第17編 来年も、また。

 彼女が死んだのは、3年前のこの日だった。

 それ以来、毎年、決まってこの日になると手紙が届く。

 宛名も差出人も手書きで、切手の貼り方にさえどこか懐かしさがある。


 封を開けるのが怖いのに、開けずにはいられない。

 手紙の文面はいつも優しかった。

 まるで、あの人がまだ生きていて、遠くの町でひっそりと暮らしているかのように。


《今年もまた、〇〇の桜が綺麗でした。あなたは元気ですか?》


 そんな調子で始まる。

 花や空の色、スーパーで見かけた安売りの苺のこと、旅先で出会った猫のこと。

 ほんの些細な話を、あの人は淡々と、けれど愛情を込めて綴っている。


 便箋には香水の匂いまで移されていて――そう、それは確かに、彼女だった。

 間違いなく、彼女の筆跡で、彼女の匂いで、彼女のやり方だった。



 けれど、彼女はもういない。

 あの日、あの夜、山の中で土をかぶせたときから、ずっと。


 ――俺は殺していない。


 そう、少なくとも俺の手では。

 俺が手を下すより先に、彼女はもう、あいつの手によって息をしていなかった。


「ねえ、アンタ、ほんとにあの女と別れる気あるの?」


「……何の話だよ」


 忘れられない、あのときの口調。

 ひどく乾いていて、それでいて粘つくような熱を含んでいた。


 浮気相手―― “彼女じゃない方”は、いつからか自分のことを「本命」だと思い込んでいた。

 俺が2人の間をうまく誤魔化していたせいだ。


 いや、誤魔化していたというより、どっちにも本気だったのかもしれない。

 でも、それはあくまで俺の都合であって、彼女たちの感情とは無関係だった。



「やっと、アンタだけのものになったのに。ねえ、ちゃんと始末してよ」


 あの夜、山の中に向かう車内で、助手席の彼女はそう言った。

 すでにトランクには彼女の遺体が詰まっていて、シートにまで血の跡が染みていた。

 俺はもう、選べなかった。


 ――警察に行くか?


 でも、浮気のことが知られたら。

 彼女を守れなかった罪と、俺自身が手を汚していなくても、それを隠したという事実は消えない。

 だから、俺は埋めた。口をつぐんだ。そして、その年の春に最初の手紙が届いた。


《誕生日おめでとう。来年も、あなたの好きな紅茶を送るね》


 文末にはそう書かれていた。便箋の端に、小さく手を振る女の子のイラスト。それもまた、彼女らしかった。

 犯人は明らかだった。俺の浮気相手――いまや共犯者となった女が、彼女のふりをして便箋を書いている。


 俺への当てつけか、あるいは、もう逃げられないぞという脅しなのか。

 彼女の名前で書かれた手紙が、俺を縛っていく。


「もしこれを、警察に見せたら?」


 かつて一度だけ、俺はそう言った。


「いいよ、見せて。全部バラすけど。あんたが浮気してたことも、あの子が私に何を言ったかも、それで私が何をしたかも――ねぇ、全部一緒に終わろっか?」


 笑っていた。ほんとうに、あいつは笑っていた。

 恋をして、壊れて、壊した先で全部自分のものにしようとしていた。

 だから俺は、手紙を受け取り続けるしかなかった。



 3通目の封筒が届いた今朝、ふと妙な重さがあった。厚みが、違う。

 中を開けると、手紙に添えて、写真が入っていた。

 あの山だ。


 夜に、車のヘッドライトで照らされた斜面。黒く濡れたスコップ。掘り返された土。

 白く、細い何かが、顔を覗かせている。


《来年もまた、会いに行こうね。今度は、あなたの番かな》


 手紙は、それだけだった。

 手が震えていた。呼吸がうまくできなくなっていた。窓の外を見る。誰もいない。ポストには封筒の残骸。スマホを握る。通報するか。でも、何を。


 彼女は死んでいる。浮気相手は、生きている。俺も、生きている。

 でも、どこまでが本当に“生きている”と言えるのか、もうわからない。

 俺はただ、息を殺して、部屋の隅に座り込む。


 来年もまた、手紙が来るのだろうか。

 彼女の字で、彼女の香りで、あの夜の続きを綴るように。


 それとも、次は俺が――

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