第4話


 うなされる自分自身の声で、梓は目を覚ました。まばたきをすると、涙が目じりを伝い落ちていった。フラッシュバックする圭との記憶。彼との初めての出会い。多少の脚色はあったかもしれない。それでも、昨日のことのように思い出せる、大切な記憶だった。


 深呼吸して、体を起こす。


 一人暮らしのアパートの一室、ソファの上でいつの間にかうたたねしていたらしい。スマホで時刻を確認する。午前四時半。一時間くらいは夢の世界にいただろうか。


 結局、あのあと梓はまっすぐ家路についた。巨大な怪物に連れていかれる圭の霊魂と、それを導く女。そして彼女に怒りをあらわにする圭の父親。なにひとつ確かなことはないが、ひどく不吉な、決して目にしてはならない深淵を垣間見た気分だった。


 これまで目にしてきたどんな幽霊とも絶対的に違う、おそろしく歪ななにものか。


 到底寝付けるわけもなく、悲嘆と恐怖とがないまぜになった心を持て余しながら、部屋を歩いたり毛布にくるまったりしながら過ごしていた。そうこうするうちに、気を失うように眠りに落ちていたようだった。


 夢の中で、とはいえ彼の顔を見たことで、ほんの少しだけ落ち着いてきた。そしてようやく浮かび上がってくる、言いようのない寂寥感。やっぱり見間違いではない。彼は死んでしまったのだ。


 負の方向に、堰を切ったように心が動きはじめた。


 梓は声を殺し、日が昇り始めるまで涙が流れるに任せた。




 仕事を休みたい気分だったが、今日中にやっておかなければならない仕事も残っていた。泣きはらした目と、寝不足でずきずきと痛む頭のまま、梓は市役所へ向かった。普段は腫れ物扱いしてくる上司や同僚たちも、憔悴しきった梓の様子に心配そうな雰囲気をかもしだしていた。直接声をかけてくることはなかったが、いまはその距離感がありがたい。


 ただ、いつも梓を目の敵にする飯嶋優美だけは別だ。


「体調悪いんだったら帰った方がいいんじゃない」


 デスクに座りながら、梓の方を見ることもなく、平淡に言ってのける。心配するような口調ではない。むしろ大きなとげを含んだ口ぶりだった。


「……別に、大丈夫です」

「そうは見えないけどね。受付に出られないんだったら意味なくない」

「だから、大丈夫です。出られますので」

「いや、そんな顔で?」優美は腕を組む。「住民さんも嫌でしょ、そんな怖い顔で受付されたら。クレームになったらどうすんの? 風評被害受けるのあたしたちなんですけど」

「まあまあ飯嶋さん」課長が自席からなだめる。「あまりそういうことを言うのは、ね」


 しかし、優美にはむしろ火に油のようだった。


「そういうことって何ですか。課長も甘すぎません? うちの仕事は窓口対応がメインなんですよ。それから逃げるような態度を取っている人って、普通に考えて税金泥棒じゃないですか?」

「いや、篠宮さんは別にそこまで……」

「逃げてるでしょ、どう考えても」どこまでも冷ややかに優美は言う。「いくらクビにならないからって、その態度はどうなの? 別に意識高くやれなんて言ってないじゃん、フツーに仕事できないの、って思うんだけど。マジで」


 一つひとつの言葉が梓の心に食い込んでくる。優美の言葉は、確かにどれもまっとうな意見だ。窓口での住民サービスの提供を行うことが梓の役目で、そのために税金から給料をもらっているのだから、笑顔でとはいかないまでも、求められれば応対するのが当たり前。それから逃げている、その自覚はもちろん、梓もずっと持っていた。


 だからこそ、こちらの気も知らないで、とも思う。


 市役所を志望したのは自分自身だ。が、窓口業務に配属してほしいと頼んだ覚えはない。ここにいるのは配属ガチャの結果であって、自分にばかり責任があるものでもない。窓口業務が不適だと考えるなら、課長がそう人事担当に共有して、転属をさせればいい。どうせ自分に人事異動の決定権はないのだから。


 むろん、そんなことをこの場で口走ってもさらに燃料を投下するだけだとわかっている。しかし、幽霊が視えるから、幽霊を視たくないから、なんていう本音を吐露したところで、本当にヤバいやつ扱いされるのがオチで、それも梓が望むことではない。


 どうせ、自分に心から共感してくれる人なんてどこにもいないのだ、といつもの結論にたどり着くしかない。


 とはいえ――昨日の出来事が心に深い影を落としている今日ばかりは、梓も無視を決め込むことができなかった。


「……ふつうって、なんですか」

「は?」

「例規集に書いてありますか、普通に仕事しろって」


 自分でもほとんど意識することなく、そんな反論が口から出ていた。周囲の空気が一層凍り付くのを肌で感じ、余計なことを言ってしまった、と過ちを悔いるがもう遅い。


「なに言ってんの」優美の頬は若干引きつっている。「法令の問題じゃないでしょ、どう考えても。社会人として、大人として当たり前のことを言ったつもりだったんだけど。え、なに、法律とかマニュアルに書いてなきゃわかんないタイプなの?」

「わかりますよ、それくらい」梓もまた、反射的に強い語気で返す。「飯嶋さんこそ、お客様に見える場所で声を荒げるなんて、市役所の品格を下げているとわからないんですか」

「なっ……」


 優美は言葉を詰まらせて、ふと振り返る。カウンターの向こう、待合スペースの市民たちが顔を背けるのを目にすると、さらに鬼の形相を深めて梓に向き直った。


「あたしはただ――」

「はいはい、そこまで」梓と優美の間に、課長が割って入る。「いったん落ち着こう、二人とも。いまは勤務時間中ね。喧嘩は公務に含まれないから。はい、仕事に戻った戻った」


 課長に促され、噴火寸前の表情のまま、優美は立ち去った。給湯室かトイレにでも向かったのだろう。


 梓もひどい疲労感に襲われながら腰を下ろす。柄になく反論してしまったのが恥ずかしい。おまけに、無駄に分泌させたアドレナリンを持て余している。しばらくは頭が熱を持ったままだろう。


 こんなときにも、いつも話を聞いてくれるのは圭だけだった。

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