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上野は隅田川沿いのド下町、道も細いし狭いし一方通行が多いしで車輪達に優しさを見せる素振りが無い。地図アプリはてんで見当違いの道順を示すから役に立たず、行っては引き返しを繰り返し、ツバメはようやくバイクショップに着いた。
SRで良かった。もう少し重いバイクだったら、引き返す途中で足がもつれて立ちゴケしていただろう。立ちゴケ、バイク乗り史上最もありふれており、最も間抜けなやらかしの一つである。例えばバイクがその辺の駐車場に停まっているとしたら、ブレーキレバーを見ると良い。端が不自然に削れていれば、そいつは少なくとも最低一回は立ちゴケをやらかしている。
店の駐車場で先に待っているリツを見た。彼女はすぐにツバメに気付いたのかこちらに駆け寄り、SRをフロントからリアまで舐め回すように覗き込むと、ヘルメットを脱いだツバメに言った。
「なんか、仮面ライダーって感じ」
「思ったのと違いますか」
「ううん、ハーレーみたいな大袈裟なやつじゃなくて良かった。恥ずいから」
随分とずけずけと言うな。ハーレーも似合う人が跨ったら格好良いんだぞ、俺はまったくお話にならないだろうが。ツバメは卑屈に笑うが、リツはまるで気にせずフロントランプを丸くて可愛いねえと撫で回している。
「この子さ、スイッチどこ?」
ハザードランプ、キルスイッチ、SRのハンドルにそれらしきものは見当たらない。ツバメは車体の右側に回り、エンジンから突き出ている細い銀のペダルを指差した。これです、これ。これがスイッチの代わり。
「これを踏み抜かないとエンジン入らないんです。スイッチじゃなくて」
リツがいまひとつ掴めないような顔をしているから、口頭での説明は諦めて実演に移った。
まず、跨るじゃないですか。左手でデコンプレバーって言う、クラッチじゃないです、この小さいやつ。これを握りながら右足でペダルをゆっくり踏んでいくと、途中でカチッてなるところがあるんですよ。そこが圧縮上死点です。それが分かったら一旦レバーを戻して、今度は思いっきり踏み抜くんです。踏み抜きます、こう!
言葉にするとまったく意味不明な儀式のようですらあるが、実際に動かしてしまえば話は早い。ペダルは踏み抜かれ、タタタタと小気味良いテンポでエンジンが回転し始めた。わあと、リツの間抜けな感嘆と拍手が聞こえる。
「エンジン点ける為に、毎回わざわざこうしなきゃいけないってこと?」
「それ以外の方法は無いですね」
「面倒じゃない?」
「面倒ですけど、生きてるなって感じがするじゃないですか。ボタン一つより」
腑に落ちないような表情を浮かべているリツを連れて店内に入り、ツバメはこう言った。気に入ったヘルメットを選んでほしい、ただし半ヘルやジェットは駄目。万一のことを考えると、フルフェイスがマスト。
「僕のせいで将来有望な優等生に何かあったら、って考えると怖いんで」
「バメ君は優しいねえ」
リツは目を細めて静かに笑い、棚中に陳列されたヘルメットを見回す。
安全性技術性最重視、単色ベタ塗りのデザイン性皆無な代物が大半を占める中で、一つだけ目に留まるものがあった。アイボリーをベースに後面に大きな赤い丸、中央に太いサンドベージュのラインが走った、どこかで見たことがある配色。
「ラッキーストライクだ」
「ラッキーストライクだ」
ツバメとリツの声が重なり、二人して顔を見合わせ、笑う。運命的な出逢いとまでは行かないが、こう引っ掛かってしまえば買わざるを得ないではないか。
この際、値段は良しとする。行っても、五万程度だろう。ツバメは下ろした札の枚数を思い出したが、どれだけ高くついたとしても足りるはずだ。メーカーは有名どころだし、強度も恐らく問題無い。あとはリツの頭の大きさに合うサイズがあるかどうかだが。
「これ、一回り小さいやつがあるって。そしたら多分私の頭と合うかも」
いつの間に店員と話をして、違うサイズを問い合わせていたらしい。店員が持ってきたそれは確かにリツの頭に丁度良く、いよいよこれで買わない理由が無くなってしまった。
「じゃ、これにしますか」
ヘルメットの箱を持ち、レジに向かおうとするツバメの裾をリツが掴んだ。
「今更だけど、全然私が買うよ? 大丈夫?」
「大丈夫って、何が」
「これ、大分高いでしょ? 誕生日って、そりゃ冗談で言ったけどさ」
「いや、そりゃ高いですけど」
見くびられちゃ困るな、ツバメは思った。
値段は見ていないが、高価なのだろう。一ヶ月分の生活費と平気で並んでしまうかもしれない。それを取り返す為に日高屋のシフトを限界まで増やした挙句、再び意味も無い声出しに励む必要があるかもしれない。
ただ、別によくある頑張り過ぎた誕生日プレゼントじゃあないんだよ。
「じゃあ、見方を変えてください。僕は、これから払う金でリツさんを僕のバイクに乗せる権利を得るってことなんです。だったら、それくらい払っていいでしょ」
言いながら、大分恥ずかしい台詞を口走ってしまったなと思った。我に返ってリツの方へ目をやると、わざとらしく細めた目でこちらを見ている。マスク越しでも、何やら良からぬ笑みを浮かべているように見えた。
「何ですか、その顔」
「や、言うねえと思って」
私をバイクに乗せる権利かあ、と彼女は何度か繰り返し、ヘルメットを持って突っ立っているツバメの周囲を何周か回った。これを素直に喜ばれていると解釈するには些か邪気がありそうな気がするが、どうも拒絶されているわけでもなし、ツバメはひとまず良しとすることにした。
ヘルメットの金額をレジで払ったら、やはりと言うか、ツバメの約一ヶ月分の生活費が飛んだ。店員に頼んで箱から出してもらい、マスクの内側で唇を噛みながらリツにヘルメットを渡すと、彼女はふいにボウリングのようにそれを胸元に構え、やはりボウリングの球を投げるように振りかぶっては
「ラッキーストライク!」
と言った。一体どのような舞い上がり方なのだろうか、ツバメはそれを呆然と見ることしかできなかったが、リツはケラケラと笑っているし、このまま彼女をリアに乗せたまま本八幡まで帰れそうだし、やはり、まあ、良いかと思えたのだった。
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