群が霞んで見えて、反対側にはのどかな住宅地が広がっていた。
風が強くて、シャツの裾が軽く揺れた。
そのあと、小さな駅で降りて、昔ながらの商店街を歩いた。
柏や流山あたりの、どこか懐かしい風景だった。
時間もなかったから、観光地ではないけれど、父さんが「ふだんの場所」として案内してくれるのが、少し嬉しかった。
帰り道、僕は小さな土産屋に立ち寄った。
地元の友達への簡単なお菓子をいくつか選んで、ふと、ひとつの棚の前で立ち止まる。
透明なケースの中に、小さな藤の花のキーホルダーが並んでいた。
淡い紫の色が、なんとなく目に留まった。
――恵梨、こういう色、好きだったよな。
どこか迷うことなく、それをひとつ手に取る。
形も色合いも、どこか恵梨に似合いそうだと思った。
自分用にも同じものを選んだのは、なんとなく――お揃いにしたら、ちょっと可愛いかもしれないと思ったからだった。
出発の時間が近づき、僕は父さんと一緒に駅のホームに立っていた。
ホームには冬の風が吹き抜けていて、背中のリュックが少し揺れた。
「父さんも、今年中には山口に戻ると思うから……母さんにもそう伝えといてくれ」
「うん。体には気ぃつけて」
それだけの言葉だったけれど、不思議と十分だった。
父さんは手を振るでもなく、ただ小さくうなずいた。
僕は軽く手を上げて合図をすると、そのまま新幹線に乗り込んだ。
席に着き、窓の外をぼんやりと見つめながら、携帯を取り出す。
《今、新幹線乗ったけぇ。今日の夜には徳山に着くよ》
送信ボタンを押してすぐ、画面が震えた。
《分かった。明日会えるの楽しみにしちょるよ》
その文字を見たとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。
車窓の外はすっかり暗くなっていた。
遠くの街の灯りが、小さな粒のように流れていく。
音も匂いも違うこの場所から、少しずつ日常が戻ってくるのを感じていた。
――もう少しだけ、東京の景色を見ていたかったな。
そう思いながら、僕は目を閉じた。
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