第3章:心の錬成と街角の未来

第41話:絶望の淵で

 薄暗い工房に、重苦しい沈黙が漂っていた。

 リリアナは作業台の隅で膝を抱え、小さく身を縮めている。市議会からの召喚状は、彼女の手の届く場所に無造作に放り出されたまま、まるで呪いの札のように禍々しい存在感を放っていた。

 「私のせいだ…」

 掠れた声が、静寂を破る。

 「私のせいで、街が…人々が…」

 震える唇から零れる言葉は、自らを責める呟きばかり。あの夜の火事の光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。炎に包まれた家々、逃げ惑う人々の叫び声、そして自分を見つめる冷たい視線の数々。

 すべてが、彼女の錬金術が招いた災いだった。

 少なくとも、リリアナにはそう思えてならなかった。

 ***

 工房の扉が、控えめに叩かれる。

 「リリアナ? 入るわよ」

 エルミナの明るい声が響くが、いつもの快活さには陰りがあった。彼女は慎重に扉を開け、薄暗い室内を見回す。

 「また、ここにいたのね」

 溜息と共に、エルミナは工房に足を踏み入れた。昨日も一昨日も、リリアナはこの場所から動こうとしなかった。食事も、睡眠も、すべてを疎かにして、ただ絶望の底で蹲っているだけ。

 「ねえ、少しは外の空気を吸いましょうよ。お日様も出てるし、クララおばさんが美味しいスープを作って待ってるの」

 エルミナは努めて明るい調子で語りかけるが、リリアナは顔を上げようともしない。亜麻色の髪が顔を覆い隠し、その向こうの表情は窺い知れない。

 「それに、職人組合のみんなも心配してる。昨日なんて、革細工のオルガおばさんが泣きそうになって…」

 「やめて」

 リリアナの声が、エルミナの言葉を遮った。

 「もう、やめて…お願いだから」

 「リリアナ…」

 「私の錬金術は間違ってたの。みんなを不幸にするだけだった。テオ師匠も、エルミナも、ヴォルフも…みんな私なんかと関わったせいで、街の敵になってしまった」

 リリアナは膝に顔を埋めたまま、声を震わせる。

 「火事で家を失った人たちの顔、覚えてる? 私を見つめる、あの憎しみに満ちた眼差し。当然よね。私が生活魔道具なんて作らなければ、金獅子商会の模倣品も生まれなかった。すべて、私が始めたことなのだから」

 エルミナは言葉を失った。どれほど論理的に反駁しようとも、リリアナの心の奥深くに根ざした自責の念は、簡単に取り除けるものではない。

 ***

 重い足音が工房に近づいてくる。ヴォルフだった。

 「よう、まだそんなところにいるのか」

 彼はいつものぶっきらぼうな口調で声をかけるが、その眼差しには優しさが宿っていた。

 「鍛冶の仕事、手伝ってもらおうと思ったんだがな。お前がいないと、あの繊細な部品は作れねえ」

 しかし、リリアナは微動だにしない。

 ヴォルフは苛立ちを隠せずに舌打ちする。

 「おい、いつまでそうやって塞ぎ込んでるつもりだ? 逃げてばかりじゃ、何も解決しねえぞ」

 「逃げてる…」

 リリアナがゆっくりと顔を上げた。その瞳には、涙の跡が残っている。

 「そうね、私は逃げてる。でも、これ以上どうすればいいの? 私の存在そのものが、街の平和を乱してるのよ。私がいなくなれば、みんな元の生活に戻れる」

 「馬鹿なことを言うな!」

 ヴォルフの怒声が工房に響いた。

 「お前の道具で助かった人がどれだけいると思ってる? パン屋のハンスは今でもお前に感謝してるし、宿屋のクララだって、腰痛から解放された旦那のことで頭を下げて回ってたぞ」

 「でも…」

 「でもじゃねえ! 一度の失敗で諦めるような奴が、職人を名乗るんじゃねえ!」

 ヴォルフの言葉は厳しかったが、それは彼なりの愛情表現だった。しかし、リリアナの心には届かない。

 「失敗? これは失敗なんかじゃない。私という存在自体が、間違いだったのよ」

 ***

 エルミナとヴォルフは顔を見合わせた。二人とも、これほど深く傷ついたリリアナを見るのは初めてだった。

 「お前ら、少し席を外してくれないか」

 静かな声が、三人の背後から響いた。テオ師匠である。

 白髭をたくわえた老人は、いつものパイプを手にせず、ただ厳粛な表情でそこに立っていた。

 「師匠…」

 エルミナは何か言いかけたが、テオの眼差しに制された。

 「大丈夫だ。少し、この子と話をしたい」

 二人は不安そうにリリアナを振り返ったが、やがて重い足取りで工房を後にした。扉が閉まる音が、やけに大きく響く。

 ***

 工房に、再び静寂が戻った。

 テオは作業台に腰を下ろし、リリアナをじっと見つめている。その視線には、いつもの温和さはない。代わりに、鋭く、そして深い悲しみを湛えた瞳があった。

 「お父さんの言う通りだった」

 リリアナが呟く。

 「私なんかが、夢を見るべきじゃなかった。村で、普通の女の子として生きていれば、誰も傷つけずに済んだのに」

 故郷の村を離れる時のことを思い出す。反対する両親を振り切って、錬金術師になる夢を追いかけて飛び出してきた、あの日のこと。

 「きっと、お父さんやお母さんは『ほら見なさい』って言うでしょうね。『身の程を知らない娘が、夢なんて追いかけるからこんなことになるのよ』って」

 涙が再び頬を伝う。

 「私、間違ってたのね。錬金術なんて、私には向いてなかった。人々を幸せにするなんて、おこがましかった」

 テオは黙って聞いていた。しかし、その表情は次第に厳しさを増していく。

 「私、故郷に帰ります。そして、二度と錬金術には触れません。それが、みんなのためです」

 リリアナがそう言い切った時、テオの眼差しは氷のように冷たくなった。

 ***

 「それで、終わりか」

 テオの声は、いつもの優しい響きを失っていた。

 「君の錬金術は、その程度のものだったということか」

 リリアナは驚いて師匠を見上げた。テオがこれほど厳しい表情を見せるのを、彼女は知らない。

 「師匠…」

 「君は、自分の錬金術を信じていたのではなかったのか? 人を幸せにする力があると、胸を張って言っていたのではなかったのか?」

 その言葉には、深い失望が込められていた。

 「一度の困難で挫け、全てを投げ出す。それが、君の『覚悟』だったのか」

 リリアナは何も言えずに、ただテオを見つめている。

 師匠の瞳の奥に、かつて見たことのない炎が燃えていた。それは怒りでも失望でもない、もっと深く、重いもの。

 まるで、遠い昔の記憶を呼び起こされた時の、痛切な悲しみのような。

 「ワシは、君に期待していた。君なら、きっと…」

 テオは言いかけて、口を閉ざした。

 工房の隅で、古い錬金術の道具たちが、暗闇の中で静かに佇んでいる。それらは皆、かつてテオが使っていたものだった。そして今、その持ち主は、自分の最後の弟子が絶望の淵で諦めようとしている姿を、厳しい眼差しで見つめていた。

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