やらせてください

屋上でママに全てをぶちまけたあの夜から数日。

私の心はいまだ、どんよりとした厚い雲に覆われたままだった。

それでも私は毎日職場に通い続けた。足が鉛のように重くても、胃のあたりに氷の塊が居座っているような感覚が抜けなくても、ただ無心でタイムカードを押した。


『あんたはあんたのやり方で、この仕事と向き合うしかないの』


ママの言葉がまるで呪いのように私の頭から離れない。

私の、やり方。

そんなものあるのだろうか。

お人好しで涙もろくてすぐに感情移入してしまう、このビジネスの世界では何の役にも立たない私の性格。

それを武器に変える。

あまりにも途方もない課題に私はただため息をつくことしかできなかった。


コントロールームの空気はあの日以来、どこかぎこちない。

宮野さんは必要以上に明るく私に話しかけてくれる。その気遣いがありがたいと同時に、少しだけ痛かった。

蛇田さんは相変わらず無口だったが時々彼が淹れてくれたらしいハーブティーが私のデスクにそっと置かれていることがあった。その不器用な優しさに、私はどう応えればいいのかわからなかった。


私はただ与えられた仕事を機械のようにこなした。

モニタリング業務では意識的に感情のスイッチを切った。

モニターの向こうで誰が笑おうと泣こうと私の心はもう揺れない。揺らさない。

私はただのカメラのレンズ。情報を右から左へ受け流すだけの、無機質な装置。

そう自分に言い聞かせ続けた。


しかし。

そんな私の固く閉ざした心の扉を執拗にノックし続ける存在があった。

相川莉奈。

金のために愛を演じた、あの美しいモデルの女性。

彼女の全てを諦めたような虚無の表情が、モニターの残像のように私の脳裏に焼き付いて離れないのだ。


あの日高槻に屈辱的な形で金を投げつけられた後、彼女はどうなったのだろう。

また別の男の都合のいい「恋人役」を演じているのだろうか。

それとも一人部屋の片隅で心を殺して蹲っているのだろうか。

考えても仕方のないこと。私には関係のないこと。

そう頭ではわかっているのに。

私のクソみたいな「お人好し」と「正義感」がそれを許してくれなかった。


ある日の昼休み。

私は誰にも告げずに一人コントロールームの片隅にある資料保管室へと向かった。

目的は高槻渉の案件ファイル。

私はあの日莉奈がサインした電子同意書にもう一度目を通した。

そこに書かれた彼女のか細い震えるような筆跡。

それは彼女がこの世界にかろうじて繋ぎ止めている唯一の魂の叫びのように私には見えた。


私は何をしているんだろう。

ただ好奇心で他人のプライベートをさらに深く、探ろうとしているだけじゃないのか。

これは私の醜い自己満足じゃないのか。

罪悪感が胸を締め付ける。


でも、もう止まれなかった。

私は自分のスマホを取り出すと、検索エンジンに彼女の名前を打ち込んだ。

『相川莉奈 モデル』

ヒットしたのはいくつかのファッションサイトと所属しているという小さなモデル事務所のホームページだけ。華やかな経歴とはほど遠い。


私はさらに検索ワードを変えてみた。

『相川莉奈 舞台』

『相川莉奈 演劇』

すると数年前の小さな劇団の公演情報がいくつかヒットした。

その中の一つの公演レビューのブログに私は目を奪われた。


『……特にヒロインの親友役を演じた相川莉奈という女優が素晴らしかった。彼女の悲しみを湛えた瞳は観る者の心を強く揺さぶる。彼女はきっともっと大きな舞台で輝くべき才能だ……』


写真も載っていた。

舞台化粧を施した今よりもずっと幼い顔立ちの莉奈。

その瞳は虚無ではなかった。

そこには確かに夢と希望と、そして演じることへの純粋な喜びがキラキラと輝いていた。


彼女はただの金で動く役者じゃなかった。

彼女にも守りたい大切な夢があったんだ。

それをいつどこで諦めてしまったんだろう。

どんな現実に打ちのめされて心を殺してしまったんだろう。


私はたまらない気持ちになって資料室を飛び出した。

向かう先は一つしかない。

ママの執務室だ。


コンコン、と重厚な扉をノックする。

「……入りなさい」

中から低い声がした。


扉を開けるとそこはママの趣味を煮詰めて凝縮したような空間だった。

壁には前衛的なアートが飾られ部屋の隅にはなぜか甲冑が一体鎮座している。

ママは部屋の中央にある巨大なマホガニーのデスクで、葉巻をくゆらせていた。


「……何の用? 新入り」

ママは私を一瞥すると興味なさそうに言った。

「仕事中に感傷に浸るのはやめろって言ったはずだけど」


「感傷じゃ、ありません」

私は自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。

「これは業務改善提案です」


「……ほう?」

ママが面白そうに片眉を上げた。


私は息を一つ吸い込んだ。

もう、迷わない。

これが私の見つけた私だけの「やり方」だ。


「私、この仕事が嫌いです」

私はまずそう切り出した。

「人の心を覗き見てそれを評価する。そんな神様みたいな真似、本当はしたくありません。でもこれが私の仕事です。お金をもらって責任を負うプロの仕事です。だから逃げません」


「……」

ママは黙って私の言葉の続きを待っている。


「私たちはお客様の『なかよし』を確認します。でもミッションが成功しても失敗しても、私たちの仕事はそこで終わりです。その後彼らがどうなったのか。私たちは何一つ知りません」


私は高槻と莉奈の案件ファイルをママのデスクの上に置いた。


「この二人、高槻様は依頼者の父親を一時的に安心させられたかもしれません。でも彼の根本的な問題は何も解決していない。莉奈さんは心をさらに深く傷つけただけです。こんなの誰も幸せになっていません」


「それがどうしたっていうのよ」

ママが冷たく言い放つ。

「私たちは慈善事業家じゃないのよ。依頼された仕事をこなすだけ。それがビジネスよ」


「わかっています!」

私は、声を、張り上げた。

「だから、これは、ビジネスの話です! 私たちの仕事は、『恋愛関係における相互理解促進コンサルティング業務』のはずです。でも、今のやり方では、ただの、『覗き見代行サービス』でしかありません! これでは、顧客満足度は、上がりません! 長期的な、リピーターも、生まれません!」


私は就職活動で嫌というほど叩き込まれたビジネス用語を必死に並べ立てた。

感情論じゃない。これは会社の利益のための提案なのだと自分に言い聞かせるように。


「だから提案します。『アフターケア・サービス』を導入すべきです」

「……アフターケア?」

「はい。ミッションが終了したお客様に対して、希望者には後日専門のカウンセラーによるカウンセリングを提供するんです。私たちのモニタリングで得た客観的なデータをカウンセリングの材料として活用します。そうすれば、お客様は自分たちの関係性をより深く見つめ直すことができるはずです」


それは私が一晩中必死に考え抜いたプランだった。

私の「お人好し」とこの仕事の「非情さ」。

その矛盾を繋ぎ合わせる唯一の方法。


「……面白いじゃないの」

ママは紙巻の煙をゆっくりと吐き出すと、初めてにやりと笑った。

その笑みはいつもの不気味なものではなく、どこか楽しんでいるようにも見えた。


「でもね新入り。そんな面倒なこと誰がやるの? 専門のカウンセラーを雇う金はどこにあるの? あんた、まさかボランティアでやれって言うんじゃないでしょうね?」


ママの鋭い指摘。

私はぐっと言葉に詰まる。

そこまで考えていなかった。


「……それは……」

「あんたよ」

ママはきっぱりと言った。

「あんたがやるのよ。そのアフターケアとやらを」


「え……!? わ、私がですか!? でも、私、カウンセラーの資格なんて……」

「資格なんていらないわよ。あんたには人の心の痛みに誰よりも寄り添える才能がある。……まあそれがあんたの最大の欠点でもあるんだけどね」


ママは立ち上がると私の前に立った。

そして私の肩に、ぽんと手を置いた。


「いいわ。認めましょう。あんたのそのクソ生意気な、業務改善提案。ただし条件がある」

「……条件?」

「まずは実績を作りなさい。あの相川莉奈とかいう女。あんたがどうにかしてみなさいよ。もし、あんたがあの、死んだ魚みたいな目をした女の心を少しでも動かすことができたら……。その時はあんたの言う『アフターケア』部門の設立を、本格的に検討してあげてもいいわ」


それはあまりにも無茶な課題だった。

でも。

私の心には不思議と絶望はなかった。

それどころか暗闇の中に一筋の光が差し込んだような、そんな感覚があった。


道が、見えた。

私がこの地獄で歩くべき道が。


「……はい」

私は顔を上げた。

そしてママの目をまっすぐに見つめ返した。

「やらせてください。私にチャンスをください」


私の瞳にいつの間にか力が戻っていることに私自身はまだ気づいていなかった。


地獄の歩き方が少しだけわかった気がした。

それは、ただ目を逸らして通り過ぎるんじゃない。

地獄のそのど真ん中で、蹲っている誰かのその手を引いてやること。

たとえそれがお節介で自己満足で偽善だと言われても。


私はもう迷わない。

これが私の戦い方だ。

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