第5話「神谷蓮の契約書⑤」

「神谷蓮、サマーライブ決定――日本武道館公演」


ニュース速報のテロップが流れた瞬間、世間は再び熱狂した。


SNSのトレンドは一瞬で染まり、

ライブ特設サイトはアクセスが殺到しサーバーがダウン。

スポンサー企業は次々と名乗りを上げ、テレビ番組が次々と特集を組む。


「なんでだよ」


蓮は、膝の上で握り締めた拳を、ただ見下ろしていた。


もう、夢なんかどうでもよかった。

音楽も、成功も、再生数も。

けれど、止まらない。

歯車は勝手に回り続ける。


いつの間にか楽屋も用意され扉が開くたび、上機嫌なスタッフが笑いかけてくる。


「武道館、一緒にぶち上げましょう!」

「今が一番いい波です、蓮さん!」

「成功は確実なのでアリーナツアーも視野に入れましょう!」

「蓮さん!このあと飲みどうすか(笑)」


誰も彼も、勝手に盛り上がって騒いでいる。

(黙れ、黙れ黙れ黙れ!!お前らは俺の何なんだよ。

俺のことを何一つ知らないくせに!)


喉まで込み上げた叫びは、唇を押し当てて飲み込んだ。

「こんな空気、ぶち壊してやりたい」と思った。

でも、壊した瞬間、二度と戻れない気がした。

戻れないことが、怖かった。


(今は、この偽りの祝福に乗っかってた方が楽だ。楽なんだよ)


誰一人、蓮の顔を見ていない。

皆、数字と再生回数と金の話しかしない。

けれど口々に「夢が叶った」と笑う。


だが、蓮の耳にはそれが、呪詛のようにしか響かなかった。


(やめろよ、もう、やめてくれよ)


そう願っても、声にはならない。

体が勝手に動き、会釈をし、笑顔を貼り付ける。


舞台の設営が始まった。


巨大なLEDパネル、無数のスポットライト、重低音が響くスピーカー。

プロデューサーたちが笑いながら話す。

「夢の集大成ってやつを見せましょう」

その言葉に、蓮の指先は小さく震えた。


(俺の夢って、こんなだったか?)


でも、誰にも言えない。

誰にどう説明すればいいのかもわからない。

抗えば全てが崩れる。

進んでも地獄。

止まっても地獄。


気づけば、衣装合わせのフィッティングルームに立たされていた。

真っ白なスーツ。

「神谷さんのクライマックスを飾る勝負服です!」

スタイリストは笑う。

だが、その白さが、蓮にはまるで弔い着にしか見えなかった。


(これが俺の終わりの衣装なんだな)


フィッティングルーム。

白すぎるスーツが、皮膚に貼り付くようだった。


「バッチリ決まりましたね、神谷さん。これで武道館の主役です!」


スタッフの弾んだ声。

だが、蓮にはその言葉が耳障りだった。


(もう終わりにしよう)


蓮は静かにスマホを握りしめた。

そして、スタッフの目を盗みながら、そのまま非常階段へ向かった。


人気のない階段室。

錆びた鉄の匂いと、かすかに灯る非常灯の緑。

窓の向こうには、ビル群の明かりが滲んでいる。


誰もいない。

誰も、もう、自分に夢が叶うなど語りかけてこない。


(これで全部、終わるんだ)


蓮は静かに手すりを跨いだ。

足元には、無機質なコンクリート。

けれどその灰色が、今は救いにすら見えた。


「さよならだ俺の夢も、俺自身も」


ためらいは一切なかった。

体は、これ以上何かを背負うことを拒絶していた。


蓮は身を投げる。

風が耳を裂き、鼓膜の奥で何かが千切れる音がした。

景色がぐるりと反転する。


(これでようやく楽になれる)


胸の奥に張り付いていた重さが、剥がれていく。

痛みも、苦しみも、どこか遠くへ飛んでいく。


(どうしてもっと早く、この選択をしなかったんだろう)


初めて、蓮は心から「安堵した」。

誰にも追いかけられず、誰にも夢を押し付けられない、完全な解放。

瞼が閉じる瞬間、彼の顔には微笑みすら浮かんでいた。


そして、意識が闇に飲まれた。

手を離れたスマホが壁にぶつかる。

乾いた「カツン」という音が、どこか遠くの世界で響いていた。

もう自分には関係ない音だった。

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