【第七章②】
二〇〇六年(平成十八年)、彼がこの街を去る日。
目が覚めたとき、部屋はもうすっかり明るくなっていた。
カーテンの隙間から射し込む光はやわらかくて、まるで普段と何も変わらない朝を告げているみたいだった。だけど、私の胸の奥では、まったく別の時間が流れていた。
今日は、拓海がこの町を出る日。
そう思った瞬間、心臓がぎゅっと縮む。息を吸っても吸い足りないような、落ち着かない感覚が全身を支配する。
ベッドの上で携帯を手に取り、ホーム画面を見つめた。何度も、メール画面を開いては閉じ、文字を打っては消す。
「行かないでほしい」なんて、そんなこと送れるはずがない。
「頑張ってね」って、軽く言いすぎるのも違う気がした。
けれど、何も言わずに見送るなんて、もっとできなかった。
母が階下で食器を並べる音がする。近所の犬が吠える声も聞こえる。日常はいつも通り流れているのに、私の中だけ時間が止まったみたいに重かった。
気づけば、私は靴を履いて家を出ていた。会う約束なんてしていなかったのに。
どうしても――黙って見送るなんて、できそうになかったから。
春の風は思っていたより冷たかった。道端に並ぶ花壇のパンジーが小さく揺れて、少しだけ心細さを増幅させる。
駅に近づくほど、足取りは速くなった。胸の奥がざわついて、歩幅を小さくすることもできなかった。
駅のベンチに腰を下ろし、スマホの画面を点けたり消したりする。時刻表示が一分進むだけで、心臓が跳ねた。
電車のアナウンスが響くたびに、体がびくりと反応する。
ふと顔を上げると、改札の向こうに拓海の姿があった。スーツケースを引き、まっすぐ前を見て歩いてくる。
その姿を見た瞬間、胸が熱くなった。
「……恵梨?」
名前を呼ばれ、私は反射的に立ち上がる。笑おうとしたけれど、唇の端がかすかに震えた。
「……来ちゃった。やっぱり黙って見送るの、嫌やったけぇ」
本当は泣きそうで仕方なかった。けれど、最後くらいは笑っていたかった。悲しい顔のまま別れるなんて、どうしても嫌だったから。
「……徳山までよね? うちもそこまで一緒に行ってもええ?」
バッグの紐を握りしめ、そう言った。拓海は少し驚いた顔をした後、静かにうなずいた。
電車が来て、私たちは並んで座った。車内は思ったより空いていて、座席の青い布地がやけに冷たく感じられた。
窓の外では、町の景色が後ろへ流れていく。田んぼに映る水面がきらきら光り、川沿いの桜はほとんど散って、新緑の葉が揺れていた。
ただ隣に座っているだけで、ほんの少し落ち着く。だけど――時間は残酷に進んで、あと数駅でこの並びも終わってしまう。
沈黙に耐えきれず、私は口を開いた。
「初めてちゃんと話したのって……あの神社のときやったよね」
拓海が少し笑って「視線、泳いどった」なんて言うから、思わず吹き出してしまった。
懐かしくて、照れくさくて、でも愛おしくて。心の奥にまだ冬の冷たさが残っていても、そのひとときだけは春みたいにやわらかかった。
揺れる電車の中、私たちは他愛ない思い出をいくつか並べた。テスト前に図書室で勉強したこと。帰り道で雨に降られて、傘を取り合ったこと。
どれも取るに足らない場面なのに、ひとつひとつが宝物みたいに蘇ってくる。
やがて徳山駅に着いた。アナウンスが響くたび、現実が急にせり上がってくるようだった。
“ああ、本当にもうすぐなんや”――そう思った途端、胸が詰まる。
ホームに並んで立つ。スーツケースの車輪がごとごと音を立て、春の風が足元を抜けていく。
「なんか、現実味ないね……ほんとに行くんやね、拓海」
笑おうとしたけど、唇の端が揺れた。声はかすかに震えていた。
発車ベルが鳴る。私は思わず拓海の袖をつまんでいた。
「……気をつけて。ほんまに」
精一杯の言葉だった。
拓海が電車に乗り込み、こちらを振り返る。
「また、ね」
短い言葉。けれど、その二文字が胸に深く残った。
私も笑ってうなずいた。本当は大きく手を振りたかった。だけど、振った瞬間に涙がこぼれる気がして、どうしてもできなかった。
ドアが閉まり、電車が動き出す。拓海が視界から遠ざかっていく。
列車は春の光の中に溶けるように小さくなっていった。
頬を伝う涙を袖で拭う。でも、止まらなかった。ひとつ、またひとつ。
最後まで笑っていたかったのに。泣き顔なんて見せたくなかったのに。
だからせめて、唇の動きだけで伝えた。
「……いってらっしゃい」
春の風が、目の奥に残る熱を揺らしていく。
人の気配が戻ってきたホームで、私はしばらく立ち尽くしていた。
電車が遠ざかり、春の光に溶けていった。
残された静けさの中で、胸の奥に言いようのないざわめきが広がる。
――もしかしたら、これが最後の春になるのかもしれない。
根拠なんてない。ただの思い過ごしに違いない。
そう打ち消そうとしたのに、その影は消えずに胸の底に沈んでいった。
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