ハイメの鳥たちは語らう
ウムラウト
第1話 パンデミック
ラジオの雑音が研究室に響いている。私は試験管を手に、その声に耳を傾けていた。午前7時30分、いつものように早めに研究室に来て、昨夜から培養していた細胞の状態を確認している最中だった。
《本日も世界各地でAXE-11ウイルスの感染者数が増加しています。WHO発表によると、現在までの世界総感染者数は約21億人に達し、これは世界人口の約27%に相当します────》
試験管の中の透明な液体が、微かに揺れた。私の手が震えているのだろうか。
私はエマ・ロバーツ、28歳。ウイルス学の博士号を取得してから3年、この太平洋の孤島にある研究所で働き始めて2年になる。分子生物学を専攻し、特にRNAウイルスの複製機構について研究してきた。
研究室の蛍光灯が、白い光を実験台に投げかけている。整然と並んだ試験管、ピペット、顕微鏡。いつもと変わらない風景なのに、ラジオから流れる声が現実を突きつけてくる。
私は試験管を試験管立てに戻し、深く息を吸った。
《……続いて環境ニュースです。アマゾン熱帯雨林の破壊面積が過去最大を記録しました。また、北極海の氷床面積は観測史上最小となり、海面上昇が各地で観測されています────》
私はラジオのボリュームを下げた。毎日同じような報道が続いている。環境破壊、異常気象、そして止まらない新型ウイルスの蔓延。まるで世界が複数の破綻を同時に迎えているようだった。これほど多くの危機が重なることがあるのだろうか?
私は学部時代に学んだ生態学の授業を思い出した。生態系の崩壊は、往々にして連鎖反応を起こすものらしい。
研究所の窓から見える海は、今日も穏やかに青い。太平洋の深い青と、空の淡い青が水平線で溶け合っている。ここは北太平洋に浮かぶ小さな島で、最寄りの陸地まで500キロメートル以上離れている。島の面積は約12平方キロメートル、研究所の建物と宿舎、小さな港以外は原生林と岩場に覆われている。
月に一度の補給船以外、外部との接触はほとんどない。皮肉なことに、この隔絶された環境が私たちを守っていた。
窓ガラスに手を当てると、ひんやりとした感触が伝わってくる。3月の太平洋は、まだ冬の記憶を残している。研究所は島の南側の高台に建てられていて、ここからは島全体を見渡すことができる。北側の断崖には海鳥のコロニーがあり、時折その鳴き声が風に乗って聞こえてくる。
「エマ、また暗いニュースを聞いているのか」
振り返ると、研究所長のハイメ・カスティーリョが立っていた。58歳の彼は、メキシコ系の血を引く穏やかな男性で、銀髪を短く刈り込み、いつも白衣の胸ポケットに小さなメモ帳を入れている。深い茶色の瞳には、長年の研究で培われた知性と、同時に人間的な温かさがある。
「所長、失礼しました。つい……」
私は言葉を濁した。毎朝、世界の状況を確認するのが習慣になっていた。科学者として、現状を把握することは必要だと思っていたが、最近はそれが心の重荷になっている。
「気持ちは分かる。だが、我々にできることは限られている」
ハイメはテレビのスイッチを入れた。42インチの液晶画面に世界地図が映し出され、赤い点が無数に散らばっている。感染地域を示すマップだった。赤い点は日に日に濃くなり、範囲を広げている。
《……現在蔓延している新型のウイルスについて改めて説明いたします。現在、AXE-11(アクス・イレブン)と呼ばれているこのウイルスは空気感染、飛沫感染、接触感染のすべての経路で感染し、基本再生産数は5.2と、季節性インフルエンザの約5倍の感染力を持ちます────》
私は無意識に首元に手をやった。ウイルス学を専攻している私には、この数値の意味がよく分かる。一人の感染者が平均して5.2人に感染させる。指数関数的な増加は、数学的には美しい曲線を描くが、現実では恐怖でしかない。
《感染後、約1週間の潜伏期間を経て発症し、初期症状として39度以上の高熱、強い倦怠感が現れます。発症から約2週間後には意識レベルの低下、見当識障害が始まり、3週間後には中枢神経系が広範囲に侵され、多臓器不全により、ほぼ100%の確率で死に至ります────》
私は唾を飲み込んだ。何度聞いても、この臨床経過には慣れない。ウイルスが脳神経系を標的とする機序については、まだ完全には解明されていない。私たちのような基礎研究者にとって、それは大きな挫折感を伴う現実だった。
《……現在、有効な治療薬やワクチンは開発されておらず、ウイルスの変異性の高さが治療法確立の大きな障害となっています。RNAポリメラーゼの校正機能が極めて低く、1日で約0.3%の塩基配列に変異が生じると推定されています────》
「やはり、変異率が異常に高い……」
私は呟いた。通常のRNAウイルスでも変異は起こるが、AXE-11の変異速度は桁違いだった。まるでウイルス自体が意図的に変異を促進しているかのような挙動を示す。
「そうだな。新たな株が広まるのも驚異的に速い」
ハイメの声には、科学者特有の冷静さと、どこか寂しさが混じっていた。彼は30年以上ウイルス学に携わってきたベテランだが、このウイルスの前では私たちは皆、初心者のようなものだった。
この時、研究室のドアが開いた。マーカス・ウィルソンが入ってくる。38歳の彼は免疫学の専門家で、やせ型の体に大きな眼鏡をかけ、いつも神経質そうに指を動かしている。今朝も白衣のポケットから何度もペンを出し入れしている。彼の癖だった。
「所長、エマ。最新の検体データが出ました」
マーカスは手にしたタブレットを私たちに見せた。画面には複雑なグラフと数値が並んでいる。系統樹解析の結果らしく、分岐が複雑に絡み合っている。
「先月採取された検体のゲノム解析結果です。ウイルスの変異パターンを解析したところ、既に12の主要な変異株が確認されています。しかも、その変異速度は我々の予想を上回っています」
私はタブレットの画面を覗き込んだ。系統樹の分岐パターンを見ると、変異が特定の部位に集中していることが分かる。特にスパイクタンパク質をコードする領域の変異が目立つ。
「つまり?」
私は尋ねた。データの意味は理解できるが、マーカスの見解を聞きたかった。
「従来のワクチン開発手法では追いつかない可能性が高い、ということだ。標的となるエピトープが次々と変化している。一つの抗原に対するワクチンを開発している間に、ウイルスは既に別の形に変異しているだろう」
室内に重い沈黙が流れた。テレビでは相変わらず感染者数の増加が報告されている。私は実験台に肘をついて、額に手を当てた。博士課程で学んだワクチン学の基礎理論が、現実の前では無力に感じられる。
《……ヨーロッパ全域で都市封鎖が実施されましたが、感染拡大は止まっていません。フランスでは医療従事者の感染により、多くの病院が機能停止に陥っています。アジア各国でも同様の措置が取られていますが、効果は限定的です────》
私は窓の外を見た。水平線の向こうには、崩壊しつつある世界がある。しかし、ここには平和があった。
青い海、白い雲、時折飛び交う海鳥たち。島の南東部には小さな入り江があり、そこでは熱帯魚が泳いでいる。まるで別の惑星にいるようだった。
この静寂と、テレビの中の混乱。どちらが現実なのだろうか?
「エマ」
ハイメが声をかけた。
「君はどう思う?」
「何についてでしょうか?」
「我々がここで研究を続ける意味についてだ」
私は考えた。世界が今にも終わろうとしている時、この小さな島で何ができるだろうか。私たちはたった数人の研究チームに過ぎない。最新の設備はあるが、人手は圧倒的に不足している。
大学院時代の指導教官が言っていた言葉を思い出した。『科学は積み重ねだ。一人の天才よりも、多くの凡人の協力の方が重要だ』と。
「……分かりません」
正直に答えた。
「でも、やめる理由も見つからないんです。私たちがここにいる理由は、このウイルスを理解することでした。状況が悪化したからといって、その目的が変わるわけではありません」
ハイメは微笑んだ。その表情には、年齢を重ねた人間の持つ深い諦観と、同時に消えない希望があった。彼の人生を知っているわけではないが、きっと多くの困難を乗り越えてきたのだろう。
「そうだな。我々は科学者だ。答えを探すのが仕事だ。答えが見つからなくても、探し続けることに意味がある。そうだろう?」
この時、研究室の奥にある通信室から足音が聞こえた。サラ・テイラーが現れる。32歳の彼女は通信担当で、赤い髪を後ろで束ね、そばかすのある顔をいつも心配そうに曇らせている。
今朝も、いつも以上に表情が暗い。
「皆さん、本土からの定期連絡です……」
サラの声には緊張が込められていた。毎週金曜日の午前8時、本土の統括事務所から定期連絡が入る。通常は事務的な内容が多いのだが、最近は世界情勢の悪化に関する報告が増えていた。
「内容は?」
ハイメが尋ねた。
「感染率が30%を突破しました。WHOの最新推計では、世界人口の約30.7%が感染、または感染の疑いがあるとされています。また、各国政府の機能の一部が停止し始めています。アメリカでは連邦政府職員の40%が感染により欠勤、イギリスでは議会の開催が無期限延期されました」
私の胸に冷たいものが走った。30%という数字は、統計上の数値以上の意味を持つ。社会機能の維持に必要な人的資源が失われ始めているということだ。
「そして……」
サラは一度言葉を切った。
「……補給船の運航停止が検討されているそうです」
マーカスの顔が青ざめた。
「いつから?」
彼の声は震えていた。
「早ければ来月から。船員の感染リスクを避けるため、また、各地の港湾施設での検疫体制が機能しなくなっているためだそうです」
私は無意識に研究室を見回した。冷蔵庫、冷凍庫、培養装置。これらすべてが外部からの物資供給に依存している。培養培地、試薬、消耗品。研究を続けるためには、継続的な補給が不可欠だった。
テレビでは、どこかの都市の映像が流れている。人影のまばらな街路、閉ざされた店舗、マスクをした人々の姿。かつて賑やかだったであろう商店街が、ゴーストタウンのようになっている。
《……現在、世界各地の研究機関がワクチン開発を進めていますが、ウイルスの変異速度に追いつけない状況が続いています。アメリカ疾病予防管理センターでは、研究員の30%が感染により研究を中断せざるを得ない状況となっているようです────》
私は自分の手を見つめた。これまで数え切れないほどの実験を行ってきた手。ピペット操作、細胞培養、PCR、ゲル電気泳動。でも、その成果はまだ見えない。私たちの研究は、まだ基礎段階に留まっている。
「所長」
私は顔を上げた。
「私たちにできることは何でしょうか? 現実的に、この状況で」
ハイメは長い間考えていた。彼の視線は窓の外の海に向けられていた。遠くで白い雲が流れ、海面に影を落としている。
「我々は、世界で最も隔絶された研究所の一つだ」
彼は静かに答えた。
「だからこそ、感染の心配なく研究を続けられる。世界が混乱している今だからこそ、冷静に、客観的に、このウイルスと向き合える。感情に流されず、データに基づいて判断できる」
マーカスが頷いた。
「確かに、ここなら集中して研究できます。外部からの干渉もない」
「データもあります」
サラが付け加えた。
「世界中の研究機関から共有されてくるゲノムデータ、臨床データを統合すれば、新しいパターンが見えてくるかもしれません。個々の研究所では見えないことも、統合解析により明らかになる可能性があります」
私は研究室を見回した。最新の機器が並び、培養装置が静かに作動している。シーケンサー、質量分析計、電子顕微鏡。ここには、世界を救う可能性がある。微かな可能性かもしれないが、それでも可能性だった。
「やりましょう」
私は言った。
「他に選択肢はありません。私たちが諦めれば、この島の研究成果は失われます。世界中の研究者が感染により研究を中断している今、私たちの役割はより重要になっています」
ハイメが微笑んだ。
「そうだ。我々は最後まで科学者であり続けよう。それが我々にできる、唯一で最大の貢献だ」
マーカスとサラも頷いた。4人の小さなチームだったが、その瞬間、私たちの間には確かな結束が生まれた。絶望的な状況の中で、科学に対する信頼だけが私たちを支えていた。
窓の外で、海鳥が一羽鳴いた。まるで私たちの決意を見守っているかのように。その鳴き声は、風に乗って島全体に響いた。
テレビでは相変わらず悲観的なニュースが流れているが、私はもうそれを聞いていなかった。明日からの研究計画を頭の中で組み立てていた。まず、最新のゲノムデータを統合解析し、変異パターンの詳細な解明から始めよう。
世界は混乱している。でも、ここには静寂がある。ここには時間がある。そして、ここには希望がある。
小さな希望かもしれない。でも、それで十分だった。科学は、小さな希望の積み重ねから生まれるものだから。
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