第39話:それぞれの朝
運命の日の朝は、穏やかに明けた。
工房の窓から、セレナ川の向こうに昇る朝日を眺めながら、リリアナは深く息を吸った。オレンジ色の光が水面を染め、街全体を優しく包んでいる。
不思議なことに、彼女の心は静かだった。昨夜まで渦巻いていた不安や恐怖が、嘘のように消えている。まるで嵐の目の中にいるような、透明な静寂がそこにあった。
「今日という日を、私は覚えているだろう」
呟きながら、リリアナは朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。どんな結果が待っていても、この朝の美しさだけは忘れまい。
***
商業地区のエルミナの住居では、赤毛の商人が鏡の前で身支度を整えていた。
今日の彼女が纏っているのは、商人ギルドでの重要な会議でしか着ない、最高級の紺色のスーツだった。上質な生地は光沢を放ち、銀のボタンが朝日を反射している。
「戦闘服、ね」
エルミナが鏡の中の自分に向かって微笑んだ。
髪は普段のポニーテールではなく、きちんとまとめ上げている。商人としての威厳と、リリアナへの愛情を両立させた、完璧な装いだった。
机の上には、昨夜まとめた資料が几帳面に並べられている。一つ一つに付箋が貼られ、重要な箇所には赤線が引かれていた。
「今日こそ、真実を明らかにしてみせる」
エルミナの瞳に、商人らしい鋭い光が宿った。
***
職人地区では、ヴォルフの工房に仲間たちが集まっていた。
革細工師のハインツ、木工師のクラウス、石工のベルント、織物職人のマルガレーテ。職人協同組合の主要メンバーが、円陣を組んで立っている。
「今日は、俺たちの仲間のための戦いだ」
ヴォルフが中央に立ち、力強く宣言した。
「リリアナは、俺たちに技術だけじゃない、心の大切さを教えてくれた。今度は俺たちが恩返しする番だ」
職人たちの顔に、決意の色が浮かんでいる。
「真実は、俺たちの技術が証明する」
ハインツが拳を握った。
「嘘は必ずボロが出る。俺たちの目は誤魔化せない」
マルガレーテが頷いた。
「心を込めて作ったものと、そうでないもの。その違いを、街の人たちに見せてやりましょう」
朝の工房に、職人たちの気合いの入った声が響いた。
***
一方、錬金術師ギルドのマスターの執務室では、マグヌス・フォン・ヴァイスが勝利を確信していた。
机の上には、公聴会での発言原稿が置かれている。リリアナを徹底的に糾弾し、生活魔道具を危険思想として断罪する内容だった。
「今日で、すべてが終わる」
マグヌスが窓の外のリーフェンブルクを見下ろした。
彼の計算では、勝敗はすでに決している。市民の感情はリリアナに敵対的であり、ギルドの権威は絶対的だ。小娘一人が何を言ったところで、大勢は変わらない。
「錬金術の秩序を乱した報いを、存分に味わうがいい」
冷たい笑みが、マグヌスの唇に浮かんだ。
***
金獅子商会の支店では、ゲルハルトが算盤を弾いていた。
彼の机には、リーフェンブルク支配後の利益計算書が広げられている。セレナ川上流の工場建設、模倣品の大量生産、競合排除による独占価格設定。すべてが金に換算されていた。
「リリアナ・エルンフェルトが消えれば、この街の市場は我々のものだ」
ゲルハルトの目に、欲望の光がぎらついていた。
小娘の理想論など、現実の前では無力だ。世の中を動かすのは金と権力のみ。それが彼の信念だった。
「今日という日が、新たな時代の始まりとなる」
下品な笑い声が、支店長室に響いた。
***
街の各所で、人々が公聴会の話題で持ちきりだった。
市場では、商人たちがひそひそと話し合っている。
「本当にあの娘が悪いのかね?」
「火事の原因は金獅子商会の粗悪品だって話もあるが…」
パン屋では、ハンスが窯の前で拳を握りしめていた。
「リリアナちゃんの無実を、必ず証明してもらう」
宿屋「せせらぎ亭」では、クララが客たちに語りかけていた。
「あの子がどれだけ街のために尽くしてくれたか、皆さんもご存知でしょう?」
冒険者ギルドでは、ローガンが部下たちに指示を出していた。
「今日は全員、公聴会を見に行け。事実を見極めるんだ」
街全体が、この日の行方を固唾を呑んで見守っていた。
***
リリアナは、クローゼットの前で服を選んでいた。
エルミナからもらった上等なドレス、師匠からプレゼントされた錬金術師らしいローブ、様々な選択肢があった。
しかし、リリアナの手が伸びたのは、一番奥にかかっている古い作業着だった。
それは、初めてこの街に来た日に着ていた服。袖口は少しほつれ、胸元には小さなシミがついている。決して上等とは言えない、質素な作業着だった。
「これが、私の原点だから」
リリアナは作業着に袖を通した。
この服を着て、初めてテオの工房を訪れた。不安と希望を胸に、錬金術師への第一歩を踏み出した。
あの時の気持ちを忘れてはいけない。
人を笑顔にしたい。困っている人の役に立ちたい。
その純粋な想いこそが、自分の力の源泉なのだ。
***
身支度を整えたリリアナは、工房の扉に手をかけた。
深呼吸を一つ。心を落ち着ける。
扉を開けると、予想外の光景が目に飛び込んできた。
工房の前に、大勢の人々が集まっていたのだ。
パン屋のハンス親子、宿屋の女将クララ、花売りの少女リリー、そして職人協同組合の仲間たち。リリアナに助けられた人々、彼女を信じる街の住人たちが、静かに立っていた。
誰も声を発しない。ただ、温かい眼差しでリリアナを見つめている。
リリーが車椅子から手を振った。ハンスが力強く頷いた。クララが優しく微笑んだ。
人々は道の両側に分かれ、リリアナのために道を開けた。
その光景に、リリアナの目に涙があふれた。
***
「皆さん…」
リリアナの声が震えた。
言葉にならない感謝の気持ちが、胸いっぱいに広がっている。
一人の少女の前に、街の人々が集まっている。権力者の威圧に屈することなく、真実を信じて立ち上がった、普通の人々の勇気がそこにあった。
「ありがとうございます」
リリアナは深く頭を下げた。
そして、顔を上げると、人々が作ってくれた道をまっすぐに歩き始めた。
後ろからは、無言の応援が背中を押してくれる。
もう怖くない。
一人ではないのだから。
リリアナは、市議会へと向かう石畳の道を、堂々と歩いていった。
運命の戦いが、今始まろうとしていた。
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