第26話 ――雫と雫

 練馬署の取調室は、ドラマで見るような無機質な空間だった。




 灰色の壁、無地のスチール机、そしてギシギシと音を立てるパイプ椅子。冷房が効いているはずなのに、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。




 真神怜司は、川原義明の自死現場の第一発見者として、警察による事情聴取を受けていた。




 よく聞く都市伝説のような「第一発見者が一番疑われる」という言葉。それをどこか他人事のように受け止めていた自分が、今まさにその立場に立たされている。笑えない冗談だと思いながらも、怜司は机の端に置かれた紙コップの水に手を伸ばす。だが、その手はわずかに震えていた。




 聴取はすでに三時間を超えていた。川原の自宅を訪れた理由、扉を開けた経緯、現場の状況、遺書の発見、通報の様子に至るまで、刑事たちは一つひとつ丁寧すぎるほどに確認してきた。




 そして、何より怜司自身が身分を偽っていたことが、さらに事態を複雑にしていた。「ルポライター」と名乗ったものの、記者証もなければ所属媒体もない。ただの“フリー取材者”。




 「つまり、あなたは記者ではないと?」




 「はい。記事を書くことはありますが、メディアには属していません」




 「では、なぜ川原氏と接触したのですか」




 「ある失踪事件について話を聞くためです」




 「失踪事件? どなたの?」




 「……香月慧という大学生です」




 怜司は、可能な限り簡潔に、かつ正確に答えた。だが、霊的な要素や異界との関係には一切触れなかった。警察という場所では、超常の話など通じない。むしろ、無用な疑念を招くだけだ。




 取調室の外では、制服警官たちが行き交い、時折刑事たちが耳打ちを交わしていた。怜司はその様子を横目で見ながら、冷えた空気の中に不穏な気配を感じていた。




 聴取を担当していた刑事が、資料の束を持って戻ってきた。




 「川原義明氏の部屋から見つかった遺書。そこには、あなたが昨夜会っていたことが明記されています」




 怜司は静かにうなずいた。




 「ただし、内容が極めて重大であるため、我々としても慎重に裏付けを取らねばなりません。地底湖、失踪、遺体遺棄。すべてが事実であるならば、これは殺人事件です」




 刑事の言葉が続く中、怜司の意識はふと別の方向に引き寄せられていた。




 川原の遺書にあった、もう一つの罪──地底湖に沈んでいるという、もう一人の犠牲者の存在。




 水樹雫。




 その名前が頭の中を何度もこだまする。怜司の依頼人である雫とは、同じ名前、同じ響き。だが、それが“彼女”と同一人物である確証はどこにもない。




 いや、もしかすると彼女は最初から──。




 思考の深淵で何かが泡立ち、怜司はその予感にぞっと背筋を震わせた。




 机の上に組んだ両手を強く握りしめる。




 このままでは終われない。




 川原の遺書は、命をかけて託された最後の真実だった。




 ならば自分は、それに応えなければならない。




 まだ、やるべきことが残っている。




 闇の底に沈んだままの声を──拾い上げなければならない。




 取調室の灰色の壁に囲まれながら、真神怜司は言える範囲で警察に語った。




 川原が命を賭して書き遺した遺書の内容。その証言がただの酔っ払いの戯言にならぬように、自身がこれまでの調査で得た情報を、慎重に、しかし確かに提示していった。




「鬼ノ淵という地底湖が、京都北部の“哭ノ窟”という洞窟の奥にあります。照明器具なしには到底進めない場所で、まともに泳ぐことなど不可能な地形です。にもかかわらず、そこに人が入って行方不明になる……常識的にはあり得ません」




 刑事たちは沈黙を保ったまま、真剣な眼差しで耳を傾けていた。




 怜司はわずかに息を吸い込み、続けた。




「今回の件は、8年前の“ホラー・オカルト愛好会”という大学のサークルに端を発しています。当時の活動記録が記されていたブログは、すでに全て削除されています。また、関係者が関わっていた裁判の記録では、“黒岩”という人物の名前は一切登場していません。ですが、記録の一部は不自然に黒塗りされており、明らかに意図的な隠蔽がなされている形跡がありました」




 彼は鞄から、これまでに入手した資料のコピーを取り出し、丁寧に机の上に並べた。まどかが赤松を訴えた民事裁判の官報、関係者から聞き取った証言メモ。




「川原義明の遺書に書かれていた内容は、これらの情報と整合性が取れています。少なくとも、一方的な妄言とは思えません。彼の告白が真実である可能性は極めて高いです」




 刑事たちは資料に目を通し、時折視線を交わしながら無言でうなずいていた。




 怜司は、胸の奥で静かに期待を高めていた。これでようやく、警察が本腰を入れて動くかもしれない。川原の遺言は、決して無駄にはならない。




 ふいに、一人の刑事が顔を上げて言った。




「……もう帰っていいですよ。また何かありましたらお話伺うかも知れませんが……その時は協力お願いいたします」




 その言葉は、あまりにも突然で、怜司は一瞬理解が追いつかなかった。




「……え?」




「事情は理解しました。あなたの滞在記録や昨晩の行動については、すでに確認が取れています。ビジネスホテルやスナックの関係者からも、証言が得られました」




 ああ、そうか。そういうことか。




 怜司はようやく腑に落ち、椅子から静かに立ち上がった。




「ありがとうございました。事件の事よろしくお願いします」




 一礼して取調室を出ると、外の空気がむっとするほど暑かった。夕暮れが近づいているはずなのに、熱気はまだコンクリートに残っている。




 練馬署を出てタクシーを拾い、品川駅へと向かう。




 新幹線“のぞみ”の発車時刻までにはまだ余裕があったが、心の中は落ち着かなかった。




 今回の帰郷は、もはや事件の調査ではない。




 ――雫、お前は何者なんだ?




 依頼人として自分に接していた彼女。その名は遺書に記された“もう一人の被害者”と一致していた。偶然とは思えない。だが、今の時点では警察に言える確証はなかった。




 何かが食い違っている。だが、確実に雫はこの事件に深く関わっている。




 そして、あの暗い湖の底に、まだ何かが沈んでいる──。




 怜司は目を閉じて、深く息を吐いた。




 全てを明らかにするために。




 再び、京都の地へ向かう。




 過去と、真実と、そして“彼女”に会うために。




 京都・烏丸の雑居ビルの三階。古ぼけた木製のドアを開けると、かつて自分が立ち上げた探偵事務所の空気が迎えてくれた。




 真神怜司は無言のままジャケットを脱ぎ、シャワールームへと向かった。




 音を立てて流れる熱い湯の下、頭を垂れたまましばらく動かなかった。




 川原義明の遺書。地底湖に眠る水樹雫。黒岩と赤松の犯した過去。




 全てがつながった。




 あの練馬のスナックで、酒に酔い、涙を浮かべながら語った川原の告白。


 それは怜司がこの夏をかけて追い続けた謎の、最後のピースだった。




 ――依頼者、雫。




 彼女の言葉がすべての発端だった。


「兄が行方不明になったんです。どうか、探してほしい」




 だが、まどかからもたらされた情報以降、雫は連絡を絶った。いくら電話をかけても音信不通。




 そして浮かび上がってきた“水樹雫”という名。




 川原の遺書に書かれていた、もう一人の被害者。




 偶然、同じ名前の人物が、二人もこの事件の渦中に存在するとは考えにくい。




 ――兄など最初から存在していなかった。




 そう考えれば、すべてはつじつまが合う。




 だが、それを証明するには……もう一度、あの地底湖“鬼の淵”へ行くしかない。




 怜司はシャワーの蛇口を止めた。




 湯気の立ちこめる鏡の中、自分の目がどこか覚悟を帯びていた。




 あの場所に、もう一人の真実が沈んでいる。




 それを、確かめに行く。

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