第7話 ──泣く赤子と左の道

 怜司と道暁が立ち止まった先に現れたのは、山肌を裂くようにぽっかりと口を開けた巨大な洞窟だった。その姿はまるで大地が深い悲鳴をあげたかのようで、まわりの木々すらその存在を畏れて沈黙しているかのようだった。




 入口は濃密な闇で覆われており、内部の様子はまったく見えない。湿った空気と、土と苔が混じったような匂いが鼻を突く。薄曇りの空の下でも、洞窟の周囲はなぜか一段と暗く、時間の感覚すら曖昧になるような錯覚を覚える。




 「……思った以上に深そうだな」




 怜司がLEDライトのスイッチを入れながらつぶやく。その声には、探偵としての経験に裏打ちされた慎重さと、直感からくる警戒心が滲んでいた。




 「写真で見たときはもうちょい小ぢんまりしてるんかと思てたけど、実物の迫力はやっぱエグいな。これは……アカンやつやな」




 道暁はそう言いながらザックを降ろし、水筒の口をひねって一口飲んだ。彼の声には冗談めいた軽さがあったが、その目は冴えていた。呪物コレクターという奇妙な趣味を持つ彼には、こうした異質な場所に対する独自の感性がある。




 『哭ノ窟』――この名の由来がずっと怜司の頭の中で引っかかっていた。




 地名には意味がある。そんなことを教えてくれたのは、かつて工場勤めをしていた頃の上司だった。三現主義――現場、現物、現実を重んじる教えの中で、名前すらもその土地の“現実”を語る手がかりだと知った。




 淵、沼、沢、蛇、崩。そうした言葉が地名に使われる場所には、過去に災害や事故が多かったという記録もある。




 そして「哭」の文字。




 怜司はふと、道暁がかつて語った“ひとみごくう”の話を思い出す。かつてこの地には貧しい小さな集落が存在し、毎年ひとり、生まれたばかりの子供を「山の神」への供物としてこの洞窟に捧げていたという。




 ――もし、この「哭」とは、その子供たちの叫びだったとしたら。




 怜司の背筋に、ぞわりと冷気が走った。




 「……もしかして、この“哭”ってのは……その子供たちの哭き声、なのか……」




 そうつぶやいた怜司に、道暁がちらりと目を向ける。




 「ん、今なんか言うた?」




 「いや、ひとりごとだよ」




 ふたりは無言で洞窟へと歩を進める。重く湿った空気が肌にまとわりつき、まるで何か見えないものがまといついてくるような不快感を覚える。




 LEDの白い光が岩肌を照らすと、そこには自然が何千年という時をかけて削り出した滑らかな曲線が浮かび上がり、岩の継ぎ目からは水が滴り落ちていた。




 「自然が、何百年も、いや……何千年もかけて作ったんやな……」




 道暁がぽつりと言った。




 怜司は頷いた。道暁の声はどこか感嘆を含みながらも、それ以上に警戒を含んでいた。




 水音が、まるで泣いているかのように洞内に響き渡る。




 そして、怜司は気づく。これまでの依頼とは明らかに異なる感覚。この闇の中に足を踏み入れた時点で、自分たちは“何か”を侵してしまったのではないかという、説明できない違和感だった。




 「道暁、鬼の淵までどのくらいだ?」




 「ここから片道三十分くらいやろな。ぬかるみの具合にもよるけど……」




 怜司は手元の時計を見る。時刻は十八時前。行って戻ってくるには、日没ギリギリの時間だ。




 「……帰りの山道を考えると、暗くなる前にここを出ないと危険度が跳ね上がるな。ここらは時間も日差しも当てにならん」




 道暁はヘッドライトを点け直し、怜司の横に立った。




 「それでも進むんやな、怜司くん」




 普段は呼び捨てで呼ぶ彼が、どこか怖がっているのか、珍しく「くん」づけでそう言った。




 「進むさ。ここまで来たんだ。後には引けない」




 その言葉に、探偵としての決意と覚悟が混ざっていた。




 洞窟の奥へ、ふたりの影が飲み込まれていく。




 “哭ノ窟”――その名前に刻まれた過去と、これから彼らを待ち受ける未来の狭間に、ふたりは足を踏み入れた。




怜司と道暁は洞窟に足を踏み入れて数分も進まぬうちに、その規模の大きさに驚かされていた。




 「……なんだこれ、思ってた以上に……でかいな」




 怜司の呟きが、湿った空間に溶けるように消えていく。




 天井は高く、壁は滑らかに削れ、どこまでも奥へ奥へと続いている。自然が生み出したとは思えないほどに、均整の取れた空間。いまのところは一方通行のように一本道で、想像していたよりは足場もしっかりしていたのが、せめてもの救いだった。




 ただ、感覚が頼りにならない。




 下っているのか、上っているのか。


 足元は懐中電灯、頭上にはヘッドライトの頼りない光。それ以外はすべて、闇だった。




 「……水の音、聞こえるな」




 「ポタ、ポタって音がさ……すすり泣いてる声に聞こえるの、俺だけか?」




 道暁が肩をすくめる。冗談のような口調だったが、声の奥にはわずかな震えがあった。




 たしかに、水滴が岩肌に落ちるたび、それが耳の奥で誰かの泣き声に変換されるような錯覚があった。ときおり、誰かが囁くような幻聴まで混じる。




 「気圧とか湿気のせいで、聴覚が敏感になってるんだ。きっと……」




 怜司はそう言いつつ、背筋にじわりと浮かぶ冷や汗を拭った。




 しばらく無言で歩いていた道暁が、ふと口を開いた。




 「なぁ、その大学生たちって、俺たちみたいな装備で来てたんやろか? 肝試しっつっても、ちゃんと準備してたんかな」




 「どうだろうな……でも、兄貴は新入生で、連れてこられた立場だって雫が言ってた。上級生たちは毎年やってた恒例行事だったらしい。鬼の淵まで来るのに躊躇なかったんじゃないか」




 「いや……それがもう正気じゃないよな、マジで」




 道暁は懐中電灯を振りながら、何度も天井を見上げた。




 実際に現場に来てみて、怜司も思う。




 ──こんな場所で肝試しを“恒例行事”にするなんて、正気じゃない。




 けれど。




 「それにしても、こんだけ立派な鍾乳洞やったら……」




 「観光とかに活用できそうやんな」




 「照明きれいに設置して、ガイドツアーでもやれば地域振興に役立ちそうだ」




 「ほんま、アホな大学生の肝試し会場にするにはもったいないわ……」




 二人は、真面目な話をしているようで、その実、恐怖を紛らわせようとしていることに気づいていた。




 そのとき、道暁のライトがある一点で止まった。




 「……ん? なんやこれ、分かれ道?」




 道の先、洞窟の内部がふたつに分かれていた。




 右か、左か。




 どちらも闇に包まれ、先の様子はまったく見えない。




 その場に、ぴたりと足が止まる。




 呼吸音だけが、二人の間に流れていた。




 怜司と道曉は、二手に分かれた鍾乳洞の前で立ち尽くしていた。




 照らし出されたその光景は、どちらも似たような幅と形状をしており、岩肌の陰影がまるで生き物のようにうごめいて見える。




 「......選択、間違えたら面倒なことになるな」




 怜司が呟いた。LEDライトが照らす空間は、どこまでも続くように思えて不安を煽る。




 「これ、どっち選ぶかで地獄見るパターンやな。」


 道曉が苦笑しながら、ぬかるんだ足元を見つめる。




 「こんな巨大な洞窟や。分岐ひとつ間違えたら、最悪出られへんかもしれん。」




 怜司は頷きながらも、心の中で後悔の種が芽吹きはじめていた。




 (地図もない、電波も通じない、誰も案内してくれる者はいない。…そもそも、こんな状況で入るべきじゃなかったのかもしれない)




 暗闇に包まれた空間では、正常な判断力を保つことさえ難しい。頭上のライトと懐中電灯の光だけが、頼りなさげに道を照らしている。




 「地底湖って聞くと、下っていけば着くって思うやろ?」




 道曉の問いかけに、怜司は静かに首を横に振った。




 「そう単純な構造じゃない。」




 来る途中の山道を思い返す。上りもあれば、下りもあった。起伏の多い山道が続いていた。




 「この洞窟も同じ構造だとしたら、単純に高さや方向だけじゃ判断できない。下るように見せかけて上りになる可能性もある。」




 「仮に、また次の分岐があったら?」




 怜司は無言でライトを持ち上げ、闇の先を見据えた。




 「......このスケールの鍾乳洞を本気で探索するなら、何日もかける必要があるかもな。」




 「俺たち、地図も照明も命綱もなし。ぶっちゃけ、準備不足やな。」




 道曉がそう言ってヘッドライトを点滅させる。




 「今日はもう鬼の淵までは無理かもな。撤退するのも選択肢やで。」




 その言葉に怜司は頷こうとした――その時。




 背後の空気が揺れた。




 怜司の全神経が一点に集中する。




 (......来た)




 理由もわからず、背中に冷たい何かが這い登る感覚。




 「怜司くん、どうしたんや?」




 道曉が不安げな声で聞く。




 怜司は声を低くして言った。




 「......誰か、来る。」




 静寂の中、遠くで水滴の音が鳴った。




 その音すら、何かの足音のように聞こえていた。




 最初は、ただの気のせいかと思っていた。




 背後から、風とは違う、温度を持った何かが這ってくるような気配。けれど振り返っても、そこにはただ自分たちが通ってきた暗く湿った通路が伸びているだけだった。




 「……怜司くん、どうしたんや。なんか変か?」




 道暁の声が洞窟内に反響し、ほんのわずかに震えが混じっていた。




 怜司はゆっくりと背後に意識を集中させた。目では何も見えない。けれど、“視える者”である自分にはわかってしまう。




 ――これは、ただの空気の揺らぎじゃない。




 「……さっき、観光資源にしたらいいとか言ってただろ?」




 「おう、こんだけでかくて見応えある鍾乳洞、うまく照明でも付けてやな……」




 怜司は道暁の言葉をさえぎるように、静かに告げた。




 「……使わない理由が、わかったよ」




 「は?」




 「ここ……出る。確実に、何かが……出る」




 その瞬間だった。




 遠くから、くぐもった泣き声が響いてきた。




 赤子の、泣き叫ぶ声。




 それは水音に混じって、だんだんと近づいてくる。




 ぬかるんだ岩の上を踏みしめるような足音、じゃり、と鳴る砂利の音。それが重なるごとに、怜司の体は強張っていった。




 「……来る」




 低くそう呟いた時、視界の先、来た道の奥に“それ”は現れた。




 粗末な麻の衣をまとった、男たち。




 農民だ。過去の時代に生きたであろう者たち。




 その顔は、どれも鬼のような形相で、口を開けて何かを叫びながら歩いている。しかし声は聞こえない。




 「おい怜司くん……お前、何が見えてるんや……?」




 道暁が不安げに尋ねてくる。




 「……粗末な布に包まれた赤ん坊を抱いてる男がいる。泣いてる、めちゃくちゃ……」




 「赤ん坊……?」




 「周りは農民だ。全員、左の道へ向かってる……多分、捧げるために」




 怜司の口から出た言葉は、洞内の空気すら凍らせるようだった。




 男たちは無言のまま、ゆっくりと、分岐した左の道へと進んでいく。




 その背にあるのは、絶望と罪の重みだった。




 怜司は、まるで記憶の断片を見せられるような感覚に陥り、立ち尽くしたままその光景を見送るしかなかった。




 この洞窟――哭ノ窟とは、そういう場所だったのだ。




 ――ここは、哭く者を捧げる場所。




 水の滴る音に混じって、まだ赤子の泣き声が尾を引いていた。




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