第10話 リビングの主

アヤ先輩に促され、私は恐怖と好奇心を抱えたまま、リビングの扉を開いた。

その光景は、破壊という行為が持つ、冷たい悪意そのものだった。


天井の梁は剥き出しになり、二階の床板が不自然に露出している。そこから差し込む外の光が、部屋の凄惨さを一層際立たせていた。


(自然と倒壊したとは思えない……)


それはまるで、屋敷の内部が、暴力によって破壊され、時間をかけて朽ちるという自然の理すら拒否された、破壊された時間の澱のように感じられた。


部屋の中央には、かつて温かい家族の団欒の中心であったであろうテーブルが、何かに押しつぶされたように無残に横たわっている。足はへし折られ、天板は粉々に砕け散り、元の姿を留めていなかった。


(許せない。こんなにも温かい場所を、何を目的に、誰がこんなひどい仕打ちをしたんだろう)


私の胸にこみ上げるのは、純粋な怒りだった。見知らぬ人々の幸せを奪った者たちへの、どうしようもない憤りだ。


「何を目的に、こんなひどいことをしたのかは分からないけど、とてもいい気分はしないわね。まったく何を考えてるのかしら…」


アヤ先輩の声は静かだったが、その奥には、この惨状に対する深い激情が感じられた。


「…アヤ先輩、この本棚、すごい埃が積もっていますけど。心霊現象や伝説に関する本が多いみたいです」


私は倒れた本棚の瓦礫の中から一冊を手に取り、積もった埃を払った。表紙には、『異次元の邂逅』という、おぞましいタイトルが刻まれている。


「どれどれ、どんな感じかしら…興味深い内容だわ。これは、屋敷の主が『件の奴ら』の存在に気づき、対抗策を探していた証拠かもしれないわね」


その時、バルコニーに繋がる壁の、瓦礫が重なっている部分に、半透明で淡い白いモヤが見えた。それは、空間に不自然に浮かぶ、光の塊だった。


……この屋敷で起こった悲劇を凝縮したかのような、はかなげで、しかし強い存在感を持つ。どうも、何かを示しているかのようにゆらゆらと揺れ、私たちを誘うように微かに形を変えていた。


「…アヤ先輩、あれを見て下さい。白い塊というか、モヤみたいなものが…」


アヤ先輩は首を傾げた。「私には見えないわ。でも、メイの『強い思い』が、この屋敷の記憶アーカーシャを引き出したのかもしれない。この屋敷の主、あるいは、誰かの魂が何かを伝えようとしている」


アヤ先輩は、メイが見つめるその付近の瓦礫を調べ始めた。すると、瓦礫の中から、壊れた写真立てを見つけ、細心の注意を払って写真を確認する。写真には、かつてこの屋敷に住んでいたと思われる男性と、幼い女の子が写っていた。


「入学式」と書かれた看板の前に並んで立つ二人の姿からは、彼らが過ごした幸せな日々が、この場所に息づいていたことが感じられた。


「お手柄よ、メイ。見て、この家族写真。これが『KIYONA』ちゃんと、その父である『主さん』よ。こんなにも幸せそうな笑顔をしているのに…」


アヤ先輩の声には、写真の明るさとは裏腹に、深い悲しみが滲んでいた。私の心にも、この家族の幸せを奪った見えない存在への強い憤りが再び燃え上がってきた。


「写真の裏に、何か書いてあるわね」


アヤ先輩は写真を裏返し、微かに刻まれた文字を読み上げる。


「『輝夜奈、おめでとう。To Remember your day. 《この日を忘れないために》 父より』」


私は息を飲んだ。


『T・R』。それは、誰か外部の差出人のイニシャルではなく、「To Remember your day. 《この日を忘れないために》」という、娘への深い愛情を込めた、主のメッセージの頭文字だったのだ。


「この屋敷の主は、娘の『輝夜奈(KIYONA)』の幸せな瞬間を、何よりも大切にしたかったのね……」


アヤ先輩と私は顔を見合わせ、言葉を失った。この荒廃した空間で、最も残酷に破壊されたのは、この写真に込められた『愛』だった。


「私たちは、この屋敷の真実を探し出して、少しでもこの家族の思いを叶えられたらいいですね」


「ええ、本当にそう思うわ…ん?ちょっと待って。なんだろうこれ」


アヤ先輩の視線は、テーブルがあった場所の床に釘付けになっていた。


「床に黒い粘液が点々と付着しているけど…」


「油か、オイルか何かでしょうか?」


「違うわ。油やオイルのような化学的な匂いじゃない。これは……生命の根源的な拒絶を示す、異様な刺激臭がする」


アヤ先輩の声は、一瞬にして緊張感を帯びた。その粘液は、乾いて固まりかけているにもかかわらず、表面が微かに揺らめき、まるでまだ生きているかのような不気味さを放っていた。


「メイ、素手で触らないでね。外から持ち込まれたものかもしれないけど、もしかしたら…人間以外の、何かの分泌物の可能性がある。採取しておくわ。この粘液を調べれば、『結界を破り、この幸せを破壊した張本人』の正体がわかるかもしれない」


アヤ先輩は、小さなガラス瓶を取り出し、細心の注意を払ってその黒い粘液を採取した。彼女の冷静沈着な対応は、この不可解で不気味な状況においても、私に確かな道筋を示してくれる。


私たちは、娘の愛と、異形の粘液という、相反する二つの手がかりを手に、さらに屋敷の奥へと進む。


次回 第11話「風呂場と洗面所」

――黒い粘液の正体は何か?そして、なぜ現場は風呂場へと続くのか。


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