精霊の森と白銀の少女
須藤淳
第1話 プロローグ
霧の森は、しんと静まり返っていた。
朝露に濡れた葉が、かすかに風に揺れる。
どこまでも広がる緑の海――
その奥深く、岩肌にぽっかりと開いた洞窟の中。
湿った空気の中に、ひっそりと佇む祭壇。
その中央に、ひときわ異彩を放つ、小さな祠が据えられていた。
「わぁ……」
白い髪の少女が、そっと息を呑んだ。
五歳のリィナ。
小さな靴を泥で汚しながら、祠へと近づいていく。
村では、何度も言われていた。
『あそこには、絶対に近づいてはいけない』と。
けれど、幼い心には、「禁忌」よりも「好奇心」のほうが勝った。
祠は、今にも崩れ落ちそうに朽ちていた。
だが、中央に据えられた石扉だけは、異様な存在感を放っている。
蔓に覆われた石扉の中央には、奇妙な紋章が刻まれていた。
花にも、炎にも、あるいは得体の知れない何かにも見える――
そんな、見る者の心をざわつかせる印。
(触ってみたい……)
リィナは、そっと手を伸ばした。
指先が、冷たい石に触れた瞬間。
――びり、と、世界が裂けた。
扉の紋章が脈打ち、赤黒い光が祠の隙間から噴き出す。
それは音もなく森を這い、木々を蝕み、空気を濁らせた。
瘴気。
魔素。
死の気配が、じわじわと満ちていく。
リィナは、何が起きたのか分からず、呆然と立ち尽くした。
そのとき――
「リィナッ!!」
森の静寂を裂く、叫び声。
駆け寄ってきたのは、母だった。
そのすぐ後ろに、父の姿もあった。
二人は、何も迷わなかった。
母はリィナを抱きかかえ、父はすぐに結界を編み始める。
急ごしらえの封印術式が、祠を無理やり押さえ込もうと奔走する。
「怖くない、怖くないからね……」
母は耳元で囁きながら、涙をこぼした。
リィナの小さな手を、何度も、何度も握りしめる。
父の結界が、祠を覆う。
だが、それはあまりにも脆かった。
漏れ出す赤黒い光が、森全体を震わせる。
「だめだ……間に合わない……!」
父の呻き声が響く。
母はリィナをそっと地面に下ろし、優しく微笑んだ。
「リィナ、いい子ね。目を閉じて」
震える声。
リィナはわけも分からず、ぎゅっと目を閉じた。
次の瞬間、眩い光が爆ぜた。
熱と、風と、何かが引き裂かれる音。
――リィナが目を開けたとき。
祠は、再び封じられていた。
けれど、両親の姿は、どこにもなかった。
霧の森に、ただ、静寂だけが残されていた。
(おとうさん……おかあさん……?)
小さなリィナは、震える足で立ち尽くす。
遠く、まだ見えない朝日が、薄紅に森を染め始めていた。
それは、静かに忍び寄る、絶望の始まりだった。
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