第4話 ──鬼の淵の伝承

 湯呑から立ちのぼる湯気の向こう、道暁は無言のまま怜司の語る内容を黙って聞いていた。


 名門大学の女子学生──香月雫という依頼人。


 その兄が八年前の夏、大学のオカルトサークルの肝試しで地底湖に飛び込み、そのまま戻ってこなかったという。




 「……鬼の淵、か」




 しばし沈黙ののち、道暁が低く呟いた。


 手元の茶碗を畳の上にそっと置き、彼は本堂の片隅に目をやった。


 そこには、ひときわ古びた木箱が埃をかぶって積まれていた。




 「その名前、久々に聞いたな。昔、文献で読んだことがある。正式な地名ではない。けど、あの辺りじゃ“そう呼ばれてた場所”が確かにある」




 「場所は?」と怜司。




 「今はもう無い。ダムの底に沈んでしもうた。福知山と舞鶴の境界の山間部……」




 道暁の声はいつになく硬かった。




 「ただな、レイ。あそこは、土地の“記憶”が濃い」




 「記憶……?」




 「昔、その地域には小さな集落があった。標高は低いが四方を山に囲まれ、冬は雪が深く、人もほとんど寄りつかん場所やった。そこでは“山の神”を信仰していたんやが……」




 道暁は言い淀み、香炉の煙に視線を泳がせる。




 「神と言うても、八百万のそれやない。もっと素朴で、もっと恐ろしい、原始信仰の延長や。人間の理屈が通じへん、そんな存在や」




 怜司の表情が徐々に険しくなる。




 「まさか、その神に子どもを──?」




 道暁は静かにうなずいた。




 「“ひとみごくう”という言葉、聞いたことあるか? 字は“人見極”とも“人見極楽”とも書くらしいけど、要は、間引きや。生活に困窮した村が、育てられん子を選別する。その行為に、“神への捧げ物”という意味を持たせてたんや」




 「……正気じゃないな」




 「正気やったら、そもそもそんな土地にはならへん。ある年の夏、一年に一度、その年に“間引く”と決めた子どもを白装束にして、唄を歌わせながら淵の前まで連れていく。泣こうが喚こうが関係ない。そのまま崖の上から突き落とす。山の神の怒りを鎮めるためやと……」




 怜司の口の中が、急激に乾いた。


 唾を飲み込む音がやけに響く。


 本堂に充満していた呪物の気配が、今やじっとりと肌に染み込んでくるようだった。




 「で、その場所が鬼の淵と……」




 「せや。いつしか村の人間もそれを“鬼の行い”やと噂するようになった。落とされた子らの叫び声が夜な夜な淵から響いてくる、ともな」




 道暁は淡々と語った。


 だが、その声音にはわずかに熱があった。




 「ダムができて、その淵も村も水に沈んだ。けどな、レイ。そういう場所の記憶っちゅうんは、簡単には消えん。上からコンクリ流して埋めても、な。むしろ……欲しがるんや」




 怜司は視線を斜め上にやった。


 本堂の中央に座す観音菩薩が、まるで苦笑いでも浮かべているように見えた。


 そして確かに──こう告げているように思えた。




 (また厄介なものを背負うてきたな、レイ)




 「……道暁。俺はその場所に行く気でいる」




 「知ってる。どうせ止めても行くやろ」




 「うん。だが、今回はお前の力も借りたい。あそこには、ただの“失踪事件”じゃ済まない何かがある気がする」




 道暁は一瞬黙り、やがて片眉を上げた。




 「ええで。だが、気ぃつけぇや。欲しがっとるのは、“人”か“魂”か……それすらもわからん場所や」




 外では風鈴がひとつ、警鐘するかのように鳴り響いた。




 慈雲寺を出た怜司と道暁は、繁華街の喧騒から少し外れた先斗町へ向かった。


 かつては祇園よりも地元民に親しまれた隠れ家的な通りだったが、近年はインバウンドの外国人観光客が急増し、気軽に立ち寄れる場所ではなくなりつつある。外国語の看板やセルフィーを撮る人混みを抜け、彼らは昔ながらの風情を残す小さな居酒屋へ足を踏み入れた。




 居酒屋の赤提灯が連なる路地を抜け、木造二階建ての暖簾をくぐると、カウンター越しに大将が顔を上げた。




 「いらっしゃい。お、道暁さん、また生もんっすか?」




 「うむ、きょうは鳥レバとユッケ、あとホタルイカの沖漬け。酒は冷やで」




 住職らしからぬロングヘアの道暁は、もはや常連客というより異物の風格だった。


 それでも店の者は慣れた様子で注文を通し、怜司には「冷やしトマトでもどうです?」と気を遣う。




 「適当に頼んでください。酒も冷で」




 杯を重ねるごとに、道暁の食欲はますます異様さを帯びていく。レバーにユッケ、時には生牡蠣に馬刺しまで──生のものばかりを口に運びながら、日本酒をついでは呑む。




 「……お前、いつからそんな食生活になったんだ?」




 「ここ数年やな。なんかこう、火の通ったもんが喉を通らへん。生がいいんや、生が」




 「……呪物のせいか?」




 「かもしれんな。いっそ呪物に食われてんのかもしれん。はは」




 苦笑しながら怜司は杯を口に運び、少し黙った。


 やがて道暁が肘をついてこちらを覗きこむ。




 「で、その雫って依頼人。どんな女なんや?」




 「……儚げで、美人だ」




 ぽつりと言葉を漏らした自分に、怜司はすぐ後悔した。酔いのせいか、あるいは本心か──自分でもわからなかった。




 「お前、依頼人に惚れるんはご法度やって言ってたやろ?」




 「……そんなのじゃねぇよ」




 照れ隠しか、酔いの火照りか。怜司はほほを指先でこすりながら目を逸らす。


 道暁はニヤついた顔で一升瓶を傾けた。




 「まあ、あの世とこの世の狭間で出会う縁もあるさ」




 「縁じゃなくて、仕事だよ」




 「ほう。なら、その仕事とやら、いつ行くんや? 鬼の淵ってやつ」




 怜司はポケットからスマホを取り出してカレンダーを見た。




 「来週の日曜。朝から向かう。下調べは必要だが、まずは一度現地に立ってみたい」




 「了解。こっちも準備しとく。車で行こか?」




 「頼む」




 二人はその後、静かに酒を飲み干し、それぞれの夜へと別れていった。


 先斗町の路地裏は、もう真夜中の気配に包まれていた。


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