闇が作り出した幻影
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年6月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。
K市にある有名カフェチェーンで、二人の男性が、テーブル席に座り、ひそひそ話をしていた。まわりは相変わらずの喧騒とした雰囲気、本来であれば、ゆっくりと話をするには適しない場所であった。
それでも、二人はあえてその場所を選び、話をしている、内容までは他の人に聞こえるわけはないが、その声は確実に喧騒としたまわりにかき消され、聞かれることはなかった。
時々。どちらかの声が大きくなり、ハッとしたのか、思わずまわりを気にして、肩をすかしてみるのだが、すぐにまたひそひそ話を始めた。
ここまで喧騒としているので、この二人を気に掛ける人がいるわけでもなく、時間だけが過ぎていく。
朝の通勤ラッシュの時間なので、時間の経過とともに、人はどんどんいなくなる。
そもそも、テイクアウトも多いので、テーブル席は、満員ではあるが、結構回転率が高いので、すぐに座ることはできるようだ。
ただ、パソコンを持ち込んでの作業には似合わず、あくまでも、一人の客は、静かにモーニングを食べながら、スマホをいじっているか、複数の客は、会話をしているくらいだった。
昔だったら、新聞を読んでいるサラリーマンの姿も見られるのだろうが、今の時代は、駅前といえど、新聞を手に入れるのも大変で、コンビニくらいは売っているだろうが、昔ほど、
「駅の売店で新聞を買う」
ということはない。
そもそも、駅の売店というものが存在しないからだ。
かなり前からのことであるが、以前は、駅の売店を鉄道会社が運営していたが、売店業界から、鉄道会社が撤退し、コンビニに、その権利を譲渡したことから、コンビニ自体が、駅構内に進出し、販売しているということであった。
「昔であれば、駅構内に、鉄道会社が運営するものがたくさんあった」
たとえば、コンビニのようなものもあれば、土産物屋もあったりしたものだが、それだけ経営が苦しいということであろうか。
駅前も、昔に比べて、相当様変わりしたものだった。
特に、最近は、駅自体を建て直すところも少なくない。
当然、老朽化という問題もあり、さらには、
「新幹線の開通」
などということが増えてくると、
「この機会に、駅の改装を」
ということになるのだが、それに伴う区画整理などで、実際に新しい駅が出来上がると、
「なんとも殺風景な駅」
ということになる。
昔であれば、駅前に噴水があるロータリーがあったような駅で、ロータリーはなくなり、駅前の裏路地のようなところでは、スナックや居酒屋のような、
「飲み屋横丁」
なるものがあったものだが、今ではすっかりなくなってしまった。
駅構内に、食堂街のようなものは残ったが、その中に飲み屋が、テナントとして入ったり、店の数も、少ししかなく、しかも、値段が高く、
「庶民が帰りに、ちょっと寄っていこう」
という雰囲気ではなくなってしまっている。
電車が到着すると、人の利用者が、駅を改装したからと言って、急に増えたり減ったりするわけもない、
それなのに、電車が到着してから、改札を抜ける時は、以前に比べて、相当人が減ったかのような錯覚を覚えるのだ。
一番利用者が多いと目される時間でもそうなのであるが、よく見ると、
「人の歩くスピード」
というものに差があるようだった。
「急いで改札を抜ける集団」
「以前のように、ゆっくりと大きな集団にもまれるように流れてくる人たち」
「逆に、人込みにもまれるのがいやで、あえて最後に抜けようとする人たち」
と、この三つに分かれることだろう。
その心は、共通していて、
「なるべく、人込みを避けたい」
という意識で、
「最初から、改札に一番近いところを熟知していて、その場所から乗り込むことで、一気に改札を受けてしまおう」
という集団。
そして、最後の最後に抜ける集団。
それらの集団が前後にあることで、大きな中間集団は、以前と比べて、かなり少なくなっているだろう。
その間を広くとることで、少しでもかかわりが少なくなることを感じると、
「この集団の中でも別にいい」
と感じるようになるに違いない。
しかも、駅構内は、以前の駅のように、青空のような開放はない。そのかわりに、天井が高かったりと、まるで、博物館のように、
「無駄に広い」
という雰囲気を味合わせてくれるのだ。
喧騒とした雰囲気を払拭し、広さが優雅さをはこんできて、
「余裕のある空間を作ることが、未来志向につながるのではないか?」
という考えがあるのだろう。
駅舎も、有名芸術家に設計させたりしているのだろうが、以前のような駅舎との違いを演出したり、逆に、
「昔のイメージを残しながら、荒らしい形を前面に押し出す」
という形での設計になっているのだろう。
それを考えると、
「人が少ないように思え、それが殺風景に感じさせるというのも、無理もない」
ということなのかも知れない。
「昔の喧騒とした雰囲気を嫌いだった」
という人も多いことだろう。
実際に、
「昔の駅舎でも、いつも、改札近くに乗り込んで、駅に着いたと同時に、急いで改札まで行き、改札を抜ける」
ということを、ルーティンとして行っている人も少なくなかったはずだ。
だから、駅が新しくなっても、その行動に変わりはなく、今の人の急いで抜ける人のほとんどは、
「昔からの行動」
ということであろう。
そもそも、そういう行動を一度でもやってしまうと、
「前には戻れない」
ということで、その感覚を忘れることはできないといってもいいだろう。
だから、駅構内にて、急いで改札を抜ける光景は、同じなのに、前の方が、さらに喧騒としていたことで、今との違いが、余計に目立つということであろう。
年始の十日えびすの祭りの中で、
「その年の福男を決める」
ということで、
「福男ラン」
という行事が行われる。
「門から境内までを競争して、一位になった人を、福男として認定する」
というものであるが、本来なら、
「神聖な境内で、何たることを」
ということになるのだろうが、その日だけは、
「お祭り」
ということで許される。
しかも、それをあたかも、
「奉納行事」
ということにするのだから、逆に問題ないということなのだ。
もちろん、参道には、たくさんの参拝客もいるわけで、その時間だけは、警備をかなり増やしているが、限界もある、
それを考えれば、
「よく事故が起こらないな」
と思われるが、実際には事故が起こったということで問題になることはない。
少しでも問題になれば、
「翌年から、その行事があるときは、参道に人を入れない」
ということであったり、
「参拝客が入る前の一定の時間、それこそ、祭りのオープニングイベント」
ということで、
「時間を決めてやる」
ということであったり、さらには、
「そんな行事はやめてしまう」
ということも当然言われることであろう。
しかし、相も変わらず、毎年の行事として行われているので、問題がないということになるのだろう。
そもそも、反対派の人は、その時間、神社に行かなければいいわけで、
「やりたい連中にはやらせておけばいい」
というだけのことだろう。
ただ、
「変な行事だな」
と思っている人も少なからずいるわけで、決してみんなが望んでいる行事だというわけではないようだ。
それでも実際に、運営に関わっている人には、そんなことは分からない。
それだけ、
「熱い連中が多い」
ということで、連星に見ると、そんな連中を含めて、
「なんと愚かな」
と感じていることだろう。
駅構内にしてもそうであり、
「駅自体が殺風景になったことで、寂しい」
と思う人もいれば、
「そもそも、駅というものは、ただのターミナル」
ということで、駅ビルであったり、駅前の商店街というのは、そこで店を出している人や、鉄道会社にとっては、
「駅前の活性化」
という名目で、気にすることにはなるのだろうが、そこまで気にしなければいけないのかということは、それぞれに賛否両論あるのではないだろうか?
殺風景に感じるのは無理もないが、
「まったく店がない」
というわけではない。
「有名チェーン店」
と言われるカフェであったり、
「ファーストフードの店」
などは、いくつか存在している。
しかし、賑やかな店と、閑散とした店とでは、その差が結構激しかったりする。
閑散とした店は、すぐに閉店を余儀なくされ、まだ、駅前の区画整理が完了する前から、
「貸店舗」
の札が貼ってあり、中はただの空室状態と言えるだろう。
それこそ、
「殺風景」
と言われるもので、何もないのだから、それだけ、寂しい状況に見えることで、
「さぞや広く感じるだろう」
と思われがちだが、実際には、
「こんなに狭いんだ」
と感じさせる。
それこそ、
「錯覚」
と言われるもので、
「何もない空間は広いものだ」
という感覚があり、それを信じて疑わないから、実際に見てみると、自分が想定しているよりも狭いことから、
「さらに狭く感じさせられる」
ということになるだろう。
それを考えると、
「駅のこの無駄な広さ」
というのも、実は、
「まだ慣れていないから」
ということでの錯覚なのかも知れない。
そのうちに、逆に狭く感じられるようになるのではないかと感じると、
「本来の広さを通り越して、狭く感じさせられることになるだろう」
と思えば、
「錯覚というものは、本来のものを感じさせないようにするためのものではないか?」
と考えるのであった。
そもそも、錯覚というのは、
「自分が感じること」
ということなので、
「自分の想像の範囲」
というものを超えることはない。
だから、
「想像の範囲」
の外に飛び出さないように、従来であれば、見えているものが見えなくなる効果というものを感じさせず、
「錯覚は錯覚のままに」
ということで考えるようになるのではないかと思うのだった。
だから、
「有名チェーン店の喧騒とした満員状態の店内から、駅構内を見た時、最初は、殺風景なくらいに広い」
と感じさせられたが、途中から、
「いやいや、実際には狭いんだな」
ということを感じるようになるのだが、いかんせん、
「殺風景だ」
という感覚が変わるということはないのであった。
このあたりに新幹線が開通して、そろそろ10年という月日が経とうとしているが、これまでの間、全国でも、次々に整備新幹線が開業している。
それだけ、
「最初に計画された時期が、同じくらいであったが、途中から、自治体の事情などによって変わっては来たが、最後は政府の都合ということもあり、中には、突貫で出来上がったところもある」
ということのようだった。
駅前の賑わいというのは、すっかりなくなったところが多く、
「整備新幹線問題」
あるいは。
「駅前の区画整備問題」
というのは、切っても切り離せない状況にあるということで、
「駅前に進出する企業も、様子見というところも少なくないに違いない」
昔であれば、
「一つの路線の主要駅」
であったり、
「私鉄の主要路線の主要駅」
というところには、駅前には、同じ企業の店舗というものが、当たり前のようにあったものだ。
それこそ、
「鉄道会社とテナント企業」
というものが、強く結びついていたということで、昔であれば、
「鉄道会社の力が強かった」
ということかも知れないが、今は、テナントの方も注意深くなっていて、しかも、
「力が弱くなった鉄道会社」
と心中はしたくないという思いがあるのではないだろうか?
そもそも、鉄道会社の方も、本来の鉄道事業というものにおいて、果たして、その存在意義を示しているかどうかが、利用者から見て、
「もっとしっかりしよよ」
と言われているようでは、どうしようもないということになる。
というのも、最近では、
「事故や故障などによって、列車の遅延であったり、運休というのは頻発だ」
と言われている。
これは、今に始まったことではないが、昔の、
「国鉄時代から、民営化された頃」
というのは、
「仕方がない」
という人も多かったようだが、それにしても、ひどかった。
「10分遅れくらいだったら、誤差の範囲だ」
と言われていた。
しかも、それを、
「旧国鉄」
というところは、
「そうだそうだ、仕方がない」
と自分たちもそんな風に言っていたくらいなので、救いようがないといってもいいだろう。
何しろ。人身事故が起こっても、
「人身事故ですからね。仕方がないですよ」
と言って、愛想笑いをしていたという、とんでもない駅員がいたくらいだ。
さすがに、その時は、利用客の神経を逆なでしたということで、猛抗議が起こり、さすがに、
「鉄道会社の上役が、記者会見で平謝りをする」
という事態になったというくらいであった。
要するに、
「そんな会社の体質が、国営という甘えを生んで、それが、累積赤字を膨れ上がらせ、結局は、国で面倒を見ることができなくなったということでの、民営化ということになったのである」
つまりは、
「企業の体制が甘えの体制にある」
ということで、本来であれば、
「社員全員の責任」
であるはずなのに、社員とすれば、その責任を感じていないという連中が多いことから、
「謝罪会見事件」
ということに発展するのだ。
しかも、謝罪しているはずの社長の姿が、
「本当に謝罪する気があるのか?」
ということで、
「まったくの茶番でしかない」
ということになると、本当に誰も信用しなくなる。
しかも、世の中が次第に、おかしくなり、
「謝罪会見現場」
というものを、テレビで見ない日はないというくらいになってきたのだった。
その会社も毎日違う会社で、
「よくも、こんなに毎日のように湧いてくるというものだ」
ということになるのであろう。
それが、しばらく続いた。
しかも、謝罪の光景は、完全なデジャブであり、中には、
「本当に心から謝罪をしている人もいる」
ということなのだろうが、今までのひどい連中を見慣れてきたために、ほとんどの人が、
「誰が信じるか」
ということになってきたのだ。
そんな光景の最初は、
「旧国鉄の民営化された鉄道会社だった」
ということを覚えている人は、もうほとんどいないだろう。
時代からすれば、
「平成になってすぐ」
ということなので、
「もう、30年以上も前で、実際には、40年が経っている」
といってもいいくらいなのかも知れない。
それでも、駅を建て直す前の、
「駅や駅前というのは、風情があったものだ」
と言えるだろう。
駅舎の中には、
「駅のホームの中に、動物飼育の小屋があり、そこでクジャクを飼っていた」
という駅もあった。
駅舎改装にともなって、市内にある動物園に引き取られていったということであるが、
「駅にいてこそ目立ったクジャク」
ということで、それこそ、
「駅の守り神」
というか、
「駅長」
という存在でもよかったくらいだ。
そんな貴重な駅だったのに、果たして、昔から利用している人の中に、どこまで、
「駅舎にクジャク小屋があったのか?」
ということを知っている人がいたのだろう?
駅の方が、
「駅を盛り上げるため」
ということでやっていても、結局は注目されなければ、
「ただ無駄なだけだった」
ということになるだろう。
それを考えると、
「駅の改装で、昔のようにしても、ただ無駄になるだけだ」
という意見も無視はできない。
実際にそういうことなのだからであり、駅の運営とすれば、殺風景の方がいいと考えていることだろう。
それでも、まだ、
「テナントに入ってもいい」
という企業があるだけいいといえるのではないだろうか?
実際に、それほど大きな企業ではないところは、名乗りは上げたがいいが、利用客の少なさが、想像以上で、
「撤退するしかない」
ということになったのである。
それも、開店して半年というスピード撤退。
それこそ、改装後の駅前というものが、
「本当に喧騒としている」
ということであろう。
そんな喧騒とした状況において、誰が、駅前の店に立ち寄ろうというのだろう。
今できている店は、
「数人でわいわい騒ぐ、それこそ居酒屋のようなところはなく、一人で夕食に趣くという雰囲気の店が多い」
確かに、今の時代は、昔のように、
「数人で会社の帰りに飲んで帰ろう」
ということであったり、
「上司が部下を誘っての飲み会」
などというのはなくなった。
皆、
「会社を出れば、自分の時間」
ということを考える人が増えてきたということであるし、
さらには、
「上司が部下を誘うということ自体、今では、パワハラになる」
ということから、集団の客というのはめっきりと減ってきた。
毎年の忘年会というものも、正直減ってきている。
それも、
「忘年会に強制参加というのは、パワハラだ」
ということで、
「忘年会を開催しようとしても、人が集まらない」
ということで、当然のごとく、
「今年の忘年会は中止」
ということになり、どんどん忘年会が減っていくと、もう最初から、忘年会というものをしようというところもなくなってくるわけだ。
それが、
「社会の風潮」
ということであれば、時代に流れに逆らうことはできない。
そうなると、
「忘年会などの宴会がないとなると、予約客がめっきり減る」
ということになり、そうなると、
「一人で入る客を大切にする」
という、いわゆる、
「常連でもっている店」
という感じのところが増えてくるということだ。
そうなると、賑やかな店はなくなり、テーブル席よりも、カウンター席の方が多くなるという店に変わってくる。
皆、スマホをいじっているという光景が当たり前のようになることで、
「殺風景」
という感覚は、
「それが前からずっと続いていた」
ということから、
「違和感はないな」
と感じるようになり、次第に見慣れた光景ということになるのも、しょうがないことなのかも知れない。
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