第43話:街の声、心の灯火
朝靄の立ち込める街角を、エルミナとヴォルフは足早に歩いていた。
昨夜、テオ師匠から「リリアナは必ず立ち直る」という確信に満ちた言葉を聞いた二人は、彼女を支えるために動き出していた。
「本当に大丈夫かしら」
エルミナが不安そうに呟く。あれほど深く傷ついたリリアナが、一晩で回復するとは思えない。
「師匠が言うなら間違いねえ」
ヴォルフは力強く答えた。
「あの爺さんは、リリアナのことを誰よりもよく分かってる。きっと何か、俺たちには見えないものが見えてるんだ」
二人は最初の目的地へ向かった。セレナ川沿いの商業地区、角の小さなパン屋である。
***
「パン屋のハンスおじさん!」
エルミナの声に、小麦粉まみれのエプロンを身に着けた中年男性が振り返った。ハンス・ミュラー。リリアナが最初に依頼を受けた、温厚なパン職人である。
「おお、エルミナちゃんにヴォルフさん。どうしたんだい、そんな深刻な顔をして」
「実は…」
エルミナは事情を説明した。市議会の召喚状のこと、街に広がる悪い噂のこと、そしてリリアナが深く傷ついていることを。
ハンスの表情が、みるみる曇っていく。
「そんな…リリアナちゃんが?」
「あの子、自分の錬金術が間違ってたって、すっかり自信を失くしちゃって」
「馬鹿な!」
普段は温厚なハンスが、珍しく声を荒らげた。
「リリアナちゃんの錬金術が間違ってるって? 冗談じゃない!」
彼は工房の奥から、小さな宝石を取り出した。リリアナが作った「温度調整器」である。淡い光を放ちながら、パン窯の温度を完璧にコントロールしている。
「この子のおかげで、どれだけ多くの人が美味しいパンを食べられるようになったと思ってるんだ? 焼きすぎて真っ黒、生焼けでベタベタ…そんな失敗パンを作らずに済むようになった」
ハンスの目に涙が浮かんでいた。
「娘のミーナも言ってたよ。『リリアナお姉ちゃんのおかげで、お父さんがいつも笑顔でパンを作れるようになった』って」
***
次に向かったのは、宿屋「せせらぎ亭」だった。
女将のクララは、話を聞くなり顔を真っ赤にして怒り出した。
「何ですって? リリアナちゃんの錬金術が悪いって? とんでもない!」
彼女は亭主の部屋へ案内した。そこには、リリアナが作った「心を聞く椅子」に座り、穏やかな表情で本を読む初老の男性がいた。
「あなた、ちょっとこっちに来て」
クララに呼ばれた亭主は、立ち上がる時に軽やかな足取りを見せた。以前のような腰の痛みはもう見られない。
「この椅子のおかげで、主人の腰痛がすっかり良くなったのよ。三十年間苦しんでいたのに、たった一日でこの変化よ」
クララは椅子を愛おしそうに撫でた。
「それだけじゃない。お客さんたちも『せせらぎ亭の椅子は最高だ』って、わざわざ遠くから来てくださるの。リリアナちゃんのおかげで、宿は繁盛してるのよ」
「奥さん…」
エルミナが言いかけた時、クララは振り返った。
「あの子に会わせて。私たち夫婦が、どれだけ感謝しているか、直接伝えたいの」
***
職人地区では、もっと大きな動きが起きていた。
革細工師のオルガが、織物職人のゲルトと話し込んでいる。二人とも、リリアナの魔道具を愛用している職人たちだった。
「聞いたかい? リリアナちゃんが大変なことになってるって」
「ああ、ヴォルフの旦那から聞いた。とんでもない話だ」
ゲルトは憤慨していた。彼の工房には、リリアナが作った「光織りのリュラ」が置かれている。視力の衰えを補い、複雑な模様を織ることを可能にしてくれる、魔法の道具だ。
「あの子の技術がなかったら、わしはとっくに職人を辞めていた」
老人の声は震えていた。
「六十年間織物を作ってきたが、最後の最後で目が見えなくなって、すべてを諦めるところだった。でも、あの子が作ってくれた道具のおかげで、また織ることができるようになった」
「そうよ」
オルガも頷く。
「私の革細工も、あの子の『精密カッター』のおかげで、どれだけ細かい作業ができるようになったか」
二人は顔を見合わせた。
「よし、みんなに声をかけよう」
「リリアナちゃんがどれだけ素晴らしい職人か、街中に知らせるんだ」
***
昼過ぎ、クローバー工房の前に人だかりができ始めた。
最初にやってきたのは、ハンスとその娘ミーナだった。手には焼きたてのパンを入れた籠を抱えている。
「リリアナちゃん、いるかい?」
ハンスの声に、工房の扉がゆっくりと開いた。現れたのは、昨日よりも少しだけ表情の明るくなったリリアナだった。
「ハンスさん…」
「聞いたよ。大変な目に遭ってるんだってね」
ハンスは籠を差し出した。
「これは、君の温度調整器で焼いたパンだ。街で一番美味しいって評判なんだよ」
リリアナの目に涙が浮かんだ。
「君の錬金術のおかげで、どれだけ多くの人が幸せになったか、分かってるかい?」
「でも…」
「でもじゃない」
今度は後ろからクララの声がした。宿屋の女将が、亭主と一緒にやってきていた。
「あなたのおかげで、この人の腰痛がすっかり良くなったのよ。三十年間、一度も『痛い』と言わずに頑張ってきた主人が、初めて『楽になった』って笑ったのよ」
クララの声は涙声になっていた。
***
やがて、工房の前には長い列ができていた。
革細工師のオルガ、織物職人のゲルト、木工師のフリッツ、そして職人協同組合のメンバーたち。皆、手に何かしらの贈り物を持っている。
「リリアナちゃん」
車椅子に座った少女の声がした。花売りのリリーである。
「私ね、あなたが作ってくれた『妖精のマジックハンド』のおかげで、高いところの花の世話ができるようになったの」
リリーは嬉しそうに微笑んだ。
「今まで諦めていたバラの手入れも、できるようになった。お客さんたちが『リリーちゃんの花は一番美しい』って言ってくれるの」
彼女は小さな花束を差し出した。
「これは、あなたへの感謝の気持ち」
リリアナは花束を受け取りながら、声を震わせた。
「みなさん…」
「君の錬金術は間違ってなんかいない」
ゲルト老人が力強く言った。
「君のおかげで、わしたちは皆、もう一度夢を見ることができるようになった」
「そうよ」
オルガも頷く。
「あなたの技術は、私たちの生活を豊かにしてくれた。それは紛れもない事実よ」
***
工房の前には、感謝の贈り物が山のように積まれていた。
焼きたてのパン、手作りの革細工、美しい織物、精巧な木工品、そして色とりどりの花々。
それらはすべて、リリアナの錬金術によって生まれた、人々の笑顔の証だった。
「私たちは忘れてない」
ハンスが代表して言った。
「君がどれだけ多くの人を幸せにしてくれたか。君の錬金術がどれだけ素晴らしいものか」
リリアナは人々の顔を見回した。
そこには、憎しみも非難もない。ただ、純粋な感謝と愛情に満ちた眼差しがあるだけだった。
「みなさん…ありがとうございます」
リリアナの声は震えていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。
自分の錬金術が、確かに人々を幸せにしていたこと。
自分の技術が、多くの人の生活を豊かにしていたこと。
そして、自分が愛されていたこと。
すべてを、改めて実感していた。
夕日が工房を金色に染める中、リリアナは人々の温かい眼差しに包まれて、静かに微笑んでいた。
心の奥で消えかけていた炎が、再び大きく燃え上がり始めていた。
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