第6話 ふたりは止められない──恋か信仰か、それが問題だ

玄関のドアを開けた瞬間、わたしの視界が白くなった。


「お嬢様ああああああああ!」


体当たりに近い勢いで飛び込んできたのは──マリア。


「うわっ、ちょっ、マリア!?」


「お帰りなさいませ! ほんっとうに、無事で……わたし、心配して──!」


すがりつくように抱きしめられながら、わたしはへにゃっと笑った。


「そんな、大げさよ。ちょっと旅行に行ってただけじゃない」


「ええ、そう……なんですけど……」


マリアはわたしの顔をまじまじと見つめ、何かを確認するようにゆっくり頷いた。でもその目は──やけに真剣だった。


──え? なんでちょっと泣きそうになってるの? 


ねえマリア、わたし、なんかやらかしてた? っていうか、そんな目で見ないで。


「キャサリン様、ちゃんとごはん食べてたましたの?」


「もう、マリアったら……」


後ろから、もうひとりの影がふわりと現れる。


「……おかえりなさい、キャサリン」


その声に、わたしの背筋がピンと伸びた。


「叔母さま!」


ラヴィニア叔母さまは、あいかわらず完璧なメイクと香水の香りをまとって、わたしの前に立っていた。手にはなぜか、紙袋──中身は多分、焼き菓子。


「久しぶりね。ちょっと見ない間に……あら、痩せた?」


「え? そんなこと……」


「恋する女は、頬がこけるのよ」


おばさまは目を細めてわたしの顔を覗き込む。


「──で、モリスは?」


「えっ……もしかして」


おばさまの言葉に、わたしの鼓動が跳ね上がった。


「えっ……まさか、モリス様が……?」


「ふふふ。それは自分で確かめてみなさい」


そう言って、おばさまはマリアに視線を送り、さりげなく場を離れていく。


マリアは小さくため息をついた。


「……お嬢様。何があっても、わたしは味方ですからね」


──マリア、その目やめて。やけに深読みできる感じのやつ。


でも、いいの。私はもう、決めたの。


この恋、信じ抜いてみせるって。


バクバクする鼓動を感じながら、走るように玄関ホールを抜けて、リビングへのドアを開いた。


あ、、、


モリス様が、


いるんですけど!?


リビングルームのカッシーナのソファに、ふつうに座っておられるんですけど!?


ニットの袖まくって、ティーカップとか持っちゃってるんですけど!?


え、もしかしてこの家、モリス様の別荘でしたっけ……?(違います)


「あ、キャサリン。おかえりなさい」


ソファから立ち上がって、まるで家族を迎えるみたいなトーンで言わないでほしい。ダメージでかい。いや、でも……うれしい。


「……モリス様?」


「うん。帰ってくるの、待ってた」


その声だけで、もう涙腺が限界突破。秒でうるうる。


「ずっと……?」


「うん。ずっと。君と話したくて、会いたくて──この家で君の叔母さまに紅茶とマドレーヌもらいながら、待ってた」


待ち方、ソフト過ぎん?

でもそれが、モリス様……!


「……わたし、会いたかった……」


言葉が出る前に、もう足が動いていた。わたしは駆け寄って、モリス様の胸に飛び込んでいた。


──もしかして今、少女漫画の見開きページ?


「辛かったよね、旅……お父様、きっと大変だったでしょ」


「だ、大丈夫だった。たぶん。途中までは……」


「え、途中?」


「あの、あとで話すね。うん」


うまく言えないけど、“脱マインドコントロール完全ガイド”のことは今は忘れよう。記憶の奥にそっと押し込んでおこう。


そのとき──


「キャサリン。改めて言わせて」


モリス様が、わたしの肩を掴んで、まっすぐに見つめてくる。


あれ? この顔……まさか……


「結婚しよう。僕は、君と人生を歩みたい」


うわー!!来たー!!!!


再プロポーズォォォォォ!!!!!!


脳内では号泣系BGMが鳴り響いていた。ストリングスにピアノ。どこかで天使が鐘を鳴らしている。


「キャサリン、明日結婚しよう!」


「明日?えっ?......」


「......なら、来週!来週結婚しよう!」


頭の中がごちゃごちゃしすぎて、意味がわからない。


「……モリス様……」


「お金のこととか、そういうのも、僕、考えてる。でも……でもね。大事なのは、君と生きるっていう、この意思なんだ」


「ううっ……!」


涙がぽろぽろ落ちる。


やだ、なんでこんなに……すぐ泣くんだろう、わたし。


でも、いまだけはいいよね……?


「──うん」


その瞬間、世界がふわっと光った気がした。ほんとうに、背景にキラキラした粒子が舞ってた気がする。


「……ありがとう、キャサリン」


やさしい声とともに、モリス様がわたしを引き寄せ──唇が触れた。


あ、思考停止……した。


何も考えられない。ただ、涙が一筋だけ、頬を伝っていく。


このキスが、すべてを肯定してくれる──そんな気がした。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「──だめだ。そんな結婚、私は認めない」


お父様の声は冷蔵庫より冷たく、Wi-Fiの接続よりシビアだった。


「……え?」


わたし、何か聞き間違えましたか?


「まさか、ほんとに……反対、ですか?」


声が裏返った。


「最初からそのつもりだ。あの男と結婚したければ勝手にしろ。ただし──」


ここで、お父様はわたしを真っ直ぐ見て言った。


「家の口座は一切使わせない。遺産も一円も出さん。もちろん、アメックスの家族カードも今日で停止する」


えっ……!?


今、何つった……!? アメックス!?


「ちょ、ちょっと待ってください! モリス様は、そんな……お金のために私に──」


「じゃあ試してみろ。金の切れ目が、縁の切れ目じゃないことを、証明してみろ」


なんて冷静で、なんて冷酷なんだろう。


わたしが言葉を失っている間にも、お父様は淡々と続ける。


「それでも一緒にいたいなら、君たちの稼ぎだけで暮らせ。現実は甘くない。あの男が何者か、よくわかる」


「……モリス様は、ちゃんと夢を語って──」


「夢で飯は食えん」


ひどい……。


「でも、モリス様は──わたしのこと、ちゃんと見てくれてるんです!」


絞り出すように言ったわたしの声に、お父様は一拍置いて、静かに言った。


「お前の“口座残高”だけを、な」


ズキュン。


いやもう、これ心臓直撃なんですけど……!


「……わたしは、モリス様を信じてます」


かろうじて立っていられたのが不思議なくらい、足が震えていた。


「なら行け。駆け落ちでもなんでも。こっちは止めない。ただし──その時点で、お前の生活から“父親”って存在は消えると思え」


冷たい。こんなにも冷たい父を、わたしは知らなかった。


「……わたしの価値って、結局、財産なんですか」


うつむきながら言うと、お父様は一瞬だけ息を吐いた。


「違う。だが──“財産目当ての男”を見抜けない女は、いずれ自分の価値も見誤る」


ええ、もう刺さりまくってます。めちゃくちゃ痛い。


でも、でも──わたしは信じるの。


「……モリス様となら、きっと何があっても、乗り越えられるって思ってます」


涙をこらえてそう言ったわたしに、お父様は何も返さなかった。


ただ、背中を向けて去っていった。





夜──わたしの部屋、ベッドの上。

照明は消して、スマホの明かりだけがぽつんと部屋を照らしてる。


さっきの、お父様の言葉がまだ胸に刺さって抜けない。


──あの男を選ぶなら、君にはびた一文やるつもりはない。アメックスの家族カードも停止だ。


どれだけ“心配”のつもりで言ってたとしても、

あれは、わたしの“恋”を切り捨てる言葉だった。


──あれは、お父様の「NO」だった。


ぼろぼろで、涙も出ない。

それでも、スマホは何度も見てしまう。


モリス様から、返事が来た。



モリス:「僕は君のお父様にすごく嫌われてるからね。仕方ないよ。」


……それ、まるで“終わり”みたいじゃない……。


キャサリン:「そんなことないよ。お父様は……ただ、心配なだけで……」


モリス:「でもさ、心配っていう名のフィルターで、僕らのこと、ちゃんと見てくれてないよね。僕はただ、君と一緒に生きたいだけなのに。」


画面を見てるだけで、胸が熱くなって、息が浅くなる。


そのあと、彼からのLINEは、ちょっとトーンが変わって──


モリス:「今日、ちょっと海の方まで行ってきたんだ。

そしたらね、海辺にすごくいい感じのカフェの空き物件があってさ。」


キャサリン:「……カフェ??」


モリス:「そう。君と二人で、そこでハワイアンカフェとかやれたら素敵だなって。

ねえ、想像してみてよ。

潮風の中で、ウクレレBGM流しながら、木のカウンターでコーヒーを淹れる。

僕がフード担当で、君は刺繍雑貨とか飾ったりしてさ。

"いらっしゃいませ"って、ふたりで笑ってるんだ。」


その瞬間、胸の奥がふわっと温かくなって、

涙がつーっと、こぼれ落ちた。


想像した。

カフェの白い木の壁。

窓から見える海。

エプロン姿のわたしと、Tシャツのモリス様が、笑ってる。


──あまりにも、幸せな未来すぎて。


泣くしかなかった。

嬉しくて、ほっとして、でも切なくて。


キャサリン:「わたし……そういうの、すごく好き。

モリス様となら、きっと楽しいって思える。

わたし、行きたい。モリス様といっしょに……!」


モリス:「本当に?

君がそう言ってくれるなら、もう迷わないよ。

ここから先は、ふたりの道だよ。

どこまで行けるか、試してみようよ。」


わたしはスマホを胸にぎゅっと抱きしめた。


この人となら、きっと“未来”を信じていい。

今夜、わたしは決めたの。


──もう誰にも、止められない。


この恋、信じ抜いてみせるんだから。



ーーーーーーーーーーーーーーーーー



「──で、どうするの?」


ラヴィニア叔母さまは、モリス様の写真が表示されたままのスマホを、当然のように覗き込みながら言った。


わたしは布団に顔をうずめたまま、くぐもった声で答える。


「……お父様が、どうしても許してくれないの……」


「で?」


「……で、って……」


「だからどうするの? あきらめる? 待つ? それとも──」


叔母さまは軽く手のひらを回し、まるで舞台女優のようにきらびやかな調子で言った。


「駆け落ち!」


「いやいやいや、そんな簡単に……!」


「簡単にじゃないわよ。本気ならやるのよ。昔の恋人たちは、みーんなそうしてきたの!」


叔母さまはソファにどっかりと座って、足を組み直した。口調はどんどん熱を帯びていく。


「聞いて。わたしのお友達で、実際に駆け落ちした子がいるの。もうそれはもうドラマみたいに劇的で──でもね? 結局すぐにご両親、許してくれたのよ?」


「えっ」


「うんうん。だってさ、**“そこまで本気なら仕方ない”って、そう思わせるのがいちばん強いんだから。**愛って、行動なのよ、キャサリン」


「で、でも……失敗したら……?」


「失敗したら戻ってくればいいじゃない。実家、あるし。あなたには帰る場所がある。だったら、一度くらい、人生で本気の無茶してもいいのよ!」


──この人、やっぱり無責任だ。


でも、どこか、胸に刺さってしまうのはどうしてだろう。

わたしがずっと、誰かに**「いいのよ、行っちゃいなさい!」**って言ってもらいたかったからかもしれない。


「モリス様も、きっとわたしの覚悟を……」


「そうよ。彼に“本気”見せてあげなさい。覚悟の女って、美しいわよ。」


「叔母さま……」


「それに、あなたにはその赤いドレスがある。恋に落ちた日の象徴を着て、夜の街へ飛び出すの。最高じゃない?」


──最高なのか、それは。


もはやツッコミすら追いつかない叔母さまの熱弁に、わたしは頭がふらふらしてきた。


でも。


でも──もう、わたしの気持ちは決まってる。





その日が来た。

玄関の外、午後の光が斜めに差し込む中。

マリアがふと立ち止まり、わたしの顔をじっと見つめた。


「……お嬢様、本当に、行かれるんですね」


その声には、はっきりと不安の色がにじんでいた。


「もちろんよ」


わたしは微笑みながらうなずく。ちょっとだけ頬が赤いのは、興奮のせい。たぶん。


「だって──信じてるの、モリス様のこと。わたし、ついに愛を選んだんだから」


マリアは口を開きかけて、すぐに閉じた。何かを言おうとして、それでもぐっと飲み込んだみたい。


「……でも──」


「──わかってるわ、マリア」


ぴしゃりと、でもやさしく遮る。


「もし止めたいと思ってるなら、それはすごくありがたい。でも、わたし、もう誰にも止められたくないの。だってこれは、“わたしの人生”だから」


マリアはぐっと言葉を詰まらせた。眉の間にしわが寄る。


「でも、お嬢様。モリス様が、もし──」


「もしを言い出したらきりがないわ」


わたしはかぶせるように笑った。


「愛って、“信じるバカ”になれるかどうかだと思うの。モリス様はね、わたしのことを『特別』って言ってくれたの。──“一緒に未来をつくろう”って」


それは、たぶん誰にでも言ってるかもしれない言葉だとしても。


でも今のわたしには、世界中の誰より甘く響いた。


「……お金のことだけでも、ちゃんと考えて──」


「ふふっ、大丈夫よ。わたし、自分の価値は“財産”じゃないって、やっとわかったの」


(でも、アメックスの家族カードが止められるのはちょっと困るかもしれないけど)


「人生ってね、思いきったら何かが変わるの。──ほら、夢でもそう言ってた気がするの。って、あれ、夢だったっけ?」


「え?」


「──ううん、なんでもない!」


わたしは笑って、ドアノブに手をかける。


「行ってきます、マリア。運命、つかんでくるから!」


マリアは、しばらくわたしを見つめていた。

何か言いたげだったけど──結局、何も言わなかった。


ドアを開けたその先には、未来が待っている。

少なくとも、そう信じたいこの瞬間までは。



(つづく)

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