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初回のアルバイトの日、ジローはテーブルを拭いていた女性を呼び出し、ツバメに紹介した。
「シバサキさんね。多分シフト被ることが多いから、先輩に色々教えてもらって」
「数ヶ月くらいしか変わらないですよ、ジローさん」
シバサキリツです、と彼女は言い、ツバメの隣に立った。細身で背が高く、コンバースのペラペラのスニーカーを履いておきながら、一七〇足らずのツバメと同じくらいの目線があり、ツバメは少しばかり姿勢を正した。
ベースメント・テープスのアルバイト初日は肝心のシーシャには触らず、ローテーブルを拭く、ドリンクやつまみを用意する、帰り際の会計、その他取るに足らない雑用をこなしていれば、いつの間に終わった。
最後まで残っていた客もいなくなり幾らか緊張もほぐれる中で、何か飲み物でも飲んでから帰ろうか、とリツが言う。
「別にお酒でもいいけど、こんな明け方に飲んでもね。アイスコーヒーとか?」
「あっ、いや、僕が用意しますけど」
「いいですよ、座っといて」
どうせパックから注ぐだけなんだからと言いつつ、やがて片手にアイスコーヒーが入ったグラス、そしてもう片手にやや青みがかった小瓶を持って、カウンターから戻ってきた。
「何だと思います?」
「何ですか」
「これね、サイダー。じゃ、お疲れ様です」
乾杯。薄いガラスが互いに触れた時の高く乾いた音と、小瓶の中の細かい気泡が重なり、潰れ合う音を交互に聞く。
リツはサイダーを一口仰ぐと、大学生? とツバメに聞いた。
「フリーターです」
「夢追い系?」
「いえ、特にそういうのじゃ」
リツが小刻みに頷き、またサイダーを一口。
「あれです、分からない系」
「分からない系?」
「夢分からない系です」
そうなんだ、とリツがそっけなく一言呟き、その日、それきりツバメの境遇については触れられなかった。
「今日、この後雨降るんだよね」
サイダーを飲み干し、それが彼女にとって良いのか悪いのかも判断が付かないほど、極端に無機質な声でリツが言った。
一五時に起きた。変な夢でも見たのか寝汗が酷く、シャワーを浴びて着替えると、ツバメは駅前の日高屋へと向かった。
日高屋のアルバイトは退屈だった。日勤かつ少なくとも週に四回はシフトを入れているから、どちらかと問われればこちらに本腰を入れるべきところ、まるでその気になれずに数ヶ月が過ぎていた。
このご時世である、首都圏を牛耳る格安中華チェーンだろうが、人は来ない。ホールは全体的に手持ち無沙汰だった。
「いらっしゃいませ」
客が来た時、厨房からホールに出る時、ひとまず叫んでおく。客はこちらを見ようともせず、麺の残りをスープから掬うことに躍起になっている。
いつの間に設置されたパーテーションに飛び散ったラーメンやら天津飯やら野菜炒めやらの汁を雑巾で拭き、少しばかり厨房が忙しくなると皿洗いや床掃除、店の前のタイルにこびり付いた泥を箒で搔き出しながら、早く終わってくんねえかな、そればかり思う、思う、思って、六時間。
かんすいとニラともやしの匂いが湯気と共に膨張する厨房、その奥の事務室で、店長のサカイにたしなめられる。
「若さだよ。若さがサカモト君の武器なわけだからさ」
持ち前の若さでさ、マスク越しでも熱意が伝わるような声出しをしないと駄目だね。こんなご時世だから、今まで熱心にならないとお客さんも来てくれないよ。
「そうですねえ」
でも、そんな暑苦しい奴がいたら飛沫がどうのですぐさまクレームが飛びそうですけどね。言おうと思って、やめた。
サカイは結露にまみれた空のグラスにポットで水を注ぎ、それを一気に飲み干すと、再びツバメに言う。
「まず『いらっしゃいませ』からな。最初は緊張するよ? そりゃ俺だってそうだったし。でも恥ずかしいとかそういうの捨ててさ、まずほら、行け!」
「いらっしゃいませ」
「いいよいいよ、もう一回!」
「いらっしゃいませ」
いらっしゃいませ。嘘である。こんな店、誰も来てくれるなよ。
サカイとの「補習」を終え、随分と汗をかいた割には一仕事を片付けたような爽快感は少しも無く、澱んだ気分で駅前を歩いた。
ふいに息が詰まり、咳き込む。さっきの「いらっしゃいませ」で、喉が僅かに掠れていた。
目の前の自販機で水を買い、ロータリーのガードレールにもたれては、顔を上げて軽くうがいをし、吐き出したらまずい気がして、それを飲み込む。うがいをし、飲み込む。
「何やってんの?」
突然知った声が後ろから聞こえ、振り返った。声の主はやはりリツで、ツバメは何故彼女がここにいて、不思議そうに自分の挙動を見つめているのかが、いまひとつ理解できなかった。
「何でいるんですか」
「そりゃ、ここら辺に住んでるし」
サカモト君も八幡なんだ、とリツは呆けたような声で言った。
「じゃあ、いけるじゃん」
「何が?」
「タンデム通勤。同方向、同方向」
ツバメは軽く溜息を吐いた。
「そんな良いバイクじゃないですよ。馬力無いし、風はモロに食らうし、振動も凄いし」
それにこの人は、タンデムがどのような姿勢を取るかを分かった上で言っているのだろうか。
「あと、背中に引っ付かなきゃですよ」
「背中に?」
「しかも、ただのバイト先の良く知りもしない後輩の背中に」
リツは少しばかり明後日の方向を見た後に乾いた笑い声を上げ、興味本位、興味本位と繰り返した。
「コンビニ行くから、じゃ」
左手をひらひらと振るリツを見て、ツバメは無性に悔しくなった。
「僕も行きます、コンビニ」
「タバコ買うだけだよ」
「僕も丁度切らしてたんで」
嘘である。タバコなど吸わないし、何より今のツバメにタバコ一箱六百円に費やせる懐の余裕は無い。
別に構ってくれなくてもいいのに、とリツは言いつつ、拒絶はしなかった。二人してロータリー脇のコンビニに入り、どうせ銘柄は何だろうが構わず、リツが店員に伝えた番号と同じものを買う。
「合法的に吸えるところなんて無いもんねえ」
コンビニを出ると、リツは言った。社会的な嫌煙志向に加えて、呼吸器系のウィルスが蔓延する今、愛煙家の彼ら彼女らの立場は無いに等しかった。
「どっか入ります?」
「どこも閉まってるじゃん、緊急事態宣言で」
夜一〇過ぎのロータリーに人影は疎らだった。居酒屋、レストラン、カラオケ、一切の施設が感染防止の名目のもとで灯りを消た。つい今年の初め頃まで、あのビルの、あの店の元でめいめい働き、食べ、集っていた皆が皆、どこに散らばってしまったのか。
「ま、いいや」
リツは構わずタバコを口に咥え、安っぽいプラスチック製のライターで火を点けた。
煙を深く吸い、吐き出す。放たれた煙は街灯の光で薄く白く濁り、やがて溶け込んで見えなくなった。
「吸う?」
「いや、今は」
「普段、何吸ってんの?」
店員から受け取って、ろくに銘柄も見ずにポケットにしまったことをツバメは思い出した。取り出すと、やや潰れて平たくなったパッケージに円の意匠、ラッキーストライク。
「同じだ」
と、リツは笑う。その笑顔が今までに見たことがないくらいに嬉しそうなもので、ツバメは途端に後ろめたくなった。それはそうだ、俺は貴方の銘柄をそのまま盗んだのだから。
「たまには悪いこともすべきだよね、散々抑え込まれてるんだから」
火元から放たれる煙の行方を、上へ上へ、ツバメはぼんやりと眺めていた。
「シバサキさん、タバコ好きなんですか」
「言ったじゃん、煙が好きなの」
なんか、上ることしか考えてなさそうで、馬鹿っぽくて、色々気楽そうだから。
「サカモトくん、下の名前何だっけ」
リツが聞く。
「ツバメです。鳥のツバメ、そのまま」
「そっか」
少しの間が空いた後
「リツでいいよ、私の下の名前」
くゆらせた煙の向こうでリツが言った。
すっかり短くなった一本、最後に一吸いする彼女の口元を、ツバメはやはりぼうっと見ていた。煙を吐き出す彼女の横顔が好きだった。
「サカモトツバメ、サカモトツバメ」
名前を呟く声が、煙の先から聞こえてくる。
「何?」
「ツバメ、バメ、バメ君、うん」
何やら一人合点したようで、やがて彼女は、じゃあ、今日からリツとバメってことでと言い、何がおかしいのか声を上げて笑うのだった。
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