巡る季節に愛を謳う

文鳥

美澄咲々良の失恋 1

「死ね、この灰被りめっ」

 自分たちよりいくらか年上の子どもが投げた小石が兄の頭にあたり、白い額に一筋血が流れた。腹の中で沸いた衝動のままに兄の背後から飛び出して踏み込み、空中に身体を躍らせる。黒い靄に纏わりつかれていることにさえ気づいていない標的がぽかんと口を開けているのを見て、間抜け面だなとどこか冷静な頭で思った。


「咲々良」


 腰をひねった勢いを殺さず振りぬくはずだった拳をピタリと止める。

 顔面の陥没を間一髪で免れた子どもがずるずると座り込み、這う這うの体で取り巻きと逃げ去るのをちらと見てから声の主である兄を見上げる。

「あにい、何で止めたの」

 不満げな声に兄である英斗は困ったように笑って俺を抱きしめた。

「俺のために怒ってくれてありがとう」

 グッと唇をかみしめる。兄はいつだって声一つ、笑み一つで俺の激情を止める。そして咲々良はいつだって、その温もりに敵わない。

「川に寄ってから帰ろう」

「……うん」

 村はずれの川を目指して砂利道を歩く。時折すれ違う大人は物を投げたり暴言を吐いたりこそしないものの侮蔑を隠しもしない目で二人を見る。到底子供に向ける目ではない。兄を挟んで反対側にいる村人を睨もうとして、ふとそいつを取り巻く黒い靄が目に入る。珍しいものではないがやはり気味が悪い。

「咲々良、見るな」

 思わず兄の顔を見ると、黒い瞳はまっすぐに前を見ていた。地味な着物を纏った背中はピンと伸びて、二人で揃いの灰色の髪が静かに揺れる。ゆらり、ゆらり、上半分を桜の簪でまとめた長い髪が揺らぐたびに猛る炎が凪いでゆく。前を向き、すんと鼻を鳴らすと涼やかな水の匂いがした。






 傷口を川の水で洗うと濡れてしまった長い髪の先に、灰色のけぶるような睫毛の先に玉のような雫が光る。

「……いたい?」

「もう血も止まってるし、大丈夫。三日もすれば治るよ」

「……おれなら」

 一日もいらないよ。そもそも石が当たったくらいじゃ痛くもかゆくもないよ。きっと俺が声にしたところでこの人は妹の前に立つのを止めないのだろう。視線に気がついたらしく、目を伏せて髪を絞っていた兄が俺を見て笑う。

「どうした?」

 あいつらはもしかしてこの人が羨ましいのかもしれない。だって澄みきった水が、晴れわたった空が、こんなにも似合う人を他に知らない。






「あ、わらび」

 白い手がぷちりと蕨を摘み取ってザルに入れた。それを見て俺は内心で首を傾げる。自分の方が鼻も目もいいのにどうしてあんなにもすんなりと見つけられるのだろう。疑問に思いながらも母と父に自慢したくて山の中をあちこち走り回っては山菜を摘んでザルにいれた。辺りを見回していると、ふいに大きな葉をつけた樹を見つけた。まるで指みたいに先の別れた葉の形は奇妙で、思わず手を伸ばす。

「それはダメだよ咲々良」

 伸ばした腕を兄が掴んでいた。

「それは友達のやつなんだ。ごめん、言っておけばよかったな」

 眉を下げた兄の言葉に今度こそ首をかしげる。この山は村のもので誰か一人のものではないはずだ。もちろん自分たちのものでもない。だからその友達とやらのものでもないはずだ。そもそも自分たちと友達になってくれるような人間なんてこの村には。咲々良がそう思った瞬間、突風が吹いた。

「おや、また来たのか朝桜」

 とっさに顔の前にかざした腕の向こう、渦巻く風の中心に人影がぼんやりと見えた。かなり背の高い男性だ。伸びた背筋は若々しいが、低い声には老獪な落ち着きがある。

「はい、お久しぶりです、棟梁」

 一切の狼狽のない弾んだ声音とともに風がやむ。棟梁と呼ばれた男性の武骨な掌がくしゃりと兄の頭を撫でて、彼が兄の言う友達なのだとはにかんだ笑みを見て理解する。

「おや、そこの童は」

「お初にお目にかけます、妹です」

「はじめまして」

 かみづるささらといいます。そう名乗ろうとした瞬間に棟梁が手で制した。

「名乗るでない。人ならざる者にそうやすやすと名を知られてはならぬ」

 思わず目を見開いて、唇から息が漏れた。人ならざる者とは、棟梁と呼ばれる彼は、何者なのだろうか。目の前の偉丈夫が途端に得体のしれない何かに思えて背中を冷たい汗が伝う。次々と浮かぶ疑問を察したのか苦笑した兄が口を開いた。

「棟梁は天狗なんだ。ここら一体の天狗を統べてるから棟梁って呼んでる」 

「そういうことだ。名は体を表す。名前はお前を形作るものでお前そのものでもある。わかったら簡単に名乗るでないぞ」

 神水流の巫は昔から我らの友人なのだと目を伏せて棟梁が笑った。くしゃりと頭を撫でる手の温度は低く、それが妙に心地いい。その瞬間に知り尽くしたはずの山が少し表情を変える。木の陰、石の下、普段は気にも留めない薄闇が透明な質量を持ってざわめいた。少し背筋が粟立って、脳裏にあの黒い靄がよぎった。






「棟梁っ」

「おや、今日は一人か余桜」

「うん、あにいは父上の手伝い」

「そうか」

 岩の上に腰掛ける棟梁の隣に腰を下ろす。彼は破顔して大きな手で俺の髪をかき混ぜた。思わずくふくふと笑みが漏れる。次第に撫でる手が止まり、軽い沈黙が周囲に漂う。軽かろうと重かろうと破るのに勇気がいることには変わりないのだけれど。

「ねぇ……棟梁」

 むしろ軽い方が破った時に音が響くのだと隣に座る彼を見あげて思い知る。

「どうした」

「棟梁はさ……知ってるの」

「何をだ」

 棟梁がこちらを見下ろした。目をそらさなかったのは、たぶん本能に近い。こめかみを汗が流れ落ちた。飢えた猛禽類を前にしたらきっとこうに違いない。


「あれが、何なのか」


 視界の端で、叢の中で、或いは水溜まりの裏側で何かが蠢く。数え切れない視線が俺を貫く。生き物と断じるには温度がなく、幻とするには輪郭の鮮やかなそれ。あの黒い靄と違ってあからさまに嫌な感じはしないけれど、どこか似た気配を持つ何か。


「妖、怪異、あるいは化生」

「全て人があれらに、我らにつけた名よ」


 名こそが存在を形作る。認識した瞬間に、先程までとは比べ物にならないほどに周囲の空気が質量を増す。


「お主や朝桜が過ごすそちらは此岸、死者の行くべきあちらは彼岸。我らはそのあわいで生きるもの」


 山の冷えた空気が意図めいたものを孕んで吹き抜けた。全身に鳥肌がたって、一度体がぶるりと震えた。それ自体が悔しくて顔をゆがめる。

「案ずるな、異なるものを恐れるのは当然のこと。むしろ朝桜が動じなさ過ぎた。まあ、あやつはあまり力が強くないから七つを過ぎれば見えなくなるだろうことは残念だが……」

 棟梁は先程までの鋭さを潜めて俺の頭を撫でた。唇を噛んで、その腕を掴んで見上げて目を合わせる。


「それでもさ、わかろうともされないのは悲しいよ」


 目を見開いた棟梁がぐしゃぐしゃと先ほどまでより一層激しい、されど優しい手つきで灰色の髪を撫でた。その勢いに下を向かされて、棟梁の顔が見えなくなる。

「そうか……これだから神水流の巫は」

 雪解けみたいな声にますます唇を噛みしめる。

 ――だって、だってさ、知っているんだ。端から理解を拒まれる理不尽と悲しみも、ぶつけられるいわれのない悪意に対する悔しさも。黒を白で飲み込み続ける灰色の美しさも。知っているんだよ、棟梁。






 重い雲の立ち込める寒い日だった。その日は兄が七つを迎える前日だった。

「灰色の髪なんて気味が悪い」

「人間とは思えないっ娘の怪力だって化け物の血筋だからだろっ」

「どうせお前らのせいなんだろうっ」

 戸口で喚く奴らの聞きなれた罵倒の隙間に聞きなれない単語が混ざる。ききん。いけにえ。なんのことだろうかと見上げた兄は真っ白で強ばった顔をしていたけれど、俺の視線に気がつくと少し微笑んで大丈夫だと唇の動きだけで言った。落ち着いた反論と何の根拠もない暴論の応酬。ジリジリと短くなる導火線のような空気は永遠に続くような気さえして、それなのに、限界を迎えて弾けるのは一瞬だった。


「英斗っ咲々良を連れて逃げろっ」

「愛してるっ生きてっ」

 

 父と母の叫び声に火の粉が爆ぜる音が仄かに被さるのと、唇を噛み締めた兄が俺の手を引いて裏口からまろびでるのはほとんど同時だった。驚く暇さえなかった。一瞬だけ振り返った背後で乾いた夜空に映えたのは、全部塗りつぶすくらいに鮮やかな赤。どんどん遠くなる炎とうらはらに焦げた匂いが幽かに二人を搦めとる。上手く働かない頭の中でなんでなんでと問うていた。兄が、父が、母が、お前らに何をした?俺たちが一度だって悪意を返したか?ふざけるな。たった今行われた行為に、背後から聞こえる聞くに堪えない罵声に、炎すら生ぬるい衝動が臓腑を焼き尽くさんと渦を巻く。ただ従うだけでいい。それだけで全てが終わると知っている。それでもわずかに握る力を強めた兄の手を振り払うなんて選択肢は端からなくて、握りしめた汗まみれの手の温度にどこまでも縋っていた。

「はぁっ……ささら……」

「あにい」

 何が起こっているのかと尋ねる前に、荒い息の狭間で兄がささめいた。

「はぁっはぁっ……だいじょうぶ、だいじょうぶだ。あにいがぜったいまもってやるからな」

 冷たい風にはためく灰色の髪を見て、俺は唐突に理解した。兄たちは知っていたのだ。やられたからとやり返した瞬間にそれまでの自分たちが死んでしまうことも、仕返したいのなら全部壊し尽くすしかなくて、俺にそれができてしまうことも。させなかったのは間違いなく俺のためだった。あいつらと同じ外道に成り下がらせないためだった。本物の化物に堕ちさせないためだった。そんな場合ではないのに視界がぼやける。なんで、なんで自分たちなんだ。我知らず唇を噛む。答えなどどこにもないとわかっていた。

「ふっ……はぁっ……棟梁っ」

 兄が振り絞るように呼んだ瞬間に墨色の煙が宙に現れ、すぐに見慣れた姿を形作った。棟梁は背に映えた大きな黒い翼で兄の隣を飛びながら口を開く。

「無事か、朝桜、余桜。あやつらめ、これほどまでに愚かだとは思わなんだ」

 兄の顔がわずかに緩む。棟梁が俺を抱え上げるのと、兄が棟梁と吐息だけで零すのと、そして、いつの間にか迫っていた村人たちが兄の長い髪をつかむのはほとんど同時だった。見開かれた兄の目によく似た表情の俺が映っている。

「やっと捕まえたぞっ、手間かけさせやがってっ」

「こんのクソガキがっ妹はどこへ隠したっ」

 兄に触るなと叫んで飛び出そうとした俺の口を棟梁が手で塞いで抱え込む。行ってと音にならない声で兄が言い、迎えに来てよと全幅の信頼を込めた目で笑う。本当に悲しいほどに美しい。

「死ぬなよ、朝桜」

 棟梁の声を合図に旋毛風が二人を取り巻き意識が遠のく。視界が暗転する直前に幽かに声が聞こえた。大丈夫だといったその声に俺は生まれて初めて、兄の事を疑った。

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