第4話 残された絵

湖月館の白い沈黙は、もはや欺瞞の覆いではなかった。神谷葵は、その静寂の奥底に横たわる真実を、指先で触れるかのように感じ取っていた。雪は降り止み、窓の外には、銀色の世界が、凍てついた鏡面のように広がっている。しかし、その鏡は、彼自身の過去も、そしてこの密室に隠されたトリックも、容赦なく映し出していた。館の中央ホールでは、巨大なオブジェが、カチカチと歯車を回し続ける。それは、まるでこの館の呼吸器、あるいは心臓そのもの、その鈍い鼓動が、彼の神経を逆撫でするかのようだった。

神谷の推理:密室という劇場

特別展示室は、神谷にとって、まるで思考のための巨大な舞台だった。桐原望の死体が運び出され、血の染みだけが、そこに存在した悲劇を雄弁に語る。空気は鉛、重く、そして鈍い。

神谷は、まず、この部屋の「密室性」に疑問の楔を打ち込んだ。

(完璧な密室。だが、そんなものは存在しない。必ず、どこかに綻び、あるいは見過ごされた「鍵」がある。十年前のあの事件もそうだった。あの時、俺は、表面的な事実に囚われすぎた。だが、今は違う。この館の呼吸、その隠された仕掛けを暴き出す。)

彼は、部屋の隅々まで、まるで獲物を嗅ぎ分ける猟犬のように、五感を研ぎ澄ませて検証し始めた。壁の材質、天井の構造、床のわずかな傾き、窓枠の隙間、そして扉の蝶番まで。指先で触れ、鼻を近づけ、耳を澄ます。微かな軋み、埃の匂い、冷気の流れ。それら全てが、彼の脳内で、複雑なパズルのピースとなっていく。

まず、彼の目を引いたのは、この部屋の異常なまでの「密閉性」だった。換気扇は作動しておらず、空気の流れを感じない。外の豪雪にもかかわらず、部屋の温度は一定に保たれている。

「この館は、通常の建築物とは違う。外気を完全に遮断し、内部の環境を維持するよう、設計されている…」

彼は、壁に耳を当てた。シーーンと、外界の音が完全に遮断されている。まるで巨大な真空状態。この密閉性が、密室のトリックを可能にする、最初のピース、まさに舞台の幕。

次に、彼の視線は、再び、絵の展示台へと吸い寄せられた。そこに、微かな違和感が、指紋のように残っていた。乾いた摩擦痕。それは、まるで、かつてここに描かれた、見えない物語の残滓。神谷は、展示台の側面、普段は隠されているはずの小さなパネルが、わずかに浮き上がっているのを見つけた。他の者が気づかなかったのは、おそらく、この館の美術品の多さ、そして桐原という人物の奇矯さに慣れきっていたからだろう。彼らは、目の前の死体に動揺し、思考の視野が狭まっていた。しかし、神谷は、刑事としての習性、そして過去の悔恨が彼にもたらした、異常なまでの観察眼を研ぎ澄ましていた。彼は、指先でそのパネルをゆっくりと押し込んだ。

カチリ。

耳慣れない機械音が、静寂な部屋に響き渡る。その音は、まるで古い時計の歯車が噛み合う音、微かだが、確実に何かを動かした。彼は、驚きと共に扉へと振り返った。重厚な扉の隙間から、シューという微かな空気の漏れる音がする。それは、扉の内部に仕掛けられた、強力な施錠機構が作動した音。

「……これか」

神谷の唇から、小さな呟きが漏れた。それは、霧が晴れるような確かな手応え、凍てついた大地に、一条の光が差し込むような感覚だった。

彼の脳裏に、館の中央ホールの巨大なオブジェが浮かんだ。あのカチカチと音を立てて回る歯車。それは、単なる美術品ではない。館全体の電力、空調、セキュリティシステム、全てを制御する「心臓」と呼ぶべき存在だった。そして、この特別展示室の絵の展示台もまた、そのシステムの一部だったのだ。

彼は、館の構造図をさらに詳細に調べた。展示台の奥深く、地下へと続く配線図が、まるで血管のように描かれている。そこに、微かな「A-7」という記号が添えられていた。彼は、館の管理システムに詳しい管理人、高城和樹に尋ねた。

「高城さん、このA-7というコードは何を意味する?」

高城は、ハッと顔を上げた。彼の瞳には、怯えと、何かを隠蔽しようとする微かな動揺がよぎった。

「そ、それは…館内の警備システムの一部です。特定の展示品が動かされた際に、警報が鳴るように…」

「警報だけか?」神谷は、鋭い視線を高城に突き刺した。高城の顔色が、サァーッと青ざめる。

「い、いえ…特定の警報が鳴った際に、その部屋を自動的に施錠する、緊急セーフティロックも…」

高城の言葉は、まるで氷が割れるように、明確な音を立てた。神谷は、確信を得た。犯人は、この「自動施錠機構」を逆手に取ったのだ。

「桐原先生は、絵を飾る際に、いつも自分で展示台を操作していた。その操作が、この部屋の密室を意図せず作り出していた…いや、犯人が意図的に、その状況を作り出したのだ」

神谷の思考は、まるで雪崩のように、一気に加速する。

「犯人は、桐原先生が展示台を操作している隙に、あるいは操作を促し、その動きと連動して扉が内側から施錠される状況を作り出した。そして、先生を殺害後、誰も入ってこられない『偽装密室』を完成させたのだ。あるいは、犯人自身が、先生を殺害した後、展示台のスイッチを操作し、自動施錠させて部屋を出た。その際、鍵は内側に残したまま…」

密室の謎は、まるで蜘蛛の糸が解けるように、するりとその姿を現した。物理的な密室は存在しない。あるのは、心理的な密室、犯人の巧妙な罠。そして、その罠に気づかぬよう、他の人間たちの視線を誘導した犯人の狡猾な知性。


密室の謎が解けた今、残されたのは、桐原望が最期に残したメッセージの真意だった。壁に残された血の紋様。誰もがそれを「鳥の絵」と解釈した。有沢は「先生の抽象画の一種でしょうか…」と困惑した顔で言い、千早は「先生の絵には、いつも謎がありましたから」と瞳を揺らしていた。牧村は冷徹な目で「解釈の余地がある、という意味では絵画的だ」と評し、末吉は「意味わかんねぇ絵だな」と興味なさげに吐き捨てた。しかし、神谷は、その筆跡に違和感を抱いていた。

(右利きである桐原の筆致とは明らかに異なる、ぎこちない、どこか左手で描かれたかのような印象。それは、まるで、最後の力を振り絞って、必死に何かを伝えようとする者の、震える指先が残した証。)

神谷は、再び血痕へと近づいた。その赤は、暗い部屋の中で、まるで脈打つ心臓のように、ドクン、ドクンと不気味な光を放っていた。彼は、その紋様を、様々な角度から、まるで顕微鏡を覗き込むように凝視した。

(鳥ではない。何かが違う。この歪み…この線は…)

彼の脳裏に、桐原望の娘、沙月の面影が蘇る。十年前の、あの雨の夜。白い仮面を被った沙月の顔。その無垢な視線が、彼の心をズタズタに引き裂いた。

ハッ。

神谷の口から、微かな息が漏れた。それは、まるで雷鳴が轟くような、脳髄を揺らす閃き。

「これは…鳥ではない」

彼は、指先で、血の紋様をゆっくりと辿った。不自然な線。ぎこちない筆運び。それは、まるで、何かを必死に伝えようとする者の、最後の叫び、血で書かれた文字。

「これは…文字だ」

神谷の言葉は、まるで凍てついた湖面に、小石が投げ込まれたかのように、静かに、しかし確実に波紋を広げた。

「それも、漢字の一部…」

彼の視線は、紋様の「左半分」に釘付けになった。その歪んだ線が、脳内で、まるでパズルのピースが完璧に嵌まるように、ある一つの形を結ぶ。

「沙…沙月の、『沙』の字の、左半分…」

(「沙月…沙月よ…」――神谷は、深い郷愁と共に、桐原が娘の名を慈しむように呼んでいた光景を思い出した。桐原は、娘の名前について、かつて語っていた。「沙月は、砂漠に咲く月下美人、その儚い美しさ。そして、水辺に寄せる砂の音、静けさの中に響く生命の証だ」と。彼は、沙月の肖像画を描くことができなかった。あまりにも完璧すぎて、筆で捉えるなど冒涜だと語った。その娘の名を、死の直前に、血で描いた…)

血の赤は、もはや恐怖の色ではない。それは、桐原望の、娘への深い愛情と、犯人への憎悪が凝縮された、最後の告白、まるで血潮の奔流。

神谷は、その紋様が何を意味するのか、瞬間的に理解した。桐原は、死の直前に、犯人の正体を伝えようとしたのだ。

「犯人は、娘の名を騙る者…」

その言葉は、まるで雷鳴が落ちたかのように、神谷の脳髄を貫いた。

(娘の名を騙る者…一体、誰が。そして、何のために?)

神谷の心臓が、ドクン、ドクンと激しく脈打つ。それは、事件の核心に触れた高揚と、同時に、新たな深淵を覗き込んだような戦慄。

彼は、その言葉を、ホールに集まっていた容疑者たちに告げた。

「このダイイングメッセージは、『鳥』ではない。桐原先生は、死の直前に、血で『沙月の名の左半分』を描いた。『犯人は、娘の名を騙る者』と伝えたかったのだ!」

その瞬間、ホールの空気は、キンッと凍り付いた。それぞれの顔に、血の気が失せ、まるで石像のように固まる。

有沢志穂の顔が、サァーッと青ざめ、口元が微かに引きつった。「そ、そんな…先生が、沙月様の名を…」彼女の瞳は、まるで深淵を覗き込んだように揺らめき、動揺が露わになった。これまで見せていた冷静さは、崩れ落ちた砂の城。

千早玲は、血の気を失った顔で、壁の血痕と神谷を交互に見た。その瞳は、不安と恐怖で激しく揺れ、今にも泣き出しそうな表情だ。「先生が…私を…そんなはずは…」彼女は、震える手で唇を覆い、言葉にならない呻きを漏らした。まるで、自分の全てが否定されたかのような、内面の悲鳴。

牧村蘭子は、眉間に深い皺を刻み、唇をキュッと結んだ。その顔は、困惑と、知的なプライドが傷つけられた怒りの混じった複雑な表情だ。彼女は、血痕を睨みつけ、まるでそれが彼女の解釈を嘲笑っているかのように、全身から冷気を放っていた。「馬鹿な…そのような解釈は、あまりにも短絡的だ…」彼女の声は、低く、しかし、その奥には、明確な動揺が隠しきれていなかった。

末吉慎吾は、顔を歪め、舌打ちをした。彼の拳は、ぎゅっと握りしめられ、血管が浮き上がっている。しかし、その目には、いつもの苛立ちだけでなく、明確な怯えが見て取れた。「ちくしょう…沙月だかなんだか知らねぇが…」彼の言葉は、途中で途切れ、喉の奥に鉛の塊が詰まったようだった。彼の荒々しい言動の裏に隠された、彼の弱さ、そして罪悪感が、一瞬、剥き出しになった。

高城和樹は、その場にガクッと膝をつき、顔を両手で覆い隠した。彼の体は、小刻みに震えている。「そんな…沙月様…」彼の声は、途切れ途切れで、深い悲しみと後悔が滲んでいた。彼の背中からは、冷たい汗が滲み出し、これまで彼が隠し続けてきた重い過去が、まるで凍てついた氷のように、溶け始めたかのようだった。

誰もが、未発表作の価値を、自分にとって都合の良いように解釈し、その権利を主張していた。まるで、飢えた獣たちが、一頭の獲物を貪り食おうとするように。

「娘の名を騙る者…」

それは、沙月の名前を利用し、桐原の愛情や信頼を裏切って、未発表作を手に入れようとした者。あるいは、沙月の死に深く関わりながら、その罪を隠蔽し、新たな「沙月」として振る舞おうとした者。

神谷は、この湖月館全体を、まるで巨大なパンドラの箱のように感じていた。開けば、中から、様々な欲望と嘘が、ワラワラと湧き出してくる。雪の沈黙は、もはや真実を覆い隠すことはできない。血の赤は、その沈黙を打ち破り、真実を雄弁に叫び続けていた。

彼の第六感が、館全体を包む薄い膜のような空間の歪みを、明確に感じ取っていた。それは、この場所が、常識では計り知れない何か、不可解な力に満ちていることを示唆している。そして、その歪みの中心に、犯人がいる。

神谷は、自身の過去の罪、沙月の死、そして桐原望の最後のメッセージが、一本の太い鎖で繋がっていることを悟った。この密室の謎は、単なる殺人事件ではない。それは、魂の贖罪と、そして、失われた真実を追い求める、神谷自身の長い旅の始まり、まさに深淵へと続く螺旋。彼は、この凍てついた雪の世界で、真実という名の光を見つけ出すために、さらに深く、暗闇の中へと足を踏み入れる決意を固めた。

この湖月館は、真実を飲み込む深淵。その謎は、雪が降り積もるように、深く、そして複雑に絡み合っていく。神谷は、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。その空気は、死の匂いと、そして、かすかな希望の匂い、まるで凍てついた地面から芽吹く新芽の香り。彼の心臓が、ドクン、ドクンと、嵐の海を航海する船のように大きく脈打つ。この歪んだ真実を暴くために。

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