ミステリーホラー『名門大学生 地底湖失踪事件――水底に眠る声』
カトラス
第1話 ──香月雫という女
梅雨が明けたはずの空が、なおも重たく垂れこめていた午後三時すぎ。 京都市・烏丸通沿いの古びた雑居ビル。その三階の一角に、看板も掲げていない探偵事務所がある。狭い廊下の奥、擦りガラスに“真神調査事務所”と貼られたプレートが、かろうじてそこが営業中であることを示している。
中では、真神怜司(まがみ・れいじ)が背凭れの軋む椅子に身体を預けていた。年齢は三十代半ば。どこか影のある男で、大学にも進学せず、若い頃から雑多な仕事を転々としていたが、十年ほど前から調査業に腰を据えている。表向きは探偵、裏では“視える”者として知られる存在だった。
曰くのある未解決事件や、報道もされぬ奇妙な出来事──そんな類の依頼にこそ、彼の好奇心は掻き立てられる。人が語りたがらないもの。記録に残らぬもの。そういった“隙間”にある何かを探すことが、彼にとっては生業であり、生き甲斐だった。
薄汚れた机の上には、一冊の古書が広げられていた。表紙には擦り切れた金文字で『怪譚蒐録』とある。頁の隙間からはカビの臭いと、少し湿った紙の感触が滲み出ていた。
事務所のドアが控えめにノックされた。
「失礼します……ご相談したいことがあって」
声は静かで、妙に低く湿っていた。 現れたのは若い女だった。二十歳そこそこだろうか。やけに真っ白な肌に、長い黒髪。繊細な輪郭に品のある瞳を宿し、どこか儚げで、それでいて凛とした空気を纏っていた。季節外れの長袖のブラウスが、彼女の細い腕を隠している。容姿は端正で目を引くが、その美しさがむしろ焦燥と不安を際立たせていた。
「私……香月雫(かづき・しずく)と申します」
女はそう名乗ると、勧められる前にソファへ腰を下ろした。
「兄が、行方不明になりました。八年前の夏、八月十二日……南洛大学の行事で、ある洞窟に行って」
南洛大学。全国的に知られる名門私立大学。
半数以上か付属高校から入学してくるが偏差値は高い。卒業生の進路も誰しもが入りたがる一流企業ばかり。いわゆるエリート大学で在校生は金持ちばかりなのが世間の印象の学校名だった。
怜司は本を静かに閉じ、女の横顔を見つめた。目元の影は濃く、完璧に整った化粧ですら隠しきれぬ憔悴と緊張が、彼女の輪郭をわずかに強張らせていた。
「お兄さんの名前は?」
「香月慧(けい)──当時、文学部のホラー・オカルト愛好会に入ったばかりでした。新入生歓迎の行事で、洞窟へ行ったそうです。地底湖のある、“鬼ノ淵”へ」
怜司は目を細めた。耳慣れぬ名ではない。かつて聞き覚えのあるその地名には、どこか人の口に上らない“裏の記憶”が染みついていた。
香月雫は、真神怜司の前で両手を膝に置き、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。彼女の表情には緊張が宿っていた。
「事件が起きたのは、八月十二日の夜です。兄が入っていたサークル、正式には“ホラー・オカルト愛好会”という名前だったんですけど、そこの恒例行事で──毎年、夏に肝試しイベントをしていたんです」
怜司は頷き、手元のメモ帳にさらりと日付と名称を書き込んだ。
「その年、場所に選ばれたのが“鬼ノ淵”という洞窟でした。北部の廃坑跡にある、今は地図にもろくに載っていないような場所です。アクセスが悪くて、最寄りのバス停から山道を一時間も登ると洞窟かあるそうです。しかも、そのバス停に行くバスは1日に1便だけです。だからサークルメンバーの誰かが乗っている車で行ったのだと思います」
「なぜそんな場所に?」
「……“出る”って噂があったからだと思います。サークルの先輩が面白がって」
雫の声が少し硬くなる。
「洞窟の最深部には、地底湖があるんです。光がまったく届かない、真っ暗な場所。水面に懐中電灯を向けても、反射すら返ってこないほど……。サークルでは“新人はそこで泳ぐ”のが、通過儀礼みたいになってたそうです」
怜司のペンが止まった。
「泳ぐ?」
「はい……信じられないですよね。私も最初は冗談だと思ってました。でも、それが実際に行われていたって、後で知ったんです。しかも──地底湖までは地上から三メートル近い高さがあるんです。ほとんど崖ですよ」
「つまり、そこから飛び込んだら、湖面には戻れない?」
「そうです。足場もないし、壁は濡れていて登れません。すり鉢状の地形で、水中から脱出するルートがないんです」
怜司は額に手をやった。正気の沙汰ではない。
「事件の発覚は……?」
「その夜、洞窟にいた誰かが消防に通報したんです。“助けてください。人が……溺れたかもしれない”って。場所の説明も要領を得ず、救助隊が到着したのは翌朝になってからでした」
雫は唇を噛みしめた。
「兄は戻りませんでした。先輩たちは“気づいたらいなくなっていた”って、口を揃えたんです。だけど──そんなこと、あるわけがない。暗闇の中で、人が水に入って消えるのを“気づかない”なんて」
「誰が飛び込ませたのか、泳がせたのか……誰も名乗り出なかった?」
「ええ。それに、通報者の名前も明かされていません。消防が記録を残していたけど、情報開示請求しても“非公開”の一点張りで……」
彼女の声がかすかに震えた。
「私、知りたいんです。本当は何があったのか。なぜ、兄が戻ってこなかったのか。だから私は真実を知りたいから……南洛大学に入学しました。でも、一人では何をしていいのか……だから人づてにここの事を知り依頼しに来ました」
その言葉の裏には、怒りも悲しみも、そして諦めきれない思いもあった。
怜司は黙って立ち上がり、古ぼけた書棚から一冊の地図を取り出した。古地図の隅に、かすかに記された“鬼ノ淵”の文字が滲んでいた。
ここから、始めなければならない。
あの水の底に沈められた“真実”を、掘り起こすために──。
「鬼ノ淵……」
そう呟くと、雫が鞄から一枚の紙を取り出した。破れかけた大学ノートの一頁。それを怜司に差し出す。
『湖の底から、何かが俺を呼んでいる。水が、喉に触れている。……まだ、生きてるのか?』
「これ、兄が洞窟に行く前日に、私の部屋のポストに入れていたんです。封筒にも入れず、裸のまま、濡れて……」
怜司は紙を持ち上げた。指先に伝う感触は、何かを吸ったようなぬめりと重さが残っていた。たしかに、これは尋常ではない──そんな直感があった。
「……他に、気になっていることは?」
雫は、唇を震わせながら小さく首を振った。
「兄はそんなことに進んで関わる性格じゃありませんでした。それに、オカルトの類も苦手だったのに……しかも光のない暗闇の洞窟内の地底湖に自分から飛び込むなんと……だから余計に、違和感があるんです……なにか、誰かに強制されたんじゃないかって」
彼女の声音には、焦燥というより“確信に近い迷い”が宿っていた。
「サークル内での人間関係、恋愛沙汰やトラブルの噂はありましたか?」
「……正直、知りません。でも、兄が好きだった女の子が、他の上級生と付き合っていたという話は、あとから聞きました。SNSで、当時のメンバーが書いていた個人ブログを偶然見つけたんです。もう閉鎖されていましたけど……スクリーンショットだけは保存してあります」
怜司は無言でうなずいた。依頼人の語る過去は、断片の連なりだ。だがその“継ぎ目”にこそ、本当の歪みが潜んでいる──それが彼の経験則だった。
事務所の時計がひとつ、鈍い音を鳴らした。外では、雨が降り出しそうな気配がしていた。
「あと、依頼料とかお高いのでしょうか?」
「いや、うちは良心的な価格ですよ。まぁ、私の気分やその時の懐具合とかもありますけど……他所ならこういう特殊案件はぼられますけどね」
「それじゃ、今の懐具合は……」
「悪いですよ。でも正直に言いますと少し興味がありますからお安くしときますよ」
怜司はお代は成功報酬と実費だけで良いですからと言って雫に微笑みを見せた。
■
雫が帰った後、怜司は手元のノートパソコンを開いた。あの事件について、ネットで調べ始めたのだ。八年前──南洛大学の学生が、地底湖のある洞窟で行方不明になった。検索ワードは「鬼ノ淵 大学生 行方不明」「香月慧 南洛大学」「地底湖 事故」──
しかし、出てきた情報は驚くほど少なかった。記事は一件だけ。地方紙の短い記事がネットアーカイブに残されていたが、その内容は、
《八月十二日、南洛大学の学生が洞窟探検中に消息を絶った。捜索は難航し、現在も発見には至っていない。警察は事故として扱っている》
──ただ、それだけだった。
怜司は眉をひそめた。大学生が失踪する事件、それも「洞窟で肝試しをしていて姿を消した」「最深部にある地底湖で泳いで行方不明」となれば、本来ならワイドショーが飛びついて報道する。SNSでも拡散され、顔写真や詳細な行動経緯が追われていてもおかしくない。
だが現実には、ネット上には彼の顔写真も、当時のサークルの名前も、関係者の証言すら見当たらない。
さらに雫が見たという“個人ブログ”も──事件後しばらくして閉鎖され、現在では閲覧できない。
断片的にキャッシュが残っているだけで、決定的な証拠にはならない。それでもそこには確かに、当時の空気と、サークル内部の奇妙な“浮き沈み”が記録されていたという。
不可解な行方不明、静かに消された記録、そして沈黙する関係者。
真神怜司の中に、じわりと熱が灯る。
これは、まだ誰も語っていない“物語”のにおいがする──。
さてどこから調べようか。 ──当時、あのサークルに所属していた元メンバーたちに話を聞きたいところだが……そもそも情報が少なすぎる。
確か、あの雫って名前の依頼者も兄と同じ大学に進学してると言っていたから彼女を使って探るとするか。
ちょうど、今は探偵の案件も無く暇だからちょうど良い。面白くなるかも知れないな。
事件の“記録”が薄いということは、それを語る“人間”の口を叩くしかない。
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