私の就職先は『変な部屋』でした
私が赤いボタンから指を離した瞬間、コントロールームの張り詰めていた糸がぷつんと切れた。まるで長い夢から覚めたかのように誰もが我に返り、目の前のモニターに映し出された静かな奇跡の余韻に浸っていた。
モニターの中の若いカップルはもうそこにはいなかった。彼らは私たちが何も指示を出す前に二人で静かに部屋を後にした。手を取り合うでもなく言葉を交わすでもない。ただお互いの存在だけを確かめるように同じ歩幅で並んで歩いていく。その背中は決して幸せの絶頂にあるようには見えなかった。しかしそこには絶望の淵から這い上がった者だけが持つ、静かで揺るぎない強さが確かに宿っていた。彼らの本当の物語はここから始まるのだ。
「……終わったのね」
宮野さんが呆然と呟いた。彼女はゆっくりと立ち上がると私の隣にやってきて、私の手を両手でぎゅっと握りしめた。その手は小刻みに震えている。
「……眠夢ちゃん、あんた本当にすごいよ。私、自分の仕事が恥ずかしくなった。私が見てたのはただの上辺のキラキラだけだったんだね。本当の強さって、こういうことなんだ」
その瞳には大粒の涙が浮かんでいた。それは悔し涙でも悲しみの涙でもない。新しい世界を知り、自分の未熟さと向き合った人間の、清々しい涙だった。
「……庭師か」
部屋の隅から聞こえてきたのは蛇田さんの低い声だった。彼はいつの間にか私の背後に立っていた。その手にはもうモップはなく、ただ固く拳を握りしめている。
「……見事な手腕だった。敬意を表する」
彼はそう言うと私に向かって深く深く頭を下げた。元刑事のその実直で最大の敬礼に、私はただ胸が熱くなるのを感じるしかなかった。彼の沈黙が、どんな賛辞よりも雄弁に私の心を打った。
ママは何も言わなかった。彼女はただ静かに立ち上がると「後片付けよろしく」と一言だけ残してコントロールームを後にした。その背中が何を語っていたのか、今の私にはまだわからなかった。ただ、その巨大な背中がほんの少しだけ、震えていたような気がした。
◇
あの日から数日が過ぎた。私の卒業式はいつの間にか終わっていた。友人たちから送られてきた華やかな写真を見ても私の心はもう少しもざわつかなかった。私の戦場はここにある。私の仲間はここにいる。そう確信していたから。
そして週が明けた月曜日の午後、ついにその時はやってきた。内線が鳴りママが私を執務室に呼び出したのだ。『人事査定』。その四文字が私の頭の中で重く響く。
私は一つ深呼吸をするとママの執務室の扉をノックした。
「……入りなさい」
中から聞こえてきたのはいつもの低い声。部屋に入るとママは巨大なマホガニーのデスクにふんぞり返っていた。今日の彼女は真っ赤な炎のようなドレス姿。その姿はまるでこれから私に最後の審判を下す閻魔大王のようだった。
「座りなさい」
促されるままに私は彼女の正面の椅子に腰掛けた。心臓が早鐘のように鳴っている。クビになるならそれでもいい。でも、この場所で出会った仲間たちと離れるのは、たまらなく寂しい。
「さてと」
ママは分厚いファイルを机の上に置いた。
「先日のレベルX案件についての最終評価を言い渡すわ」
ゴクリと喉が鳴る。
「近藤眠夢。あんたは業務マニュアルを完全に無視し、独断で施設の最重要システムを使用した。これは重大な契約違反であり本来であれば即刻解雇に値する行為よ」
ママの言葉は冷たくそして事実だった。私はただ俯いてその言葉を受け止める。どんな処分も受ける覚悟はできていた。
「しかし」
彼女は言葉を続けた。
「結果としてあんたは精神的崩壊の危機にあったクライアントを救った。いや救ったなんておこがましいわね。あんたは彼らが自分自身の力で立ち上がるための『きっかけ』を与えた。それは私たちの企業理念である『相互理解促進』を最も高いレベルで体現した行為でもあった」
ママはそこで一度言葉を切ると私をじっと見つめた。その瞳の奥の感情は読めない。
「……よって会社はあんたの功罪を総合的に判断し、以下の人事を決定したわ」
ついにその時が来た。私はぎゅっと目を閉じた。
「――本日付で『特殊コンサルティング部門』を新設する」
「……え?」
予想外の言葉に私は思わず顔を上げた。
「通称『心の庭(ガーデン・オブ・ハート)』。その部門の役割は二つ。一つは今回のレベルXのような極めてデリケートな案件への対応。そしてもう一つはあんたが以前提案した『アフターケア・プログラム』の本格的な導入と運営よ」
アフターケア。私のあの青臭い提案をママは覚えていてくれた。そしてそれを認めてくれたのだ。
「そして」
ママはにやりと笑った。その笑みは閻魔大王ではなく、全てを見通す女神の笑みだった。
「その新設部門の初代室長として、近藤眠夢、あんたを任命するわ」
室長。私が室長。その言葉の意味がすぐには理解できなかった。頭が真っ白になる。
「……わ、私がですか? そんな大役、私なんかが務まるわけ……」
「他に誰がいるって言うのよ」
ママは呆れたように言った。
「この会社であんた以上に人の心の庭をいじくり回すのが好きな変態はいないわ。あんたがやるしかないのよ。これは命令よ」
命令。でもその響きは不思議と心地よかった。必要とされている。私という人間が、私のやり方が、この場所で確かに認められたのだ。涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
「……はい」
私は立ち上がり深く深く頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
私の就職先は“変な部屋”でした。真面目すぎると笑われ不器用だと呆れられ、社会から弾き出された私がようやく見つけた居場所。そこは他人の最もデリケートな部分を覗き見る、とんでもない職場。
でも人生でいちばん人間を知れた気がします。愛の多様さ、人の複雑さ。そしてどんな日陰にも必ず花は咲くということ。
コンドームちゃん。かつて私を縛り付けた忌まわしいあだ名。でも今なら少しだけわかる。
コンドームは人と人を繋ぐものであり、同時に互いを守るものでもある。
私の仕事はそれと同じなのかもしれない。傷ついた心に安全な空間というシェルターを用意し、彼らが再び誰かと繋がるための手助けをする。近藤眠夢。この名前に恥じない仕事を私はここで続けていく。
執務室を出るとドアの前で宮野さんと蛇田さんが待っていた。二人は全てを知っていたかのように私に微笑みかけた。
「室長、ご就任おめでとうございます!」
宮野さんが茶化すように敬礼する。その目元は少し赤い。
「……期待している」
蛇田さんが短くしかし温かい言葉をくれた。その手にはなぜか小さな花束が握られていた。卒業祝い、なのだろうか。その不器用な優しさに、今度こそ涙腺が緩んだ。
私の新しい物語がまたここから始まる。
ようこそ『なかよしルーム』へ。
そしてようこそ『心の庭』へ。
私たちの奇妙で愛おしい仕事はこれからも続いていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます