第十六話 妹、門を叩く
秋もすっかり深まり、
斎部の屋敷の庭木や、近くの里山も、
その美しさの奥に、冷たく鋭い風が忍び寄っていた。
「芳乃さん、この楓など、清孝さまの書斎にいかがでしょう。」
「はいはい、奥さま。仰せの通りに。
こんな枝一本で若様の御心が休まるなんて思えるとは……やっぱり、奥さまはおめでたいですねぇ」
相変わらず芳乃の物言いは棘を含んでいた。
けれど、りよはもうあまり気にしなくなっていた。
きっと芳乃は、こういう言い方しかできないのだ。
そう思うようにしてからは、不思議と胸の波立ちも静まるのだった。
芳乃が
その瞬間、りよの背筋を、冷たいものがかすめた。
久しく忘れていた——慣れ親しんでいたはずなのに、どうしようもなく嫌な気配。
「奥さま、少しよろしいでしょうか――」
植え込みの向こうから、従者が足早にやって来た。
「はい、何でしょう?」
りよが向き直ると、従者は困惑を隠せない顔で口を開く。
「あの……奥さまにお客様が。片岡あやさまと名乗っておられまして……」
「片岡……あや?」
りよが呆然と聞き返すと、従者は何を思ったか、慌てて喋り出す。
「奥さまがご存じないようでしたら、先触れもございませんし、お引き取り頂きましょうか――」
とって帰ろうとする従者に、りよは慌てて制止する。
「い、いえ!それは私の妹の名です。十三、四ほどの乙女でしょう?
こんな遠いところまで、何しに来たのでしょう……」
「会われますか?」
少し胸をなでおろした従者がうかがう。
「ええ、座敷に通してくださいますか?
芳乃さん、楓は飾っておいてください。」
従者が去ると、りよは胸の奥に、どうしようもないざわめきを覚えた。
妹に会うのは、もう何カ月ぶりだろう。
思い出すのは、嫁ぐことを命じられたあの日のこと。
縁側の向こうで、さいと女中が、りよの支度金をあてにして買った着物を広げていた。
その横であやは、袖を撫でながら嬉しそうに笑っていた——。
実家で、りよがあやと言葉を交わす機会はほとんどなかった。
悪意をぶつけてくるのは、もっぱら継母のさいで、あやはその影に隠れ、そっとこちらをうかがっているだけの存在だった。
きっと、さいから「お姉ちゃんには近づくな」と言い含められていたのだろう。
だから、りよは彼女に強い悪感情を抱いてはいなかった。
ただ、縁側越しに見たその横顔は、いつも母の影の中に沈んでいた——。
伍女に案内され、あやの待つ座敷へ向かう。
近づくほどに、久々の再会の緊張ではない、背筋を這い上がるような嫌な気配が強まっていく。
「りよ、酷いじゃない。何度も手紙を書いたのに、全部無視して」
襖を開けるなり、あやは責めるように言い、恨みがましく上目遣いで見た。
「手紙……ですか? 一通も届いておりませんけれど……行き違いかしら」
りよは向かいに座りつつ、素早く妹を観察する。
薄紅の
しかも裾や袖口はわずかに擦れ、全体にくたびれた印象がある。
かつて季節を外すことなどなかったあやが。
連れの女中の小袖も色褪せ、綻びを縫い直した跡が痛々しい。
……この違和感、やはりあの嫌な気配と同じ——。
「白々しいわ。こんな豪勢なお屋敷で悠々と暮らして、片岡家のことなんてどうでもいいと思っているんでしょう?」
「……本当に知らないのです。何があったの?」
りよは内心、面倒だと感じた。それでも、理由も聞かずに突き放すのは違うと思い、一応問い返した。
あやは口を尖らせ、早口にまくし立てた。
「父上がね、また妙な商売を始めたの。藩の古い仲間を集めて、海運だの洋式工場だの……。でももう、借金ばかり膨らんでる。母上も、最近はおかしな人たちとばかり会って、家のことなんか見向きもしない」
「それで?」
「それでじゃないわ!」
あやの声が震える。
「屋敷の中がおかしいの。夜になると誰もいない廊下で足音がしたり、障子に濡れた手形がついてたり……。女中たちは次々に辞めていくし、眠れない夜が続いて……」
あやの瞳は、ただ怯えているだけでなく、どこか熱に浮かされたようにも見えた。
「聞いたわよ、りよの旦那さん、お祓いみたいなこともやってるんでしょう?
じゃあ一度、うちに来てお祓いしてよ。それと……お見舞金も、ちゃんと包んでね。
嫁の実家なんだから、そのくらいしてくれて当然じゃない」
「無理よ。私からそんなお願い、清孝さまにはできない。
それに……さい様から、“二度と敷居を跨ぐな”と仰せつかっているの」
ぴしゃりと言ったりよに、実家にいたときにはなかった威圧を感じて、あやはたじろいだ。
それは、嫁いでから身につけた静かな強さだった。
が、それでも負けじと言い募る。
「そんな! じゃあ片岡の家を見捨てるっていうの? 育ててもらった恩を、平気で裏切るの?」
「……そんな言い方をされても。私はもう嫁いだの。片岡家の人間じゃないわ」
「りよっ!」
あやが声を上げたその時、襖がパンと小気味よい音を立てて開いた。
「やけに鼻を刺す臭気が漂っていると思って来てみれば……りよ、こいつは誰だ?」
不機嫌を隠そうともしない清孝が、眉間に深いしわを寄せて座敷に入ってくる。
「先触れもなく、申し訳ございません。私の腹違いの妹、あやでございます」
りよは少し恥ずかしげに紹介したが、あやはぽかんと口を開けたまま、清孝を穴があくほど見つめていた。
「えっ……? ええっ?! ちょ、ちょっと待って、この人がりよの旦那さん?
全然普通じゃない! っていうか……すごい二枚目! 歌舞伎役者みたい!」
不躾に指を刺され、清孝は心底嫌そうな顔をして、りよに目配せした。
「用件はなんだ?」
「……どうも実家が拙いことになっているようで。お祓いと……お金の無心に来たようです……」
消え入りそうなほど恥じ入って言うりよとは対照的に、あやは目を輝かせて身を乗り出していた。
清孝はもう一度あやに目を向け、細めた瞳の奥で何かを見極める。
やがて、嫌なものを見たように眉をひそめた。
「……血まみれの男女が何人も見える。百姓に、商人……女は武家の娘か。
あながち、先祖が百姓一揆や借金の相手を斬ったのだろう。女は……痴情のもつれか」
「っ……」
あやは息を呑み、思わず周囲を見回した。
「武士の世が終わり、弱った今こそ、奴らは表に出てきたのだ。
お前個人に憑いていないのが、まだ幸いだ。……さっさと嫁いで実家を出れば、万事解決だ」
「解決って、私は婿取りをするのよ!片岡の家は出られないわ。ねぇ、祓ってよ」
「断る」
清孝は一言で切り捨てた。
それでもあやは、畳に手をつき、縋るように身を乗り出す。
「そんなぁ……。じゃあ、私とりよを取り換えるのはどう?
私はりよよりずっと若いし、器量だって……ほら、ずっといいわ」
つややかな髪を指でかき上げ、媚びるように笑う。
「ねぇ、旦那さま。りよ、これ、名案だと思わない?」
りよは返す言葉を失い、息だけが詰まった。
清孝は困惑するりよを一瞥すると、ゆっくりとあやをにらみ据え、その手を無言で取った。
自分が選ばれたと思ったあやは、一瞬、口元に喜色を浮かべる。
だが次の瞬間、その笑みは凍りつく。
顔がみるみる青ざめ、目を見開いたまま、清孝の手を振り払う。
息を詰まらせ、胸元と口を押さえ、畳に崩れ落ちた。
「……私の有り余る陽の気を、少しだけお前に送った。
この程度でこの有り様——私の妻を名乗るなど、笑止千万。
分をわきまえよ」
清孝は、汚いものでも触ったかのように懐から手拭いを出し、指先を丁寧に拭った。
そのまま、りよをこれ見よがしに後ろから抱き寄せ、頬に手を這わせる。
「りよは、先ほどの何倍も、常に私の陽の気を受け取り、さらに自らの陰の気も私に渡している……お前では足元にも及ばん」
「……ならば、せめて、実家のお祓いを……」
なおも食い下がるあやに、清孝はりよを抱いたまま、氷のような視線を投げた。
「……何の義理があって、私が貴様たちのために動かねばならん?
りよを娶った義理ならば、支度金で十分に果たしたつもりだ」
あやは唇を震わせたが、清孝の視線に射抜かれ、何も言えずに俯いた。
座敷に重たい沈黙が落ちる。
その時、廊下の向こうから足音が近づき、襖の外で控えていた伍女の声がした。
「若様、本家よりの使者がお見えです」
清孝は腕を解き、りよの肩を軽く押して離す。
「通せ」
襖が開き、旅装の男が深く頭を下げた。
「急ぎの用にて参上仕りました。……御館様より、山神討伐の命にございます」
緊迫した空気に、りよは思わず息を呑む。
あやは状況を飲み込めず、ぽかんと二人を見ていた。
だが清孝は振り返らず、淡々と告げる。
「――行くぞ、りよ」
「はい、清孝さま」
「ちょっと待ってよ! 無視する気?!」
あやの怒声が背後から飛ぶが、清孝は振り返らない。
あとを追いかけたりよが、足を止めて振り返る。
「私たちはこれからお役目なの。何人も……いえ、村落一つの命運がかかっているの。
しかも、ちゃんと事前に先触れもあったのよ、ね?」
ため息まじりにそう言うと、清孝の背を追った。
座敷に残されたあやは、呼び止める言葉を失い、ただその背を見送るしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます