怨嗟の記録

かわさきはっく

第1話 静寂の朝

 午前五時三十分。スマートフォンのアラームが鳴るよりも数秒早く、男は目を覚ました。もはや習性だった。瞼の裏に染みついた光がゆっくりと形を成し、それがカーテンの隙間から差し込む白々とした夜明けの色だと認識するのに、時間はかからない。


 鈴木一郎は、シーツの皺一つないベッドから音もなく起き上がった。五十路を過ぎたばかりの肉体は、余分な脂肪がなく、まるで長年使い込まれた道具のように引き締まっている。寝間着代わりのくたびれたスウェットを脱ぎ捨て、丁寧に畳むと、彼はクローゼットから昨日と寸分違わぬ、糊のきいた白いシャツと黒いスラックスを取り出した。


 六畳一間のアパートには、生活の匂いがほとんどなかった。壁にはシミひとつなく、床には埃一つ落ちていない。窓際に置かれた小さな観葉植物だけが、この部屋に彩りを与えている唯一の存在だ。一郎はそれに霧吹きで水をやり、葉を一枚一枚、指で優しく撫でた。


 キッチンと呼ぶのも憚られるような狭い調理場で、彼は決まって一枚の食パンを焼き、やかんで湯を沸かしてインスタントのブラックコーヒーを淹れる。テーブルにつき、テレビもつけず、新聞も読まず、ただ無心にトーストをかじり、熱い液体を喉に流し込む。蝉の声が遠くで聞こえ始めるまでの、完全な静寂。それが彼の一日の始まりだった。


 食事を終え、食器を洗い、布巾で水滴を完璧に拭き取って棚に戻すと、一郎は部屋の隅に置かれた小さな整理箪笥せいりだんすの前に立った。その上には、質素な額に収められた老夫婦の写真が飾られている。一郎の両親だ。穏やかに微笑む二人に対し、一郎は表情を変えることなく、ただじっとその目を見つめる。


「……もう少しです」


 誰に聞かせるでもなく、ほとんど吐息のような声で呟いた。その声に感情の色はなかったが、部屋の空気だけが、僅かに重く淀んだ気がした。


 彼は箪笥たんすの隣に視線を移す。床に直置きされた、古びた桐の箱。彼の持ち物の中で、唯一時間の流れを感じさせるものだった。所々黒ずみ、角は丸くすり減っている。蓋には鈍い光を放つ真鍮の南京錠が堅く閉ざされていた。一郎はその箱に触れることはなく、ただ一瞥しただけで、すぐに興味を失ったかのように玄関へ向かった。


 靴べらを使って革靴を履き、ドアノブに手をかける。今日もまた、昨日と同じ一日が始まる。単調で、変化のない、誰の記憶にも残らない一日。


 しかし、一郎だけは知っていた。

 この静寂が嵐の前の凪に過ぎないことを。

 そして、その嵐を呼ぶのは他の誰でもない、自分自身であることを。


 ガチャリ、とドアが開き、一郎は夏の生ぬるい空気の中へと、その身を溶け込ませていった。

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