リスタート
私が倒れたあの日から、コントロールームの空気はまるで嵐が過ぎ去った後の朝のように静かで、そしてどこか澄み渡っていた。
私はもう自分を偽らなかった。
『尋問官』の冷たい仮面を被ることはやめた。
今の私はただの近藤眠夢。不器用でお人好しで、人の痛みに人一倍敏感な、二十一歳の新米庭師だ。
そんな私の変化を一番近くで感じていたのは、やはり同僚たちだった。
「眠夢ちゃん、最近なんだか柔らかくなったね」
昼休み、宮野さんがカフェテリアの席で向かいに座りながら言った。
「前はなんていうか、いつもピリピリしてて、触れたら切れちゃいそうなガラスのナイフみたいだったけど。今は丸い石みたい」
「……石?」
「うん。どっしりしてて動じない感じ。こっちもなんだか安心する」
彼女のその独特の表現に、私は思わず苦笑してしまった。
石、か。それは褒め言葉なのだろうか。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
部屋の隅では蛇田さんが相変わらず黙々と掃除をしている。
しかし、彼の私への態度も微妙に変わっていた。
時々、彼が私に向ける視線にほんのわずかだが、「観察」以外の色が混じるようになったのだ。
それは興味と呼ぶにはまだ早すぎる、ごくごく淡い何か。
彼が淹れてくれる日替わりのハーブティーの種類が、私のその日の顔色に合わせて選ばれているらしいことに気づいたのは、ここだけの秘密だ。
そして、ママ。
彼女は私の「庭師宣言」以来、私に直接的な指示を出すことはほとんどなくなった。
ただ時々、コントロールームの隅の彼女専用の肘掛け椅子から、私の仕事ぶりをじっと眺めている。
その素顔に近い表情は読み取れない。
でも、その視線が私を試すものではなく、ただ静かに「見守る」ものであることを、私は感じていた。
そんなある日。
私に一つの案件が割り振られた。
依頼者は二十代半ばの若いカップル。
交際二年。そろそろ同棲を考えているが、その前に互いの気持ちを確かめ合いたいという、レベル2の可愛らしい依頼だった。
以前の私なら「またありきたりの恋愛相談か」と心のどこかで見下していたかもしれない。
でも、今の私は違った。
どんな庭にも、そこにしか咲かない花がある。
私はただ、それを見つけたい。
そんな静かな気持ちでモニタリング席についた。
ルームに入ってきた二人は、どこにでもいる普通のカップルだった。
男性は少し照れ屋で口下手なタイプ。
女性は明るくおしゃべりで、彼をリードしているように見える。
二人はソファに座ると、最初は楽しそうにおしゃべりをしていた。
しかし本題である「同棲」の話になると、途端に会話がぎこちなくなる。
「……やっぱり一緒に住んだら楽しいだろうな、って」
「うん、そうだね。家賃も半分になるし」
「それに毎日会えるしね」
「うん……」
会話が続かない。
二人の間には見えない壁がある。
それは嫌悪や不信感ではない。
もっと漠然とした、「不安」という名の壁だ。
以前の私なら、ここでマイクを握りしめていただろう。
『あなたのその沈黙は何を意味しているんですか?』
『本当は同棲なんてしたくないんじゃないですか?』
そう相手を問い詰めて、無理やり本音を引きずり出そうとしていたはずだ。
でも、今の私はただじっと待った。
庭師は種が芽を出すのを辛抱強く待つものだ。
私は二人の非言語サインに意識を集中させた。
男性はしきりに自分の指のささくれをいじっている。
女性は笑顔を作りながらも、その足先が小刻みに揺れていた。
二人とも言葉にできない不安を抱えている。
その不安の正体は何だろう。
私は二人のプロフィール資料をもう一度見返した。
男性はフリーランスのウェブデザイナー。
女性はアパレルショップの店員。
生活リズムも金銭感覚もきっと違うはずだ。
同棲はただ楽しいだけじゃない。
お互いの生活習慣や価値観のすり合わせが必要になる。
その現実的な問題が二人の心に重くのしかかっているのだ。
彼らはお互いを傷つけたくない。
「好き」という気持ちを疑いたくない。
だからその不安に蓋をしてしまっている。
このままではいけない。
この小さな不安の種は、放置すればやがて大きな不信感という雑草になって二人の庭を覆い尽くしてしまうだろう。
今、必要なのはほんの少しのきっかけ。
固くなった土を耕してやる、優しい一言。
私はゆっくりとマイクのスイッチを入れた。
そしてできるだけ穏やかで、何気ない声色を作った。
「――お二人とも、少しお疲れのようですね。よろしければ窓の外をご覧になってみてはいかがですか? 今日はとても空が綺麗ですよ」
私のその唐突な提案に、モニターの中の二人はきょとんとした顔で顔を見合わせた。
そして促されるままに窓際に歩み寄る。
ルームの窓からは都会のビル群の向こうに広がる、どこまでも青い秋の空が見えた。
「……ほんとだ。綺麗だね」
女性がぽつりと呟いた。
「うん……」
男性も頷く。
二人はしばらく無言で空を眺めていた。
その沈黙は先ほどの気まずいものではなく、どこか心地よく穏やかなものだった。
やがて男性が先に口を開いた。
それは空に向かって話しかけるような、独り言のような呟きだった。
「……俺、ちゃんとやっていけるかな」
「え?」
「お前、朝早いだろ。俺、夜型だからちゃんと起こしてやれるか、とか。あと飯もちゃんと作れるかわかんねえし……。迷惑かけたくないんだよな」
それは彼の初めての弱音だった。
彼のその不器用な告白に、女性の目が潤んだ。
「……バカだなあ」
彼女は笑いながら言った。
「そんなこと気にしてたの? 私だって不安だよ。あなたの仕事の邪魔になっちゃうんじゃないか、とか。家にずっといられたら、私かまいすぎちゃってうざがられるんじゃないか、とか」
次々と溢れ出す、お互いの本当の気持ち。
それは愛を疑う言葉なんかじゃなかった。
相手を大切に思うからこその、愛おしい不安だった。
二人は初めて本当の意味で向き合うことができたのだ。
やがて二人は、どちらからともなくそっと手をつないだ。
その繋がれた手はもう離れることはないだろう。
ミッションはコンプリート。
でも、その意味は私の中ですっかり違うものになっていた。
私は静かにヘッドセットを外した。
胸の中に温かい何かがじんわりと広がっていく。
それは尋問官として勝利した時の、あのアドレナリンが駆け巡るような興奮とはまったく違う。
小さな花の蕾がゆっくりと開いていくのを見守ったような、穏やかで満ち足りた幸福感だった。
私は自分のデスクの引き出しから一冊の本を取り出した。
あの日ママが私に渡してくれた、『解決志向アプローチ入門』。
まだ数ページしか読んでいないその本を、私はゆっくりと開いた。
私、なんのためにここにいるんだっけ?
その答えは今、確かにこの手の中にある。
私は人を裁くためにここにいるんじゃない。
人を救うなんておこがましいことも考えていない。
ただ、ここにいる。
迷えるカップルたちの隣に。
彼らが自分たちの力で、自分たちだけの答えという名の花を咲かせるのを、見守るために。
私の就職先は、“変な部屋”でした。
でもそこで、私は私の本当の居場所を見つけたのかもしれない。
そんな予感がしていた。
私の庭師としての仕事は、まだ始まったばかりだ。
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