信念の声が未来を変える

天音空

第1話 看護管理室の新しい日々

 伊藤真理子看護師が看護管理室への異動を命じられたのは、桜のつぼみがほころびはじめた、まだ肌寒い春の朝だった。


 看護部長室で対面した森山弘子看護部長は、真理子をまっすぐに見据えながら口を開いた。


「新年度から看護管理室で秘書を務めてもらいます。あなたの実力を見込んでの異動です。まずは1年間、山本副看護部長の下で業務に慣れてください。よろしくお願いします」


 その言葉を聞いた瞬間、真理子の背筋がすっと伸びた。


「……辞令、ありがとうございます。経験を活かし、秘書業務に尽力いたします」


 声にも肩にも、自然と力が入っていた。


 凛とした表情を装ってはいたが、内心の緊張は隠しきれない。こわばった笑みが頬を引きつらせ、口元もぎこちなく歪んでいた。


 現場一筋で患者と向き合ってきたこれまでの日々が、頭をよぎる。なぜ今、秘書なのか——戸惑いは確かにあった。けれど、選ばれたのなら応えたい。そんな思いが、力強く胸を満たしていく。


 予想外の異動ではあったが、これもまた看護師としての歩みのひとつ。白衣を脱ぎ、新しい立場で臨む日々が、今ここから始まろうとしていた。


 初出勤の日。真理子は、小さく震える手で看護管理室のドアを開けた。


 その瞬間、「伊藤さん、今日からよろしくね」と、あたたかな笑顔で手を差し伸べてくれたのが、山本和子副看護部長だった。


 三十代になったばかりの真理子に対し、山本は二回り以上年上だった。ふくよかな体つきに、やわらかなパーマをかけたショートヘア。丸い眼鏡の奥には、どこか母のようなぬくもりを宿した眼差しがあった。


 言葉を交わす前から、長年の経験や積み重ねてきた信頼が、その立ち居振る舞いのすべてから滲み出ていた。


 その手にそっと触れたとき、不思議な安堵が胸を満たした。真理子の中に広がっていた不安の波が、静かに、引き潮のように遠のいていくのを感じた。


「伊藤さん、この資料は、Excelで関数を使えばもっと早く処理できますよ」


「ここの文章、少しだけ削ってみましょう。意味はちゃんと伝わるから、心配しないで」


 山本の指導は、いつも穏やかで、的確だった。

 

 表の体裁、数式の使い方、文書の構成——細かいところまで目が行き届き、提出する書類には必ず赤ペンで丁寧な添削が施された。

 

 それでも決して否定はせず、「うん、これなら完璧ね」と、最後には笑顔で背中を押してくれる。


 その期待に応えたくて、真理子は自分なりに工夫しながら業務に向き合った。


 出勤簿の集計や勤務表のチェック、看護部長宛のメール代筆、院内会議の議事録作成——すべてが初めての連続だったが、少しずつ慣れてきた実感があった。


 気がつけば、日が暮れるまでパソコンの前に向かう日々。疲れてはいるのに、どこか満ち足りた気持ちで帰路につく自分に気づくことが増えていた。


 しかし、いつからだろうか──二人の関係が綻び始めたのは。


 春が過ぎ、梅雨入りが近づく頃。山本の態度には、どこか違和感が漂い始めていた。


 最初は、ただの疲れだと思った。


 電話を肩に挟み、書類に視線を走らせながら次々と指示を飛ばす彼女からは、かつての穏やかさも余裕もすっかり消え失せていた。


 忙しいだけ──そう自分に言い聞かせたが、辻褄つじつまが合わなかった。


 山本の態度に、明確な理由などなかったのかもしれない。 ただ、ふとした瞬間に真理子の存在が、彼女のどこかを逆撫でする—— そんな“何か”が二人の間に入り込み、波紋のように関係を引き離していった。


 声のトーン、言葉の選び方、視線の温度。どこかが、確かに変わっていた。


 真理子は戸惑っていた。


 何か自分が失敗したのだろうか。気づかないうちに、相手を怒らせてしまったのか。けれど、どれだけ思い返しても、はっきりとした理由が見つからない。


 例えば、資料を提出したとき、以前はかならず「ありがとう」と笑顔をくれていた。


 それが今では、書類を一瞥いちべつするなり、「これ、全然だめ。やり直して。……これ、本当に私の指示通り?」感情を押し殺したような口調で、淡々と否定されるようになった。


 もちろん、これまでも修正はあった。


 だが、それは成長の糧であり、支えだった。


 今の言葉には、その温度がない。ただ突き放すように冷たい。


 それでも真理子は、言われたとおりに直した。


 言葉を何度も反芻はんすうし、行間の揺らぎまで読み取ろうとしながら、注意深く手を動かした。


 だが、再提出すれば、「違う。そうじゃないの」


 どこがどう違うのか、理由は示されないままだ。


 指示された内容と修正後の評価が、あまりにも食い違っている。最初に言われた通りに仕上げたはずなのに、今度は「違う」と否定される。


 それは単なる修正ではない。


 まるで、指示そのものが後から塗り替えられているかのようだった。言葉が形を変えていくたび、真理子の胸の奥に、じわりと冷たいものが広がる。真理子は理不尽さを覚えながらも、しばらくは黙って受け入れてきた。


 しかし、それももう限界だった。


 ——このままでは、何ひとつ変わらない。


 真理子は覚悟を決め、震える声で口を開く。


「山本副看護部長……こちらの資料についてですが、最初にご指示いただいた内容と、今おっしゃっていることが少し違っているように思うのですが……」


 山本は一瞬、冷ややかな視線を真理子に向ける。その眼鏡の奥の目は、言葉以上に冷たい。


「私の言葉が信用できないの? 最初からこうしてほしいって言ったわよ。伝わってなかったなら、それはあなたの受け取り方の問題でしょう?」


 真理子は言葉を失った。責める口調ではないものの、 言葉の裏に隠された『あなたが悪い』という責任転嫁が胸を重く締めつける。


「こういう仕事はね、指示通りにやるだけじゃダメなの。言葉の裏にある意図まで汲み取って動いてくれないと困るのよ。わかる?」


 その一言が、やさしく問いかけるようでいて、刃のように突き刺さる。


 山本はにこりと笑みを浮かべながらも、冷徹な言葉を重ねた。


 場が一瞬、凍りつくような重苦しい沈黙に包まれ、真理子は言葉の意図を何度も咀嚼そしゃくする。


 しかし、山本の鋭い視線に射すくめられ、口をつぐむしかなかった。


 「……失礼しました。もう一度、やり直します」


 そう言って真理子は静かに頭を下げた。


 手元には赤ペンでびっしりと修正指示が書き込まれた資料が残された。


 疲労と悔恨かいこんが交錯する、言葉にし難い複雑な感情だった。


 それでも真理子は懸命に案を練り直し、提出を繰り返した。だが、結果は変わらなかった。


 やがて、山本の発言には、冷たさだけでなく、棘のような鋭さが加わるようになっていった。


「あなたの持っている看護教員資格、無駄にしていると思わない? こんな病院より、もっとふさわしい場所があるんじゃない? 良い看護学校を紹介してあげようか」


 一見、親切に聞こえたその言葉の裏には、「ここはあなたの居場所じゃない」という冷たい視線が隠されていた。


 その夜、真理子は自宅の机に向かい、一人静かに考え込んだ。


 かつて山本が見せてくれた優しさと、今の冷ややかな態度。


 なぜあの穏やかな笑顔は消えてしまったのか──その理由はわからず、彼女の心はもやもやとした不安に包まれていた。


 それでも、目の前に積み重なった仕事に目を向け、真理子はノートパソコンの前に手を伸ばした。


 「自分がここにいる意味を、見出さなければ……」


 ふと思い出すのは、小児科で触れたあの小さな手の感触。


 夜勤のたびに励ましてくれた仲間たちの笑顔が、今も胸に浮かんだ。

今まで積み重ねてきたものは、決して無駄じゃない。


 翌朝、薄曇りの空の下、真理子は看護管理室の窓際に立ち、しばし外の景色を見つめた。


 外では紫陽花がしっとりと濡れ始め、やがて雨が静かに降り始めた。

 まるですべてを洗い流すかのようなその気配に、彼女はかすかな勇気を見出した。


 ——何かを変えられるのは、私だけだ……そう、自分に言い聞かせながら……


 山本の厳しい言葉に押しつぶされそうになりながらも、真理子は静かに足を前に踏み出した。




※ここまでお読みいただきありがとうございます。

本作は全8話の現代ドラマです。

最後までお付き合いいただけると嬉しいです。


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