『だから、犬ですよ』

志乃原七海

第1話『君の名は?』



犬の散歩 第1話


アスファルトに長く伸びた影が、一日の終わりを告げている。生ぬるい風が頬をなでる夕暮れ時。わたしと妹は、カニヘンダックスフンドの愛犬「マロン」を連れて、いつもの散歩道を歩いていた。


「マロン、そっちはだめよー」


妹がたしなめる声に振り返ると、マロンが短い足で懸命に踏ん張り、植え込みの匂いを嗅いでいる。ぴんと張ったリードが、その小さな体の強い好奇心を物語っていた。わたしはくすりと笑って、その場にしゃがみ込む。


「本当に、マロンは探検家なんだから」


そんな他愛もない会話を交わしていた、その時だった。


向こうから、一人の男性が犬を連れて歩いてくるのが見えた。すらりとした体躯に、くるりと巻いた尻尾。夕日を浴びて輝く茶色い毛並みは、凛々しい柴犬だった。飼い主らしい男性は、作業着のような服を着た、少し気難しそうな顔つきの初老の男性だ。


犬好きの血が騒ぐ。すれ違いざま、わたしは自然と笑みを浮かべて声をかけていた。


「こんにちは。わあ、とっても可愛いですね! なんてお名前なんですか?」


人懐っこいわたしの声とは裏腹に、男性は眉間のしわを深くして、ぶっきらぼうにこう言った。


「犬ですよ」


「……え?」


一瞬、時が止まった。わたしの笑顔が顔の上で凍りつく。隣にいる妹も、ぽかんとした顔で男性を見ている。

(……冗談? ちょっと変わった人なのかも)

わたしは気を取り直して、愛想笑いを浮かべた。


「あ、はは……いやいや、犬なのはわかりますけど! そうじゃなくて、この子の、お名前を……」


もう一度、丁寧に問いかける。だが、男性は苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。


「いなや、だから柴犬だって! 見りゃわかるだろ!」


その怒声に、わたしと妹だけでなく、足元にいたマロンまでビクッと体を震わせた。

シン、と辺りが静まり返る。男性は「ちっ」と舌打ちをすると、わたしたちを睨みつけ、連れていた柴犬のリードをぐいと引いて足早に去って行った。柴犬は一度だけこちらを振り返ったが、飼い主に従ってすぐに前を向いてしまった。


あっという間に遠ざかっていく一人と一匹の後ろ姿を、わたしたちはただ呆然と見送ることしかできなかった。


「……な、なんなの、あの人……」


先に口を開いたのは妹だった。その声は、怒りよりも困惑に満ちている。


「名前を聞いただけなのに……。犬種を聞かれたと勘違いしたのかな……」


「だとしても、怒鳴ることないじゃない!」


わたしは腕の中で震えるマロンを優しくなでる。夕暮れの穏やかな散歩は、奇妙で後味の悪い出会いによって、すっかり台無しになってしまった。


「犬の名前は、犬……いや、柴犬……?」


呟いたわたしの言葉は、夕風に溶けて消えていった。これが、あの偏屈な老人との、忘れられない最初の出会いだった。


(第2話へつづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る