23. 崩れゆく平穏

「わ、我は……」


 ゼノヴィアスは必死に考えた。そして――――。


「ゼ、ゼノと……呼ぶことを、許そう」


 精一杯の妥協案だった。本名の一部だけ。嘘ではない、が、真実でもない。


「はははっ!」


 シャーロットが明るく笑った。


「許されちゃった!」


 その無邪気な反応に、ゼノヴィアスは戸惑う。『許す』の何がまずかっただろうか――――?


「ゼノさん、今日もご来店ありがとうございます」


 シャーロットはにっこりとほほ笑んだ。その笑顔が、なぜかゼノヴィアスの胸を締め付ける。


 コホンッ!


 咳払いしたゼノヴィアスは話を戻す。


「そ、それで、シャ、シャーロットに、欲しいものはないのか? 宝石とか……」


 魔王城には、人間界では想像もつかないような宝物が山ほどある。こぶし大のダイヤモンドに、魔力で美しく輝く魔晶石――――。


「宝石なんて、いらないわ」


 きっぱりとした拒絶に、ゼノヴィアスは驚いた。


 え……?


「私はね」


 シャーロットは店内を見回した。愛おしそうに、誇らしげに。


「この『ひだまりのフライパン』で、みんなの笑顔と触れ合える時間が好きなの」


 夕暮れの光が、彼女を優しく染めている。


「エプロン姿に宝石なんて似合わないわ」


 その言葉に、ゼノヴィアスは衝撃を受けた。


 五百年の人生で、宝石を断った人間など初めてである。皆、富を、美を求めた。


 だが、この少女は――――。


「だから」


 シャーロットは悪戯っぽく微笑んだ。


「明日も来てくださいね? それが一番の贈り物です」


 ゼノヴィアスの心臓が、大きく跳ねた。


「か、考えておこう……」


 精一杯平静を装いながら、ゼノヴィアスは踵を返した。これ以上ここにいたら、何を口走るか分からない。


 足早に扉へ向かう。


 でも、心はもう決まっていた。


 明日も、明後日も、その次も――――。


 きっと来る。この温かい場所に。



     ◇



 出ていくゼノヴィアスを見て、シャーロットはふと思い立った。


(そうだ、今日こそ)


 昨日も気になっていたこと。あの人は一体どこへ帰るのか――――?


 そっと扉を開け、外を覗く。


 ゼノヴィアスは、数歩先を歩いていた。


 次の瞬間――――。


 ゼノヴィアスの姿が、すぅっとまるで霧のように薄れていく。


 一瞬、振り返ったような気がした。フードの奥で、申し訳なさそうな微笑みが浮かんだような――――。


 そして。


 完全に、消えた。


「……え?」


 シャーロットは目を擦る。


 でも、そこには誰もいない。街灯に照らされた石畳があるだけ。


「ええ?」


 狐につままれたような顔で、シャーロットは立ち尽くした。


 魔法? いや、でも、そんな高度な転移魔法を使える人なんて――――。


「ゼノさん……一体、何者なの?」


 夜風に問いかけても、答えは返ってこない。


 あの人には、何か大きな秘密がある。


 でも――――。


「まあ、いいか」


 シャーロットは肩をすくめた。


 秘密があっても、なくてもゼノは大切なお客様――――。


 明日また、美味しいオムライスで笑顔になってもらえればいい。


 きっと来てくれる。


 そんな確信と共に、シャーロットは温かい店内へと戻っていった。



         ◇



 それから数週間、ローゼンブルクには穏やかな時間が流れていた。


 お昼前に開店し、夕陽と共に閉店する。その繰り返しの中で、『ひだまりのフライパン』は町の人々にとってなくてはならない場所になっていった。


 子供たちの笑い声、商人たちの商談、恋人たちの甘い囁き――全てが、この小さなカフェに温かい彩りを添えていた。


 しかし、運命の歯車は既に回り始めていた。


「なあ、聞いたか? 王都がひどいらしいぞ」


 昼下がり、冒険者ギルドの男たちがテーブルを囲んで話していた。


「疫病だろ? もうダメかもしれんな」


「毎日何百人も死んでるって話だ」


「ローゼンブルクまで来ないといいんだが……」


 通りかかったシャーロットの手から、皿が滑り落ちる――――。


 パリィィィン!


 白い陶器が床で砕け散る音が、まるで彼女の心が割れる音のように店内に響いた。


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