【第五章④】

 それからの時間は、思っていたよりも早く過ぎていった。


 東京の専門学校に進学することを決めた。

特別な受験があるわけでもなく、出願書類を揃えて、指定された期日までに提出すれば、それでよかった。

あれだけ迷ったわりに、決まってしまえば、あっけないものだった。


 一度だけ、家を決めるために父さんとふたりで東京へ行った。

 日帰りの強行スケジュールで、いくつかの物件を内見して、最後はもう「ここでいいか」と決めた。

 その日のことは、あまりはっきり覚えていない。ただ、東京の空気が、少しだけ重く感じたことだけは、今でも記憶に残っている。


 それ以外に、特別やることはなかった。


 僕は、友達に紹介してもらったスーパーでアルバイトを始めた。

 レジ打ちも品出しも初めてのことばかりだったけれど、意外と悪くなかった。


 その合間には、自動車学校にも通っていた。

 社会人になってからでは時間が取れないだろう、と親に言われたのがきっかけだった。

 最初は面倒に感じていたけれど、言われてみれば確かに、と思って申し込んだ。


 東京に行くこと、そして恵梨と離れること――その実感は、まだなかった。


 恵梨とは相変わらず、いつも通りに会っていた。

 映画を観たり、近くの喫茶店で他愛もない話をしたり。あの日以来、東京の話はしていない。


 三年生の三学期は、登校日もだんだん少なくなる。

 一・二年の頃には気づかなかったけれど、卒業を控えた生徒というのは、案外やることが少ないものだと知った。


 時間は、静かに、それでも確かに流れていった。


 そして、卒業式の日がやってきた。


 体育館のステージには、見慣れた垂れ幕と、少しだけ大人びた制服の僕たち。

 どこかよそよそしく感じるのは、自分たちがまだこの学校の中にいるのに、もう「過去」の扱いを受けているからかもしれない。


 名前を呼ばれ、一歩前に出て証書を受け取ったとき、ふと恵梨の方を見た。

 彼女もまた、真っ直ぐ前を見ていた。

 あのとき、彼女の頬を風がなでていたような気がした。


式が終わって、ゆるくざわつき始めた体育館の中。太一がこっちに寄ってきた。


「この後、みんなで集まって遊びに行こう思っちょるけど、拓海も行くやろ?」


「行くよ。場所どこやっけ?」


「下松のボーリング場でやろうと思っちょるよ」


 言い終える頃には、太一の視線がどこかへそれていた。

 僕もつられてそちらを見てみると、少し離れた場所に恵梨の姿があった。


 こっちをチラチラ見ているようだった。気のせいかとも思ったけれど、そうじゃなかった。

 視線が合ったとき、一瞬だけ、彼女の肩が小さく揺れた気がした。


「じゃあ、また後でな」


 太一はそれ以上何も言わず、すっと去って行った。


 恵梨が小走りでこちらに来る。胸の前で手を組んで、少しぎこちない足取りだった。


「卒業、おめでとう」


「ありがとう」


「もう、拓海の制服姿、見れんようになるんやね」


「そうやね。でも、希望があれば着てくるけど」


 冗談のつもりで笑って返すと、恵梨は一瞬きょとんとしてから、小さく笑った。


「バカ。……もう、学校で会えんの、少し寂しい」


 恵梨の声は、かすかに揺れていた。

 目元は笑っていたけれど、その奥に、小さな波が立っているように見えた。


「これから春休みに入るし、いっぱい会えるよ」


 なんとかフォローしたけれど、恵梨は何も言わずに、ただ小さくうなずいた。

 その仕草が、妙に丁寧で、かえって切なく感じた。


「在校生は教室に戻れー」


 遠くで先生の声が響いた。


「……もう、行かんと」


 恵梨は一度だけ瞬きをして、それから、ふっと視線を逸らした。

 背中を向けたとき、その姿が少し遠くなったように感じた。


 僕は、しばらくその背中を見送ってから、そっと逆の方向へ歩き出した。


 卒業生の列に戻ると、太一たちが手を振っていて、そのまま流れでファミレスへと向かった。注文を済ませ、ドリンクバーのコップをくるくる回しながら、みんなと笑って思い出話に花を咲かせた。


 話は自然と、これからの進路や春休みの予定に移っていった。


 そのとき、急に実感が込み上げてきた。


 卒業したんだな、って。


 明日からの生活が、まだ全然想像できなかった。


 その後、僕たちはカラオケに移動した。空はすっかり暗くなっていて、店の外にはネオンの光がぼんやりと揺れていた。


 誰かが熱唱して、誰かが泣き笑いして、マイクがぐるぐると順番に回っていく。そんな賑やかな時間がしばらく続いた。


 僕がトイレから出たとき、太一がひょいと手を上げて合図した。


「ちょっと、外出ん?」


「え、今?」


「ええけえ。ちょっとだけ」


 太一はそう言って、ドアを開けて外に出ていった。

 僕は少しだけ戸惑ったが、それについて行った。


 カラオケ店の出入り口を抜けると、夜風が思っていたより冷たくて、シャツの裾がふわりと揺れた。

 駐車場の端、自販機のそばに立つと、太一はポケットに手を突っ込んだまま、視線を夜空へ向けた。


 最近は、恵梨と会うことが増えていたし、他の友達ともいつも誰かしら一緒だった。

 だからこうして太一と二人きりで話すのは、本当に久しぶりだった。


「……最後やけぇ、ちょっと言うとこう思ってな」


 太一の声は、いつもより少し低く、落ち着いていた。


「俺さ、正直、ちょっと寂しかったんよ。拓海が東京行くって聞いたとき」


「……うん」


「止めようとか思っちょらんし、応援もしとる。でも、なんていうかさ……」


 言いよどんだあと、太一は苦笑いを浮かべた。


「いざ現実になると、やっぱちょっときついなって。お前、なんやかんや俺の横におる時間、多かったけぇさ」


「それは、お互い様やろ」


 僕がそう返すと、太一は「そっか」と短く笑って、視線を足元に落とした。


「まあ、でも……やっぱ行くんやな」


「うん。もう、決めたことやけ」


「そっか。……まぁ、しょうがねぇな」


 それは、少し照れくさそうな笑顔だった。

 まるで、長く続いた日常にそっと折り目をつけるような、静かな言葉だった。


「たまには連絡してこいよ。俺の連絡無視すんなよ?」


「メールくらいはするわ」


「それでええわ。」


 くだらないやり取りだったけど、それが妙にありがたかった。


 こういう友達がひとりいることが、どれだけ幸せか。

 僕は、この夜風の中で、少しだけ分かった気がした。


「戻るか。誰か暴れてそうやしな」


「……うん」


 二人でカラオケの自動ドアをくぐると、中の騒がしい音と笑い声が、また日常に引き戻してくれた。


 いつも当たり前のように顔を合わせていた友達。

 そのひとりひとりの背中を見送るたびに、もうこの景色も日常ではなくなるのだと、ふいに胸が詰まった。


 帰り道。

 自転車を押しながら、ポケットから携帯を取り出す。夜風が指先をかすめて、少しだけ冷たさを感じた。


 《今、解散したよ》


 送信して少しすると、画面が光った。


 《楽しかった?》


 《うん、ずっと笑いっぱなしやったよ》


 《そっか。よかった》


 文字のやり取りだけなのに、どこか声が聞こえた気がした。やさしくて、少し照れたようなトーンで。


 《春休み入ったら、どこ行こうか》


 一拍置いて、返信がくる。


 《ドライブデート行きたい。憧れやったから》


 《ええね。ちょっと遠出しようか》


 その言葉を送ってから、僕はふと画面を見つめたまま立ち止まる。


 携帯の光が、手元を照らしている。街灯の少ない夜道に、小さな光だけがぽつんと浮かんでいる。


 恵梨との、これからも――どうなっていくんだろう。

 未来のことなんて、まだうまく想像できなかった。


 でも、こんなふうに「またどこかへ行こう」と話せることが、ただ嬉しかった。


 ……山口にいられる時間も、もう刻一刻と迫っている。

 そう思ったら、少しだけ胸がざわついた。

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