第3話
女は帰り際に男から渡されたメモを握りしめていた。心臓はバクバクして今にも飛び出してきそうな勢いだ。レジ前でしばらく動けずにいたら、バイトの子に
閉店間際に訪れた男は、いつものようにアイス珈琲を注文し、マスクの隙間からストローを口に入れ、アイス珈琲を一気に飲み干した。いつになく表情は固く急いでいる様子だった。(どうかしたのかな)女は気にかけながら、男の動きに合わせてレジに向かう。
「ありがとうございました」
女が会計金額を告げると、男は珍しく電子マネーではなく、千円紙幣と一緒に折りたたんだメモ用紙をそっとキャッシュトレイに載せた。えっ? 女が戸惑っていると、男は小声で「後で見てください」と囁いた。女は息だけで「はい」と答え、男に釣り銭とレシートを手渡した。仕事が終わってからロッカー室で、汗で湿った紙を広げると、そこには丁寧な字で「よかったら連絡ください」と書いてあり、その下に090で始まる電話番号があった。
その日、女は放心状態でアパートまで帰りついた。駅前のスーパーで弁当を買うつもりだったのに、すっかり忘れてしまった。アパートまでの道のりをとぼとぼと歩きながら、つい30分ほど前の出来事を繰り返し脳裏に再生させていた。
それは何度となく妄想してきたことであるのに、いざ現実になると手放しで喜べない自分を、女は扱いあぐねていた。
今までの35年間の人生で真面目に男性と交際した経験は1度もなかった。20代の頃は、自分が愛する人と結婚して幸せな家庭を築くという空想を膨らませて、女はよく頭の中で遊んだ。でも実際にそんな相手が現れるなんて本気で思っていなかったし、空想が現実になることもなかった。日々生活していくことで精一杯だった。もっと言えば、愛するということがどういうことか、正直よくわからなかった。何度となく頭の中で描いた未来は、細い針で軽く突くだけで呆気なく
古いアパートの
両親が離婚して父親が家を出て行ったのは、小学校に入ったばかりの頃だった。離婚原因はわからないが、その頃、両親がよく大きな声で罵り合っていた記憶はかすかに残っている。しばらくしてからわかったことは、母親が精神を病んでいたということだ。それが原因で離婚に至ったのか離婚後に病んだのかわからないが、いつからか母親は家事をしなくなった。家の中はゴミ屋敷状態となり、5歳上の姉も自分も汚れたままの服を着て学校に行った。給食を食べたい一心で。
その日、母親はいつも以上に眉間の皺を深くしていた。そこへ自分がうっかり牛乳をこぼしたものだから、苛立った感情が爆発したようだった。1リットルの牛乳パックは1年生の手には大きすぎたし重すぎた。パックから溢れた白い液体は、床に無造作に積み上げられた衣類を容赦なく覆った。それは母親が昨日久し振りに洗濯してくれた衣類だった。あっ、怒られる、と咄嗟に両手で頭を押さえ、「ごめんなさい」と言ったことは覚えている。
次の瞬間、意味不明な言葉を叫ぶ母親の怒声に、姉のキャーという叫び声が重なった。なに? と思った時には、生温かいもので
そこから先の記憶は曖昧だ。無意識に記憶操作している部分もあるかもしれない。朧げな記憶と姉や複数の大人から聞かされた話を寄せ集めると、母親が投げたハサミが額に当たり、何針も縫うほどの怪我を負ったということ、姉が救急車を呼び警察も介入し、病状を悪化させていた母親は措置入院になったということだった。そして、児童相談所によって姉と自分は一時保護され、その後児童養護施設で暮らすことになった。振り返ってみれば、作文用紙1枚あれば説明できるあの日の出来事とその後の経緯。その程度のことだと女は自分に言い聞かせた。
当時は母親の病気が治ったら、家に帰れるのだと当たり前に思っていた。児童相談所の児童福祉司が「お母さんがよくなるまでここで頑張りましょう」と言っていたから。ところがその日はなかなか訪れなかった。家に帰れるという期待は1年、2年と経つ内に加速度的に萎んでいき、小学校を卒業する頃には、諦めも通り越して「無」になっていた。
中学3年になった頃~姉は既に高校を中退し、男を追いかけて施設を飛び出していた~、当時の担当児童福祉司から言われた。姉のことがあるからだろう。あなたには高校卒業までここで頑張ってほしい、高校を卒業しておかないと後で苦労するのはあなた自身だからと。その際に、姉が水商売で生活していることや、母親とは既に連絡がとれなくなっていることなども聞かされた。大人のことは信じられなかったが、その時の児童福祉司の真剣な瞳に嘘はないと直感した。だから女は高校時代、友だちに誘われて時々授業をサボることはあっても、単位を落とさないよう歯を喰いしばった。普通の女の子が経験することを普通にしたくて、何人かの男子からの誘いでセックスも経験したが、姉のように一時の感情に流されることはなかった。
女の頭の中では、何かあると児童福祉司の言葉が呪文のように天から降ってきた。それは高校さえ卒業すれば幸せな未来が待っているような、そんな錯覚を女にもたらした。
でも現実はそんなに甘くなかった。
高校卒業後、女は施設を出て一人暮らしを始めた。同じ施設で育った先輩たちが皆そうしていたように、他の選択肢は考えもしなかった。それに施設職員は口うるさいし、制約の多い生活から解放されるのは飛び上がりたくなるほど嬉しかった。でも大人の庇護のもと、衣食住が当たり前に提供されていた生活がどれだけありがたいものだったか。それは退所してから身に沁みた。もう18歳になっていたから、児童福祉司に相談することはできない。いつも忙しそうにしていた施設職員に甘えるのも気が引けた。困った時に頼れる大人は1人もいなかった。
実際に何もかも自分で考えて、判断して、生活するということは容易なことではなかった。お金の管理の仕方もよくわからない。決して贅沢をしているつもりはなかったが、すぐにお金はなくなり、給料日前1週間は近所のパン屋さんでもらったパンの耳を齧って繋いだこともあった。料理だってろくに作ったことがない。施設ではたまに「寮内調理」といって職員と子どもたちでメニューを考え、買物から調理までする日が設けられていたが、1人で最初から最後まで作ったことなど1度もない。自立生活に向けて施設職員と一緒に小さい鍋とフライパンを買いに行ったが、それを使って料理を作るという発想にはならなかった。レトルト食品の温めにたまに使った鍋も、お金を貯めて中古の電子レンジを買ってからは出番がなくなり、キッチン棚の奥へ退場となって久しい。
仕事は転々とした。高校の進路指導担当の教諭は、施設出身者に理解のある社長が営む小さな印刷会社を勧めたが、女はどうしても憧れのアパレル業界で働きたいという希望を諦めきれなかった。でも採用試験は不合格。アルバイトならと採用してもらえた店舗で働いたが、仕事はキツイのに給料は安くて、家賃と光熱水費と携帯電話代を支払うといくらも残らなかった。周囲にも馴染めず、結局半年で辞めた。その後、美容室、コンビニ、ホテル、パチンコ店、引っ越し業者、介護施設等々、様々な仕事を経験した。
30歳を過ぎてようやく気付いた。いかに非正規雇用の立場が不安定で、正社員になることが難しいのか。そしてラクをして稼げる仕事はないということも学んだ。多くの職を経験した結果、意外と接客業は嫌いではないかも、という気付きも得た。接客業といっても美容室や介護施設のように相手に合わせて会話をするのは苦手だったが、今のカフェレストランでは、逆にお客との余計なお喋りは禁止されている。常に周囲への気配りを求められるものの、お客とはマニュアル通りのやり取りで済むので、これなら続けられると思えた初めての仕事だった。
同じ施設の同級生に沙耶という子がいた。お互いに地味で目立たないタイプで似ていたから気が合ったのかもしれない。沙耶は高卒後、先生の勧めに従い印刷会社に就職したが、単調な仕事に飽きたと言い1年足らずで辞めた。同様に職を転々とした後、ここ数年は新橋にある叔母さんのスナックで働いていると聞いている。1度結婚したが、離婚して子どもを祖母に預けてスナックでの仕事を続けているらしい。
しばらく会っていないが、今回のことについて女は沙耶に相談してみようと思った。沙耶なら自分の気持ちを理解して背中を押してくれるのではないか。言葉ではうまく説明できないが、この「臆病」という病気。一般家庭で育ってこなかった自分たちに共通する病。ごく当たり前のことをふつうに経験できておらず世事に疎いがために、怖いもの知らずで無鉄砲になるタイプと、周囲の顔色を窺い新しいことに一歩踏み出せない臆病なタイプがいる。もちろん自分も沙耶も後者だった。
*
「カバコ~」沙耶は大きく手を振り、昔のあだ名で女を呼んだ。
夏菜子(かなこ)。それが女の名前だったが、施設内でも学校でも陰で「カバコ」と呼ばれていた。施設の職員も学校の先生も気付かないはずはなかったが、誰も注意をしないから、自分からイヤとは言えなかった。
平日の午後2時、渋谷駅前は人で溢れている。昔はよく新宿で遊んだものだが、沙耶がこの後少しでも仕事に行きやすいようにと、渋谷で会うことにした。
「えっ? 沙耶どうしたの?」
雰囲気は昔と変わらなかったから遠目には気付かなかったが、近くで面と向かったら、沙耶は顔が変わっていた。
「やっぱわかる? わかるよねぇ、結構イジッたから」
沙耶は部分的に緑色に染めた長い髪を指に巻きつけながら言う。顔は変わっても癖は昔と変わらない。
沙耶によれば、今の彼氏はスナックのお客ということだが、そこそこのお金持ちで美容整形したいなら費用は出してやると言われて、1年前に目をくっきり二重にしたら彼氏も喜んでくれて、続けて鼻も小さく高くする手術をしたのだという。歩きながら、沙耶はまるで最近買った服やバッグの話をするように、そのことを話した。沙耶、変わったな。女は昔、沙耶が言っていたことを思い出す。
「うちら可愛くないし美人でもないけど、ブサイクのプライドをもって生きていこうね!」と言う。ヘンなことを言うものだと思い、「ブサイクのプライドって何よ?」と女は尋ねた。
「心を磨いていくってことだよ。可愛い子たちはサ、そのことを忘れちゃうわけ。なまじ顔が可愛いからね。でもうちらは忘れないよ、それこそが武器だから」
「顔も可愛いくて、心もキレイな子だっているじゃない?」
そう言うと、沙耶はチッチッと人差し指を振りながら言う。
「カバコはわかってないねぇ。心で同点だったら最後はブサイクが勝つんだよ。だって美人は3日で飽きるけど、ブスは3日で慣れるっていうじゃん」
高校生になった頃だっただろうか。そんな他愛もない会話でコロコロと笑い転げていた頃が懐かしい。「ブサイクのプライドはどうしたの?」という言葉は、女の喉元でいつまでもぐるぐると
女の姉は母親似で、鼻筋が通った面長のすっきりした顔立ちだった。一重瞼ではあるが切れ長の大きな目は中学生になるとえもいわれぬ色香を放ち、男子から騒がれていたようだ。それに比べて自分は父親のパーツを全て引継ぎ、目だけは二重で大きめであるものの、鼻は顔の中央にデンと構え横に広がり、唇はぼってりと厚く、誰が見てもカバを連想させる造りだった。それで小学生の頃から「カバコ」だ。
「ところで、相談って何?」
チェーンのカフェに落ち着き、ひとしきり共通の友人たちの近況などを報告し合った後、沙耶がきっかけをくれた。どう切り出したものか頭の中でウロウロしていた女はゴクリと唾を飲み込む。
「実はさ、お店のお客さんから『連絡ください』っていうメモをもらっちゃって……」
女はそう言って、テーブルの上に皺くちゃになったメモ用紙を広げた。
「へぇ、キレイな字だね。ん? それで?」
「いや、どうしたらいいかな、って」
「カバコの気持ちはどうなんよ?」
「ずっと素敵な人だなって思っていたお客さんだから、そりゃ嬉しいよ」
「じゃ、連絡してみればいいじゃん。何を迷ってるのサ」
「お客さんというだけでどんな人かわからないからちょっと怖いじゃない? それにあんな素敵な人に自分なんか釣り合わないし。普段はマスクをして営業用の顔でしか会っていないから、ガッカリされるのがオチかなと思っちゃって……」
「あぁ、そこかぁ……カバコ、マスク美人だからね。それと蛙化現象っていうの? 初デートで一気に冷めるみたいなのも不安ではあるよね。でもそんなことよりサ」沙耶は顔を近づけて小声で言う。「うちの店でもよく『連絡して』なんて耳元で囁いて、携帯番号のメモを握らせてくるお客がいるけど、独身とは限らないからそれだけは気を付けなね」
「結婚しているふうには見えないけど……。っていうか、沙耶もそんなことあったの?」
「カバコのお店と違ってうちは水商売だから、そんなのしょっちゅうだよ。うちも誰かいい人見つかればいいなと思っていたから、付き合う前にしっかりリサーチしたよ。こっちは子どもがいることはまだ言ってないけどね」
沙耶の話に、女は動揺を隠せなかった。
「えっ、そうなの? じゃ今の彼氏も沙耶に子どもがいること知らないの? アレ、子ども、真也くんだっけ? 何歳になったの?」
「やっと1年生になったよ。うちのバアサンも歳をとったから、悪ガキの面倒はしんどいって最近言っててサ。うちとしては今の彼氏と結婚して真也と3人で暮らしたいんだよね。優しい人だから、子どものこと話しても大丈夫だとは思ってるんだけど……ん~タイミングを見計らっている感じかな」
沙耶もある種の「臆病」に罹っている。でもそれは今まで自分たちが数え切れないほど経験してきた病とは少し違うのではないかと思ったが、口にする勇気はなかった。
「話を聞いてくれてありがとう。後悔しないように彼に電話してみるよ。沙耶も彼氏とうまくいくといいね」
「ありがと! じゃ、カバコもどうなったか連絡して!」沙耶はバッグを持って立ち上がると、女に向って言った。
「彼と会う前に気になるようなら、うちが行った美容外科を紹介するよ! 彼氏の知り合いなんで安くしてくれると思うから」 (続く)
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