第9話 ──雫がくれた手がかり

 哭ノ窟から戻って、一週間近くが経っていた。




 京都市内の一角にひっそりと構える、小さな探偵事務所。その奥の一室で、怜司は事務机に腰かけ、手元のスマートフォンの画面を無言で見つめていた。




 画面には、連絡先一覧。その中の一つ──“雫”の名前に親指を置いては離し、また置いては、やめる。




「……押せへんか」




 低くつぶやき、背もたれに身体を預けた。


 LED照明の光が白々しく天井から降り注ぎ、部屋の空気は夏の終わり特有の蒸し暑さを孕んで重く淀んでいる。




 表向きの理由は、あった。


 あの地底湖──鬼の淵の調査報告。


 現地で得た感触や、視えた霊的な現象について、雫に伝える必要がある。




 だが、それだけではない。


 ──あの静かな声を、聞きたかった。


 確かめたかった。その眼差しに、心に、何か変化があったのかを。




 怜司はため息を吐き、スマホを伏せて机の上に置いた。


 手は無意識に、マグカップの取っ手を撫でるようにいじっている。




 そのときだった。




 扉が、二度、控えめにノックされた。




 怜司は一瞬、眉をひそめた。


 誰かが来る予定などなかったはずだ。




「……誰やろ」




 呟きながら立ち上がり、ゆっくりと扉を開ける。




 そこには──




「……こんにちは。突然、すみません」




 雫だった。




 いつものように下ろしていた黒髪は、今日は後ろで緩くまとめられている。


 涼しげなブルーのブラウスと、白いスカート。その佇まいは学生らしさと、ほんの少しの大人びた雰囲気を帯びていた。




 怜司の胸に、微かな動揺が走る。




「……雫さん。どうぞ。いや、びっくりした……連絡、くれるって言ってたのに」




「ごめんなさい。なんだか……声を聞きたくて。でも、電話する勇気が出なくて……来ちゃいました」




 笑っているのか、泣きそうなのか。


 その曖昧な表情が、なぜか怜司の胸を締めつけた。




「ちょうどタイミング良かった。今、報告のまとめやってたとこ。入って」




 雫は小さく頷き、事務所の中へと足を踏み入れる。




 怜司の机の上では、スマートフォンの画面がうっすらと光っていた。


 そこには、未送信のメッセージと、登録名“雫”が表示されたままだった。







 探偵事務所の机に並んだ二つのマグカップからは、まだ微かに湯気が立ち上っていた。


 窓の外では、夏の終わりを告げる蝉の声がかすかに鳴いている。しょぼくれた壁掛け扇風機が首を振るたび、紙類がふわりと浮かび上がっては静かに落ちた。




 怜司は指先でマグカップを回しながら、向かいに座る雫をそっと見た。


 彼女の手元には、冷えたペットボトルと、何か小さな包み。いつものように大人びた表情をしているが、その目の奥には揺れるものがあった。


  


 この前話した通り。




「……先週、“哭ノ窟”に行ってきたんだ」




 静かにそう切り出すと、雫は表情を変えずに軽く頷いた。


 


 実際行ってみて、君が依頼時に言っていたような感じだったよ。




「鬼の淵──地底湖も見てきた。正直言って、あれはとても“泳げる”ような場所じゃなかった」




 怜司の声には熱がこもっていた。




「まず、真っ暗で。LEDの懐中電灯でも届かないほどの深い闇だった。水面がどこまで続いているのかも、底があるのかもまったく見えない。水の音も、壁に吸い込まれていくような感じで……あんな場所、足を踏み入れただけで息苦しくなる」




「……想像できないくらい怖いんですね」




 雫の声は、小さく震えていた。




「そう。しかもね、地上から水面まで高低差がある。もし誰かがあそこに飛び込んだとしたら──自分の意思じゃない可能性が高い。自分から泳ごうなんて、まともな神経じゃできない。戻ってこれる保証もないし、そもそも水面からよじ登れる足場もなかった」




 怜司はそう言って、一度マグカップを手に取り、口に運んだ。




「……つまり」




 雫の方を見ずに、呟くように続けた。




「もし、雫さんのお兄さんが“泳いだ”っていうのなら、それは──強要されたか、もしくは……何か、よほどの理由があったとしか思えない」




 事務所の中が、急に静まり返った。


 扇風機の音だけが、部屋の隅で回っている。




「……じゃあ」




 雫が、ほんの少し躊躇いながら尋ねた。




「兄のこと……そこでは、なにか……感じたんですか?」




 怜司は、その言葉にゆっくりと視線を上げた。




「いや」




 短く、しかしはっきりとした声で答えた。




「……落ち武者や、農民の霊は視えた。泣き叫ぶ赤子の声も聞こえた。でも……雫さんのお兄さんだけは、そこにはいなかった。気配も、音も、何も感じなかった」




 そう言うと、怜司は自分の胸元を指差した。




「霊ってのは、目で見るだけじゃない。“感じる”んだ。……波のように、気配が触れてくる。けど、あそこでは何もなかった。まるで……そこに繋がりがないみたいだった」




 雫は視線を伏せたまま、膝の上で指を組みながら、黙って頷いた。




 その肩は、ほんの少しだけ震えていた。




「でもね」




 怜司は柔らかく続けた。




「この世界に視えないものがあるなら、それはまだ“終わっていない”ってことかもしれない。繋がってないってことは、まだどこかに答えが残ってる可能性がある。そう思ってもいいと思うよ」




 静かな部屋に、また蝉の声が遠くにかすんだ。


 怜司は、彼女の沈黙をそっと受け止めながら、次の言葉を選ぼうとしていた。




 紙コップのコーヒーから立ちのぼる香りが、狭い探偵事務所の空気にほのかに溶けていた。


 蝉の声もだいぶ少なくなった晩夏の午後、雫は机越しに座る怜司の言葉にじっと耳を傾けていた。




「……落ち武者の霊も、農民の霊も……泣いてる赤ん坊も……いろんなものが、見えた」




 怜司は言葉を選びながら、ゆっくりと語っていた。


 その表情には、語ることの重さと躊躇いが同時に浮かんでいる。


 彼は視線をカップの中の黒い液体に落としたまま、ふと口元を引き結んだ。




「……なんか、ごめん。驚かせたかもしれないな」




 その瞬間、雫がふいに小さく笑った。


 驚きでも呆れでもない、どこか含みのあるような微笑み。




「あ、言ってなかったっけ?」




 怜司はきょとんとした顔で、目を瞬いた。




「……え?」




「いえ……依頼する前に、少しだけですけど。探偵さんが“視える人”だって、人づてに聞いてました」




 雫はそう言って、小さく肩をすくめた。


 その声は、落ち着いていたが、少し照れくさそうでもあった。


 怜司は一拍置いてから、驚いたように眉を上げる。




「そっか……そうだったのか」




「でも、こうして目の前で、霊の話を聞くと……やっぱり、驚いちゃいますね。どこか現実味が違うというか……想像していたよりもずっと、はっきりしているから」




 彼女の目は真剣だった。言葉の奥に、怜司に対する信頼が滲んでいる。




 怜司はそのまなざしからそっと目をそらし、息を吐いた。




「……まあ、そう言われると、なんだか少し救われるよ」




 窓の外では、夕方の光がゆっくりと事務所の床に差し込みはじめていた。


 遠くでまた、ひときわ弱々しい蝉の声が、ひと鳴きだけした。




 探偵事務所の窓から見える空は、今にも降り出しそうな曇天だった。湿気を含んだ重い風が、ブラインドをわずかに揺らしている。部屋の中は薄暗く、書類の上に照明の光がぼんやりと落ちていた。




 怜司は手元のコーヒーをひと口すすり、静かに雫の方へ視線を向けた。




「……本当は、依頼を受けるときには必ず話すようにしてるんだ。俺が“視える”ってことを」




 雫は目を瞬かせて、小さく首を傾けた。その仕草に、わずかな戸惑いが見えた気がした。




「でも、今回は……君の依頼が、あまりにも珍しいケースだったから。話すタイミングを逃しちゃってさ。ごめん」




 怜司の声には、自嘲とも謝罪ともつかない響きが混じっていた。




「……それを言うなら、私も知っていたのに何も言わなかったです」




 ふいに雫が言った。




「え?」




 驚いたように怜司が眉を上げる。




「さっきも少し言いましたけど……いえ、依頼をする前に……少しだけ。探偵さんが“視える人”だって、人づてに聞いていました。でも、実際こうしてお話を聞くと……驚いてしまって」




 雫は困ったように微笑む。怜司は苦笑いを浮かべて、うなずいた。




「なるほど。……まあ、結果的にお互い様ってことか」




 そう言いながら、怜司は椅子にもたれ、ふっと遠くを見るような目つきになった。




「でもな、俺のこの“視える力”っていうのも、生まれつきのものじゃないんだ。子どもの頃、水疱瘡にかかって、ひどい熱を出してな。何日も意識が朦朧としてた」




「それで……?」




 雫がそっと問いかける。




「回復した時、なんとなく……世界が変わって見えた。最初はただの後遺症だと思ってたけど、年を重ねても消えなかった。普通の人には見えない“何か”が、ずっとそこにある。それが分かるようになった」




「……つらくなかったんですか?」




「正直、しんどかった。話しても誰にも信じてもらえない。家族でさえ、最初は俺をおかしくなったと思ってたくらいでさ。社会に出ても理解されなくて、職場も長続きしなかった。誤解されるのが怖くなって、何も言えなくなった時期もあった」




 怜司は、コーヒーをもう一度すすりながら、言葉を選ぶように続けた。




「小学生の頃、自分にしか見えない“友達”がいたんだ。今思えば、あれは霊だったんだと思う。けど、当時の俺には唯一の理解者だった。学校のこと、家庭のこと、誰にも言えない悩みも全部、そいつが聞いてくれた。……救われてたんだと思う」




 雫はそっと視線を落とし、黙って頷いた。




「そんなこんなで、この“視える力”を活かせる仕事ってなんだろうって考えた時に、たどり着いたのが探偵だった。見えないものを探す仕事、意外と俺に合ってるんだよ」




 窓の外、曇天の空がますます暗くなっていた。




 怜司は静かにその空を見つめながら、過去の苦しみと、それでも歩いてきた自分の人生を噛み締めるようにしていた。




 探偵事務所の古びたソファに雫が腰かけ、怜司は窓の外の今にも降り出しそうな曇天を一瞥した。


 しばらく沈黙が流れたあと、彼は穏やかに口を開く。




「……僕の話は、ここまでだよ。雫さん、今日は何か話があって来てくれたんだよね?」




 促すようにそう言うと、雫は手提げバッグから一枚のプリントを取り出した。




「はい。言われた通り、兄が以前所属していたオカルト愛好会に、今も名前を変えて活動していました。最初は表向きは普通のサブカル系サークルのように見えましたが、実際に参加してみると活動の雰囲気や話題に、過去の愛好会の色が残っているのじゃないかと感じたんです……分からないですけどね」




 怜司が無言で続きを促すと、雫は一度深く息を吸ってから話し続けた。




「調べていくうちに、サークル名は変わっていても、中心になっていた人たちは同じ流れを汲んでいるようでした。活動再開後は、当時の事件について公には話題にしていませんが、内部では何か共有されている雰囲気がありました。そして、いろいろな方法で探っていたら……8年前の幹部メンバーだった人たちの名前だけは突き止めることができました」




 そう言って、プリントされたA4の紙を怜司の机の上にそっと差し出す。




「ここに書いてある四人です。三人の男性と、一人の女性。当時のサークル内での肩書きと、所属していた学部名も分かりました。顔写真までは無理でしたが、これが私の調べた限界でした」




 怜司は静かにプリントを手に取り、目を走らせる。




 ・赤松達彦(文学部):副代表


 ・川原義明(理学部):会計


 ・間宮拓真(法学部):渉外担当


 ・大泉まどか(人間科学部):広報




「……よく、ここまで調べたね」




 雫は少し微笑みながら、頷いた。




「私にはこれくらいしかできないけれど……でも、何か手がかりになればと思って」




 怜司はそのプリントを丁寧に引き出しへとしまい、ゆっくりと雫に向き直った。




「ここからは、僕の仕事だ。ありがとう、雫さん」




 その言葉に、雫は安心したように肩の力を抜き、小さく頭を下げた。




「……お願いします。兄のこと、どうか……」




 雫が帰っていったあと、探偵事務所の静寂が戻った。怜司は薄暗い室内でひとり、机に広げた資料に目を落とす。




 窓の外は灰色の雲に覆われ、風がビルの隙間を通るたび、古い建物がわずかに軋んだ。




 雫が置いていったプリントは一枚。そこには、三人の男性と一人の女性──かつてのオカルト愛好会幹部の名前と肩書きが並んでいた。




 ・赤松達彦(文学部):副代表


 ・川原義明(理学部):会計


 ・間宮拓真(法学部):渉外担当


 ・大泉まどか(人間科学部):広報




 怜司は紙面をじっと見つめたまま、わずかに眉をひそめた。




「……いないな」




 その言葉は思わず口をついて出た。




 ──部長、つまり、サークルの代表の名前が書かれていない。




 幹部の名前があるのに、なぜ最も重要な立場の人物が抜けているのか。




 意図的に消されたのか。


 それとも、雫が入手した資料には最初から含まれていなかったのか。




「このサークル、やっぱり……何かあるな」




 怜司は椅子の背にもたれ、額に手をやった。曇天の光が事務所のガラス越しに鈍く反射し、重苦しい空気が部屋を包む。




 ──鬼の淵では、確かに過去の霊たちの声を聞いた。


 けれど、雫の兄の存在は、最後まで感じることができなかった。




 ならば、彼はあそこにいなかったのか。


 あるいは、あの場に導かれた者ではなかったのか──




 「……一人ずつ、洗っていくしかない」




 怜司はそうつぶやき、再び紙の四人の名前を見つめた。




 誰が真実を知っていて、誰が嘘をついているのか。




 この名前の中に、鍵を握る者が必ずいる。


 そして、名を伏せられた『代表』という影が、事件の核心にある。




 怜司は引き出しからノートを取り出し、机に広げる。


 ペンを取り、まず最初の名前を記すと、その人物についての調査計画を書き始めた。




 ──風が、遠くでビルの鉄扉を鳴らした。


 怜司のペン先は止まらない。




 闇に踏み込む者の覚悟を、その静けさが包み込んでいた。












登場人物紹介(『名門大学 地底湖失踪事件――水底に眠る声』)


■ 真神 怜司まがみ・れいじ


本作の主人公。


紆余曲折を経て探偵業を営む青年。見た目は物静かで常識人だが、実は“霊が視える”特殊な霊感体質を持つ。


幼少期の水疱瘡による高熱が原因で霊感を発症。以降、視えないものに悩まされ、数々の職を転々としながらも最終的に探偵としての天職に辿り着いた。


普段は淡々としているが、依頼人には誠実で、特に雫に対しては深い思いやりを見せている。




■ 香月 雫こうげつ・しずく


依頼人の女子大学生。名門大学に通っている。


失踪した兄・慧かいを探すため、怜司の事務所を訪れた。


一見おっとりしているが芯は強く、兄の足取りを探るため自身もオカルトサークルに潜入する行動力も持つ。


実は怜司が“視える人”であることを知ったうえで依頼していたが、それはまだ彼に伝えていない。




■ 香月 慧こうげつ・かい


雫の兄で、現在は行方不明。


名門大学のホラーオカルト愛好会に所属していたが、新入生歓迎の肝試しイベントで洞窟「哭ノ窟なぐさのいわや」を訪れたのち失踪。


泳げるような状況ではない地底湖「鬼の淵」に飛び込んだとされるが、真実は謎に包まれている。




■ 慈雲寺 道暁じうんじ・どうきょう


怜司の友人。呪物コレクターであり、寺の息子。


霊感はないが怪異に強い関心を持ち、好奇心と行動力で怜司に協力することも多い。


ふだんはお調子者だが、度胸と信心で心霊的な状況でも踏みとどまる胆力を持つ。




■ 旧ホラーオカルト愛好会の幹部メンバー(8年前)


※雫が調べた資料に記載されていた4名の幹部。いずれも現在は大学を卒業済みで、現サークルとは関係がない。




赤松 達彦あかまつ・たつひこ


 文学部所属。副代表。冷静で理屈派とされていたが、当時の活動内容には深く関与していた可能性あり。




川原 義明かわはら・よしあき


 理学部所属。会計担当。記録魔で、当時のサークル資料や会計帳簿を几帳面に残していたらしい。




間宮 拓真まみや・たくま


 法学部所属。渉外担当。外部との連絡役を担っていたが、ある時期から活動記録から名前が消えている。




大泉 まどか(おおいずみ・まどか)


 人間科学部所属。広報担当。サークルの活動報告やブログを担当していたが、失踪事件後にネット上から痕跡が消えた。


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