第11話 腹を据える時
呼吸が荒い。
胸の奥で肺が火を噴いているようだった。
だがそれ以上に、動きが鈍っていることに気づく。
(……くっそ。足が、重い。自分の足じゃねぇみたいだ)
筋肉でも体力でもない。
理由はもっと内側にあった。
雨木はわかっていた。腹の据わっていない、甘い心が全身を硬くしていると。
(スポーツジムで身体は鍛え直したのにな)
十年ぶりに空手の稽古に似た動きを取り入れ、筋トレも走り込みもした。
若い頃ほどの切れと勢いは無くとも、動ける体には戻してきたはずだった。
それなのに、いざ魔物を前にすると足が竦む。
自分は死なない、まだ余裕があると――どこかで高を括っていた。
脳裏に、会社を辞めると決めた後のことが蘇る。
出した退職届は何度も握りつぶされた。
引き延ばされ、紛失され、残業代も手当も消えた。
(あの時もそうだ。別に退職代行でも弁護士でも、やれる手立てはいくらでもあった。でもそこまではって思ってた。腹を括ってたつもりで、どこかに甘さがあったんだ)
結局、現実を動かしたのは、自分じゃなかった。
助けてくれたのは、ダンジョン省の職員だった。
それでも、最後まで会社に屈しなかったのは――自分の意思だ。
その経験が、今の自分をここに立たせている。
(なのに、命を懸ける
筋力も持久力も戻ったと思っていた。
だが、訛っていたのは身体ではなく心だった。
目の前のゴブリンたちを睨みつけながら、雨木は息を吐く。
「……腹、据えろ」
さっきまでどこかで「大丈夫だろう」と甘く考えていたことに気づいた。
だが奴らは、殺しに来た。
なら、こちらも覚悟がいる。
(殺すだけじゃない。殺される覚悟だ。そこを甘く見てた)
覚悟を決める。
それはただ「やる」と口で言うだけではない。
相手を、必ず殺すという強い意思を持つことだ。
「殺しに来たなら、殺される覚悟もしてもらうぞ。お前らにもなっ!」
呼吸を整えると、視界が広がった。
前に一匹、後ろに三匹。
後ろの二匹は、すでに負傷している。
追い足は遅い。まだ余裕はある。
(魔物相手に、空手の型や防御は無意味だな。ならここは……)
狙いは決まった。
前方の無傷の一匹を速攻で潰し、そのまま突破して壁を背にする。
そうすれば、四方から襲われることはない。
踏み込む。石床が踵を返すように鳴った。
全身を前傾させ、右手のバールを突き出す。
金属が肉を抉り、骨に弾かれる衝撃が腕先に伝わる。
ゴブリンが呻き声を上げ、崩れ落ちた。
雨木は空いた道を駆け抜け、壁際まで一気に進む。
壁を背にして息を整えると、前方には手負い二匹ともう一匹。
「よし、来い……確実に、殺してやる」
右手のバールを短く持ち、左手のトンファーを前に構える。
足運びは機械的に、淡々と。
左手で捌き、右手で突く。
狙いを絞り、一匹、また一匹へと叩き込む。
崩れたゴブリンの頭に、バールを振り下ろした。
金属音。鈍い打撃音。短い断末魔。
戦いの最中、余計な思考は消えていた。
ただ敵の動きと、自分の体の軌道だけを追う。
その繰り返しの果てに、最後の一匹が崩れ落ちる。
雨木は、静かに息を吐いた。
肺の奥で熱い空気が揺れ、遅れて全身の震えが出てくる。
(……ふぅ。これが、腹を据えるってことか)
ようやく冒険者として、スタートラインに立てた気がした。
まだ先は長い。それでも、いま確かに“始まり”を感じていた。
その瞬間だった。
床に崩れた最初のゴブリンの死骸が、淡く光を帯びた。
まるで見えない火花が弾けるように輪郭が震え、淡い粒子が立ち上る。
それはゆっくりと空気に溶け込み――次の瞬間、跡形もなく消えた。
「……は?」
目の前から、肉も皮も、牙も爪も、痕跡すら残らず消えた。
あるのは、ビー玉ほどの大きさの鈍く光る石だけ。
床に転がったそれは、ガラスのように透き通った淡青色。
光を受けて、小さく脈打つように輝いている。
「これが……魔石か」
手に取ると、ひんやりとした感触が掌を刺した。
重みはほとんどない。けれど、確かに何かが詰まっている気がした。
これだけはカード化できない――そう聞かされていた。
だから出入口で必ず確認され、買い取られる。
つまり、これを失くしたら命懸けの戦いはすべて無駄になる。
雨木は思わず、それを強く握りしめた。
ふと、さっきまでの戦いが頭をよぎる。
あのゴブリンの息遣い、牙の白さ、爪の鋭さ。
それが今、煙のように消えた。
「……マジか」
声が低く漏れた。
死ねば骨すら残らない。
肉も血も衣服も、痕跡すら残らない。
(……これ、人間も同じ、だよな)
その想像に、背筋が冷たくなる。
「冒険者は葬式もあげられねぇって……これのことか」
ダンジョンで行方不明になった冒険者は、死因を特定できない。
何も残らないからだ。
それは都市伝説でも何でもなく、いま目の前で起きた現実だった。
戦場跡を見渡す。
消えたゴブリンの位置に、ぽつりぽつりと魔石が転がっている。
四つ――戦った数と一致していた。
雨木はしゃがみ込み、ひとつずつ拾い上げる。
手のひらの中で、ビー玉のような音が鳴った。
「これを五つ持ち帰れば……正式登録、か」
戦う前はただの課題だった。
だが今は違う。
この石が、生きて帰った証だと感じていた。
魔石をポケットにしまい、深く息を吐いた。
全身の力が抜けそうになるのを堪え、壁に背を預ける。
冷たい石壁が、火照った体温をじわりと奪っていく。
「……あと1つ。次は、こっちから先制してやる」
そう思いながらも、今だけは、ほんの一瞬だけ戦いの余韻に身を委ねた。
もう後戻りはできない。
雨木は、生きるためにこの道を歩く。
どんな化け物が待っていようと、必ず生きて帰る。
そして――獲りに行く。
日常の檻からは決して得られぬ、
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを補助利用しています。
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