穏やかな日々
橘蒼太さんという最高のパートナーを得て、『余白の庭』プロジェクトは驚くほどのスピードで形になっていった。それは私にとって目まぐるしくも満ち足りた日々だった。自分の漠然とした言葉にならない「想い」が橘さんの手によって美しい「形」を与えられていく。その奇跡のような共同作業に私は夢中になっていた。自分の心の庭に蒔かれた小さな恋の種に気づかないふりをしながら。
そしてプロジェクトの始動から約一ヶ月後、ついにその日はやってきた。新しいルーム『余백の庭』の完成披露の日だ。
コントロールームにはいつになく厳かな空気が流れていた。ママ、宮野さん、蛇田さん、そして私。四人の視線が壁に新設された一つのモニターに注がれている。モニターはまだ黒い画面のままだ。
「……準備、できました」
インカムを通して橘さんの少し緊張した声が聞こえてくる。彼は今完成したばかりの新ルームの中で最終チェックを行っているはずだ。
「では橘さん、お願いします」
ママが静かに告げる。
次の瞬間、モニターの黒い画面にぱっと光が灯った。そこに映し出されたのはあまりにも静かでそして美しい空間だった。
壁も床も天井もすべてが柔らかなオフホワイトで統一されている。橘さんがこだわっていた和紙を漉き込んだ壁紙は照明の光を優しく吸収し反射して空間に無限の奥行きを与えていた。部屋の中央には小ぶりな無垢材のテーブルとシンプルな椅子が二脚だけ。そして壁の一面には大きな一枚板の窓が設えられている。その窓はまるで一枚の絵画のようにどこまでも青い春の空を切り取っていた。
そこは私が夢想した『何もない部屋』。しかしそれは空っぽの虚無ではなかった。むしろそこには静寂と光と時間に満ちあふれた究極に贅沢な『豊かさ』が存在していた。
「…………すごい」
最初に声を漏らしたのは宮野さんだった。彼女は目を大きく見開いたままモニターに釘付けになっている。
「……何もないのに、なんだろうこの安心感。……ここにいたらどんな悩みもどうでもよくなっちゃいそう」
いつもは足し算のきらびやかな世界に生きる彼女が、この引き算の美学を直感的に理解したのだ。
「……静かだ」
次に呟いたのは蛇田さんだった。
「……音が死んでいる。完璧な静寂。これならどんな小さな心の声も聞こえるだろう」
彼はその完璧な機能性を見抜いていた。
そして最後にママがゆっくりと口を開いた。
「……ふん。まあ悪くないんじゃないの」
その口調はぶっきらぼうだったが、その素顔に近い横顔にはかすかな笑みが浮かんでいるように見えた。
「これなら客も呼べるわね。……よくやったわ眠夢。あんたの勝ちよ」
ママの一言が私の胸にじんわりと広がっていく。私はただモニターを見つめていた。自分の頭の中にしかなかった風景が今目の前にある。その不思議な感動に視界が滲んだ。
「皆さんいかがでしたか?」
インカムから橘さんの少しはにかんだような声が聞こえる。
「僕からのプレゼンテーションは以上です。あとは実際にこの空間を体感していただくのが一番かと」
彼のその言葉に私たちは顔を見合わせた。そして誰からともなく立ち上がり新ルームへと向かった。
重い防音扉を開ける。一歩足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。モニター越しに見ていたのとはまったく違う。空気が違うのだ。ひんやりと澄み渡り、まるで早朝の高原の森にでもいるかのような清浄な空気に満たされている。
私たちはしばらく言葉もなくその空間を味わっていた。やがてママが満足そうに頷き、宮野さんと蛇田さんもそれぞれのやり方でこの部屋の完成度を確かめている。
私は一人大きな窓のそばに立った。窓の外には雲一つない青空が広がっている。その青に吸い込まれそうになったその時。
「……気に入ってくれましたか?」
すぐ隣から優しい声がした。橘さんだった。彼はいつの間にか私の隣に立っていた。
「はい……」
私はこくりと頷いた。
「……すごいです。私が想像していた以上に……。私のあのわけのわからない言葉をこんな素敵な形にしてくれて……。本当にありがとうございます」
感謝の気持ちが次から次へと溢れ出してくる。私は彼に深々と頭を下げた。
「やめてくださいよ」
彼は慌てたように言った。
「僕の方こそお礼を言いたいくらいです。こんなにエキサイティングな仕事は初めてでした。近藤さんのおかげです」
彼は私と同じように窓の外を眺めた。二人の間に心地よい沈黙が流れる。
「……この部屋でこれからどんな物語が生まれるんでしょうね」
彼がぽつりと呟いた。
「きっとたくさんのカップルがここで自分たちの答えを見つけていくんだろうな。……なんだか僕まで楽しみになってきた」
「……はい」
「もしよかったら……」
彼は少しだけためらうように言葉を続けた。
「この部屋で生まれた物語のこと、今度僕にも聞かせてくれませんか? もちろんプライバシーに触れない範囲で構いませんから」
それはデザイナーとしての純粋な興味からくる言葉だったのかもしれない。でも私にはそれが彼からの不器用なデートの誘いのように聞こえた。
「……はい、喜んで」
私がそう答えると彼は眼鏡の奥の瞳を嬉しそうに細めた。その笑顔を見て私は確信した。私の心の庭に蒔かれた種は今、確かに小さな小さな芽を出したのだと。
リニューアルオープンは大成功に終わった。『余白の庭』はその斬新なコンセプトが話題を呼び予約が殺到した。私は庭師としてその真っ白な庭で繰り広げられる様々な愛の形を見守り続けた。
業務を通して変わり始めた自分。そして心を通わせ始めた大切な人。私の人生は就職に失敗したあの冬とは比べ物にならないくらい色鮮やかに輝き始めていた。
なかよしルームに、そして私の心にも、確かに春が来ていた。
この穏やかで幸せな日々がいつまでも続けばいい。私は心の底からそう願っていた。この先にまた新たな嵐が待ち受けていることなどまだ知る由もなかった。
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