【第二章③】

 六月に入ったころだった。

 新しいクラスにも少しずつ慣れてきたが、まだ気を抜けるほど打ち解けたわけでもない。

 昼休みや放課後の空気が、どこか湿っているのは、梅雨のせいだけじゃなかった。


 その日、僕は帰宅して、制服を脱いだままベッドに倒れ込んだ。

 部屋の隅で充電していた携帯を手に取る。黒い折りたたみのガラケー。使い慣れたキーで、「新規作成」を選ぶ。


 本文は、たった一行。


 《もうすぐ期末テストやね。最近、元気にしちょる?》


 迷うふりをしていたけれど、たぶん最初から送るつもりだった。

 送信ボタンを押して、画面が消えるのを確認してから、携帯を伏せる。


 しんとした部屋の中に、雨の音だけが静かに響いていた。

 窓ガラスに当たる水音が、かすかにリズムを刻んでいる。


 返信が来たのは、二時間後くらいだった。

 夕飯を終えて、何気なくテレビを眺めていたとき、ポケットの中で携帯が震えた。


 《最近テスト勉強とかで忙しいですが、元気にしてますよ》


 相変わらず、きちんとした文章だった。


《勉強、ほんまにおつかれさま。よう頑張っちょるね。そろそろ夏休みやけど、どこか行く予定とかあるん?》


 少し間を置いてから、また返信が届いた。


  《家族と旅行、それから友達と遊びに行こうかと思っています》


 読みながら、「そっか」と思った。

 それ以上でも、それ以下でもない、普通の会話。

 でも、どこかで淡い期待をしていた自分に気づいて、少しだけ肩が落ちた。


 僕はもう一度携帯を開いて、少し考えてから文面を打った。


 《そっか。だいたい同じやね。俺も今んとこ、友達と遊ぶくらいしか予定ないんよ》


 他愛もないやり取りだった。

 けれど、ほんの少しだけ、「なにか」が始まらないかなと、そんなふうに思っていた。


 噂を聞いたのは、夏休みの少し前だった。


「高坂、三年の先輩と付き合っちょるらしいで」


 放課後、友達とコンビニの前で他愛もない話をしていたとき、誰かが何気なくそう言った。

 出てきた名前は、僕が苦手な先輩の名前だった。

 そのとき、ちょうどペットボトルの蓋に手をかけていて、指先がそこで止まった。


 ……なんで、あいつとなんか。


 言葉にはしなかった。聞き返すことも、笑って流すこともできなかった。


 噂の出どころも、誰が言い始めたのかも、確かめる気になれなかった。

 ただ、それまで当たり前のように続いていたメールのやり取りが、急に重たくなった。


《今日も暑かったね。チャリ通ほんまきつい》


《うちの近所、セミ鳴き始めました》


 他愛のないやり取りは、まだ続いていた。

 けれど僕の返信は、ほんの少しずつ遅れていった。

 送る前に何度も読み返すようになり、返さないまま朝が来ることもあった。


 彼女からのメッセージは変わらず届いていた。

 でも、それも少しずつ、減っていった。


 終業式の日。

 光駅のホームで、一人イヤホンをつけて立っている彼女の姿を見かけた。


 声はかけなかった。

 気づかれないように、少しだけ離れた場所に立った。


 たぶん、声をかければ、いつも通りの返事が返ってきたのかもしれない。

 けれど、その一歩が踏み出せなかった。


 噂のことも、メールのことも、何か聞きたい気持ちはあった。

 でも、そのどれにも、うまく手が届かなかった。


 電車が到着し、彼女は僕に気づくことなく、乗っていった。


 夏休みに入っても、ときどき携帯を開いては、彼女の名前を眺めていた。


 連絡を取ろうと思えば、取れた。

 けれど理由もなく距離を置いてしまった自分の弱さが、画面の向こうの彼女を遠ざけていた。


 メッセージを下書きしては、消す。

 何かを言うには、もう遅すぎる気がしていた。


 それでも、何もしないまま時間だけが過ぎていくのが、胸のどこかをざらざらと痛ませた。


 夏が終わり、秋になった。


 文化祭の準備で教室が慌ただしくなる頃には、彼女の姿を目で追うこともなくなっていた。


 駅ですれ違うことはあっても、目が合うことはなかった。

 仮に目が合ったとしても、きっとどちらも笑えなかった。


 冬になると、もう誰も一年生の話をしなくなった。

 僕は、特に理由もなく、短期のバイトをいくつか掛け持ちした。


 風の強い日が多く、自転車通学がしんどかった。


 何かを始めるでも、忘れるでもなく、時間だけが静かに流れていった。


 卒業式の日、先輩たちが背を向けて歩いていくのを、僕たちは静かに見送った。

 彼女と噂になった先輩の姿を目にすると、胸の奥が少しだけざわついた。

 でも、そのざわめきも、春の風に紛れていくような気がした。

 噂を聞いた頃に比べれば、いくらかましにはなっていた。

 ……ほんの少しだけ。

 

 新しい年が明けて、僕は三年になった。


 通学路に残る冬の空気は、少しだけ硬くて、遠かった。

 クラスの誰かが受験の話をし始め、放課後の雰囲気が少しずつ変わっていった。


 けれど僕の中では、まだ未来の実感がつかめずにいた。


 彼女の名前を思い出すことも、少なくなった。

 それでも、通学路や駅の景色の中に、ふと彼女の姿を重ねることがあった。


 でも、自分から動こうとは思わなかった。

 ――所詮、何度かメールを交わしただけの相手なのだから。


 ある日の放課後。

 僕は、いつも通りの道を歩いて、電車に乗り、下松駅に着いた。


 コンビニで何か買って帰ろうか、それともこのまま家まで帰ろうか。

 そんなことをぼんやり考えていたとき、ポケットの携帯が震えた。


 一件のメール。差出人の名前を見た瞬間、心臓がわずかに跳ねた。


《先輩、今どこにいますか?》


 高坂恵梨。

 ――あの噂以来、僕らの間には、長い沈黙があった。


 それでも、手は自然と返信を打っていた。


《今、下松駅。どうしたん?》


 冷たい風が頬をかすめた。

 僕は自転車置き場の隅に移動し、画面をじっと見つめていた。


《すいません。また自転車が動かなくなってしまって……》


《場所は? すぐ行くけぇ、待っちょって》


《花岡のショッピングモールの近くです》


 携帯をポケットに戻すと、自転車のハンドルを握った。


 アスファルトをこするタイヤの音だけが、周囲に残った。


 《近くまで来たけど、場所がはっきりわからん。電話番号、送ってくれん?》


 返信はすぐに届いた。番号が記されていた。


 通話ボタンを押すと、数秒の呼び出し音のあと、聞き覚えのある声が耳に届いた。


「……もしもし」


「中原先輩、ですか?」


 声は変わっていなかった。

 少しだけ緊張したような、それでも、どこか懐かしい響きだった。


「うん。今、近くにおると思うんやけど……どのへん?」


「ショッピングモールをちょっと過ぎて、花岡の交差点の方にいます。少し奥の方です」


 あたりを見回すと、制服のリボンを揺らしながら立っている彼女が見えた。


「見えた。すぐ行くけえ」


 信号を渡って近づいていくと、彼女は少し不安そうな顔をしてこちらを見ていた。


「遅くなってごめん。ちょっと見せてみて」


 しゃがみ込んで、チェーンのあたりを覗き込む。切れていた。

 どう見ても、自力で直せる状態じゃなかった。


「これは……俺じゃ無理や。近くに自転車屋があったと思うけえ、ちょっと見てくる。待っちょって」


 彼女は小さく頷いた。


「やっちょった。しかも今すぐ見てくれるって」


 僕は彼女の自転車を引きながら、モールの方へ歩き出した。

 自分の自転車はその場に置いていくことにした。


 ふたり並んで歩くには、少しだけ狭い歩道だった。

 沈黙のまま歩けば、すぐに目的地に着いてしまいそうで、僕は思いきって声をかけた。


「……元気にしちょった?」


「はい、まあ……」


 それだけ言って、彼女は視線を前に戻した。


「なんで……俺に連絡してきたん?」


 問いかけたあと、ほんの少しの沈黙があった。


「前に、“壊れたらまた言え”って、言ってくれたので」


「……そうやったっけ」


「はい。……他に、頼れる人もいなかったので」


 その言葉に含まれていた空気が、ほんの少しだけ胸に引っかかった。

 なんでかは分からんけど、悪い気はしなかった。


 自転車屋では、思ったよりもすぐに修理が終わった。


「修理代、三千円です」


 店員の声に、彼女が少しだけ困ったような顔をして僕の方に近づいた。


「……すみません、お金足りないです」


 僕は財布を出した。


「ええよ。出しとくけぇ」


「でも……」


「バイト代、ちょっと残っちょるし」


 彼女は何かを言いかけたが、口を閉じて、小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 店を出ると、陽はもうほとんど沈んでいた。


 彼女は自転車にまたがり、ペダルを軽くこいだ。


「本当に、ありがとうございました。……今度、ちゃんとお金、返します」


「別に急がんけぇ。気をつけて帰りぃ」


 彼女は小さく会釈をして、ゆっくりと走り出していった。

 その背中を、僕はしばらく見送っていた。


 まだ空気が、ほんの少し冷たかった。

 

 家に帰り、ご飯を食べて、風呂に入り、テレビを見る。

 いつも通りの毎日。何かが変わったわけでもないのに、どこかだけ少し違っていた。


 画面の下に、メールの通知が表示された。

 差出人の名前を見た瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。


《今日はありがとうございました。先輩、明日の放課後は予定ありますか?》


 文字の丁寧さが、彼女らしいと思った。

 僕はリモコンの音量を下げて、携帯を手に取った。


《うん、特に用事ないけど。何かある?》


《お金返したくて》


 そんなに急がなくてもいいのに、と思った。

 返してもらうことよりも、こうしてやり取りが続いていることの方が、ずっと嬉しかった。


《そんな急がんでもよかったのに。今日の今日やけぇ》


《親から少しもらえたので、大丈夫です》


 しっかりしてるなと思いながら、少し寂しくもあった。

 自分のことは自分で何とかできるんだって、言われた気がして。


《そっか。でも、ほんとに無理してない?》


《してません。ちゃんと早く返したかっただけです》


 “ありがとう”って、言い方はいくらでもあったはずなのに。

 どうしても素直になれない自分がいた。


《わかった。じゃあ、明日の放課後、どこかで待ち合わせしようか》


《はい。……また連絡しますね》


 返事がくるまでの数分が、やけに長く感じた。

 たったこれだけのやり取りなのに、鼓動のリズムがずれていた。


《うん。明日も学校だから早く寝なよ》


《ありがとうございます。おやすみなさい》


 画面を閉じても、手はしばらくそのままだった。


 翌日の放課後、僕は少し緊張しながら待っていた。


 待ち合わせ場所は、僕と彼女の家のあいだにある花岡八幡宮という神社。

 年末の初詣では人であふれるけれど、それ以外の季節は、ほとんど誰もいない。

 その静けさが、今日の目的にはちょうどよかった。――恥ずかしかったからだ。


 それに、変な噂が立つのも避けたかった。彼女も、きっとその方がいいと思ったから。


 鳥居の前で待っていると、遠くから自転車の音がした。

 見慣れた姿が、少しずつ近づいてくる。


 僕は軽く手を挙げた。彼女は自転車を押して、ゆっくりこちらに歩いてきた。

 そして、立ち止まり、封筒を取り出す。


 「……あの、これ、ありがとうございました」


 「全然いいよ。早く返してくれて、ありがとう」


 少しだけ、間が空いた。


 彼女が視線を逸らしながら、そっと口を開く。


 「……じゃあ」


 彼女が背を向ける。その瞬間、僕は――迷いながらも、声を出した。


 「あの。もし、時間あったら……ちょっと、話さない?」


 風が吹いた気がした。沈黙が、長く感じられる。

 心臓の鼓動だけが、やけにうるさく響いていた。


 「……いいですよ」


 振り返る彼女の顔は、今でも忘れられない。

 少し驚いたようで、それでもどこか、柔らかくて。


 僕たちは、並んで神社の階段をのぼった。 


 何を話そうかと考えながら歩いていたら、気づけば沈黙が続いていた。

 その間に耐えきれなくなって、僕は思わず声を出す。


 「……年末、この神社来たりする?」


 「はい。今年は、両親と一緒に来ました」


 「俺は友達と来たんよ。……もしかしたら、すれ違っとったかもしれんね」


 「あ、知ってます。……少し、見かけました」


 「え、そうなん?」


 「はい。でも、声はかけませんでした」


 そこまで言って、彼女がふっと笑った。僕もつられて笑った。


 そうしているうちに、いつの間にか本殿までたどり着いていた。


 境内の隅に、青いベンチがひっそりと置かれている。

 どこか昔の映画に出てきそうな、くたびれた色をしていた。


 「……ちょっと、休もっか。登り疲れたし」


 「……うん」


 僕はベンチ脇の自販機まで歩き、飲み物を選びながら尋ねた。


 「何飲みたい? 誘ったの俺やけぇ、奢るよ」


 「じゃあ……お茶が、飲みたいです」


 渡したペットボトルを、彼女は両手で大事そうに受け取った。

 僕も隣に腰を下ろす。


 「もうちょっと早う来ちょったら、桜が咲いちょったかもしれんね」


 「ですね。……ここの桜、すごく綺麗ですもんね。人も少ないし、穴場スポットです」


 ふと、隣を見る。

 斜めから射す夕陽が、彼女の髪を透かしていた。

 こんなふうにちゃんと顔を見たのは、今日が初めてかもしれない――そんなことを、思った。


 少しだけ、息を整えて、口を開いた。


 「……その、ここに……彼氏と来たり、とか、せんの?」


 彼女は少しだけ目を見開いて、首をかしげた。


 「……彼氏、ですか?」


 「……去年の三年の先輩と、付き合っちょったって噂で聞いた」


 言ってから、やっぱり聞くべきじゃなかったかもしれないと思った。

 でも彼女は、少し目を伏せたあと、ぽつりぽつりと話しはじめた。


 「……付き合ってました。けど……結局、一回も会ってないです」


 「メールを、少しだけ。……あのグループの人たち、ちょっと怖かったから、ちゃんと断れんくて」


 声の調子は淡々としていたけど、ところどころで言葉が間延びしていた。

 その端々に、少しだけ笑いが混ざっていた。


 「何度か、会おうって言われたんですけど……全部、断ってて。

  そしたら、自然に連絡も来んくなって……それで、終わりです」


 その話を聞いて、僕は――少しだけ、胸をなで下ろした。


 「ふふ……じゃけぇ、先輩からも連絡来んようになったんかなって思いよったです」


 「……ごめん。付き合っちょるって思うたけぇ、連絡せん方がええかって……勝手に、決めてしもうて」


 「……嫌われたんかなって、ずっと思うちょったです」


 うつむきながらそう言った彼女の声は、小さくて、やけに真っ直ぐで。


 その視線に何も言えなくなって、僕は、ただ静かにうなずいた。


 「……今日、話せて良かったです。誤解、解けたから」


 「うん。……俺も、ほんと、そう思う」


 それ以上、すぐには言葉が出てこなかった。


 でも、何か話さなきゃと思って、僕は少し声を整えて聞いた。


 「……今さらやけどさ、俺、なんて呼べばええ?」


 彼女は少しだけ首をかしげるようにして答えた。


 「友達からは……普通に恵梨、って呼ばれます」


 「じゃあ、俺も……恵梨って、呼んでもええ?」


 そのとき彼女は、ふっと目を伏せて――

 でもすぐに、顔を上げて、少しだけ頬を赤らめながら言った。


 「……はい。嬉しいです」


 その言葉が、やけにあたたかく感じられた。


 そこからは、さっきまでのぎこちなさが嘘みたいに、ぽつりぽつりと会話が続いた。


 今日の天気のこととか、教室のこととか。

 くだらない話ばっかりだったのに、なぜかずっと笑っていられた。


 見上げた空は、もうだいぶ暗くなっていて――

 神社の木々の影も、静かに深くなっていた。


 帰り道。階段をゆっくり降りながら、僕は少し迷って、それでも聞いてみた。


 「……恵梨は、徳山の夏祭り、誰かと行くん?」


 このあたりじゃ、徳山の夏祭りと冬のツリー祭りが有名だった。

 そのどちらかに、好きな人と行くのが――中高生の、小さな憧れだった。


 「……まだ、決まってないです」


 「じゃあ。もし、行く相手決まらんかったら、俺と行かん?」


 我ながら、不器用すぎる誘い方だったと思う。

 でも、それが精一杯だった。


 恵梨は少し考えて、それから――


 「……はい。ぜひ」


 その言葉だけで、今日来て良かったって、心から思えた。


 そんな思い出のなかの光が、少しずつ遠ざかっていく。

 代わりに聞こえてきたのは、人混みのざわめきと、スマホの通知音だった。

 

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