毒味役長屋絵草紙 ひぐらしの唄
第一章:毒の兆し
朝霧が庭の石畳を湿らせ、潔目処家の静寂を重く包み込んでいた。
縁側に射す薄光の中、鉄箸を握る左馬之丞の手が、微かに震えながら空気を裂く。
数日前、兄・左馬之丞の体調が再び悪化した。
朝の形稽古はもはや縁側からの見取り稽古となり、かつて新左衛門がその縁側にちょこんと座って
父と兄の動きを食い入るように見つめていた姿を、左馬之丞は思い返していた。
あの頃の弟の純粋な眼差しと、今の自分の衰弱した姿が重なり、彼の胸に複雑な思いが去来した。
「私がこうなるなど、まるで夢のようだ」と、左馬之丞は苦笑を浮かべた。
数日で痛みが消え、嘘のように回復したのも束の間、再び筋肉の疼きが戻り、今度は微熱を伴っていた。
左馬之丞は、毒味役の鋭い感覚で、身体の奥に潜む不穏な兆しを感じ取っていた。
だが、弟の前では気丈に振る舞い、笑顔を崩さなかった。
その日の昼、藩医・染谷草庵が娘・千草を伴って潔目処家を訪れた。
草庵は手早く左馬之丞の問診を済ませ、脈を診、舌を観、顔色を確かめた後、低い声で問うた。
「鼠に咬まれなすったか?」
左馬之丞は一瞬、千草の視線を避けるようにうつむき、「はい」と答えた。
差し出した手には、指先の数カ所が紫色に変色し、腫れ上がっていた。
千草の顔がみるみる曇る。
「左馬様、あれだけ鼠は得体が知れないと忠告したのに! 咬まれたら肉を切り、血を絞り、火箸で焼くと約束したのはお忘れですか!」
その声は、怒りと心配が交錯していた。
左馬之丞は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまぬ、千草。だが、腕や足なら肉をそぎ取ることもできよう。
指では、指ごと切り落とさねばならぬ。だから、血を絞り、火箸を当てただけだ。」
千草は目を潤ませ、声を荒げた。
「わたしが左馬様の側にいたなら、決してこうはさせませんでした! 指どころか、腕すら切り落としてでも…!」
その言葉に、左馬之丞は苦笑を浮かべた。
「大袈裟だな、千草。それでは私が死んでしまう。」
千草は激昂した。
「その命が危ういのですよ!」その叫びは、潔目処家の静寂を切り裂いた。
草庵は静かに娘を制し、穏やかだが重い口調で続けた。
「命が危ういかもしれぬのは、誠のことにございます。この病状が進めば、回復の間隔は短くなり、
やがて衰弱し、命を落とすやもしれません。ですが、今はまだその段階ではござらぬ。
まずは手から血を抜き、腫れを鎮める処置をいたしましょう。」
左馬之丞は静かに頷き、「箸も握れず難儀しておりました。助かります」と答えた。
草庵は手早く指先の傷を切り開き、紫色の血を絞り、止血を施した。
その手際の良さに加え、千草の補助の素早さと的確さが、左馬之丞の目を奪った。
彼女は小さな将軍のような堂々とした動きで、父の指示を完璧に補佐していた。
草庵は処置を終えると、包みから薬を取り出した。
「こちらは化膿止めの薬でございます。そして、この丸薬は――」
彼は一瞬言葉を切り、千草をちらりと見た。
「千草が煎じて丸めたもの。毒を汗と小便、大便で排出する効能があるとか。よろしければお試しくだされ。」
左馬之丞は苦笑を浮かべ、
「聞いただけでも強烈な薬でございますな。まるで食あたりにでも遭ったかのようだ」と冗談めかして言った。
だが、千草は真剣な眼差しで彼をにらみつけ、「左馬様、今度ばかりは約束でございます。必ず飲んでください」と言い放った。
その言葉には、幼なじみとしての親しみと、藩医の娘としての責任感が込められていた。
草庵と千草は、静かに潔目処家を後にした。
その夜、夕餉の後の出来事は、潔目処家の静かな日常を一変させた。
新左衛門が突然腹を押さえ、苦悶の表情で嘔吐したのだ。
膳の前にうずくまる彼の姿に、志乃が慌てて駆け寄ろうとしたが、安兵衛の静かな視線がそれを制した。
「志乃、そっとしておけ。」彼の声は穏やかだが、どこか重い響きを帯びていた。
登喜乃は無言で新左衛門の背をさすり、その小さな身体を支えた。
新左衛門にとって、母の毒入りの食事は、幼い頃からの「試練」だった。
微量の毒が舌に残す苦みは、彼に誇りを与え、毒味役の家に生まれた宿命を教えてきた。
だが、この夜の痛みは、かつての試練とは異なるものだった。
腹を刺すような鋭い痛み、喉を焼く吐き気は、まるで彼の身体を内側から侵食するかのようだった。
毒味の真似事が、真実の試練へと変わりつつあった。
安兵衛は膳の前に立ち、息子の苦しむ姿をじっと見つめた。
その瞳には、毒味役の家に生まれた者だけが知る深い覚悟が宿っていた。
彼は新左衛門の嘔吐が単なる試練の域を超えていることを感じ取っていたが、言葉には出さなかった。
登喜乃もまた、息子の苦しみを静かに見守り、彼女の手はそっと新左衛門の背をさすり続けた。
志乃は姉として弟を案じ、だが父の制止に従い、ただ祈るようにその場に佇んだ。
翌朝、潔目処家の庭先は、再び静寂に包まれていた。
陽光は若葉を透かし、芝生に柔らかな影を落とす。だが、いつもの形稽古は行われなかった。
左馬之丞は縁側に座り、鉄箸を手に持つこともなく、ただ遠くの竹林を眺めていた。
新左衛門はまだ床に伏せ、昨夜の嘔吐の影響で顔色は青白かった。
安兵衛は一人、庭の中央に立ち、鉄箸を手に静かに形を刻んだ。
その動きは、まるで家族の運命を背負うかのように重く、厳かだった。
左馬之丞の指の腫れは、草庵の処置により多少落ち着いていたが、彼の胸には名状しがたい不安が広がっていた。
白鼠の毒味が成功を収め、藩主の膳を守ってきたはずだった。
だが、鼠に咬まれた傷がもたらした異変は、彼の身体を静かに蝕み始めていた。
そして、新左衛門の嘔吐――それは、潔目処家に迫る新たな試練の前触れだったのかもしれない。
月明かりの下、竹林のさざめきは、まるで運命の足音を告げるかのように、静かに、しかし確かに響き続けていた。
第二章:試練の毒
朝霧が潔目処家の庭を冷たく覆い、竹林の風が不協和なざわめきを響かせる。
若葉を透かす陽光が、石畳に揺れる影を刻み、毒の気配をそっと映し出す。
屋敷の静寂は、試練の足音が近づく予兆のように、ひそやかに軋んでいた。
左馬之丞は縁側に腰を下ろし、鉄箸を手にすることもなく、遠くの竹林を眺めていた。
指先の紫色の腫れは、藩医・染谷草庵の処置で多少落ち着いてはいたが、
身体の奥に潜む疼きは消えず、彼の心に暗い影を投げかけていた。
白鼠の咬み傷がもたらした異変は、毒味役としての誇りを、音もなく蝕み始めていた。
潔目処家の長男として、藩主の膳を守る務めを果たせぬ日が、いよいよ近づいているのではないか――
左馬之丞は、胸の内で密かにその恐れを抱いていた。
その頃、新左衛門は床に伏し、昨夜の激しい嘔吐の余波に苦しみながら、青ざめた顔に冷や汗を滲ませていた。
母・登喜乃は、病床の新左衛門の傍らに静かに寄り添い、濡らした布で額を拭いながら、その手をそっと握っていた。
彼女の目は深い悲しみを湛えつつ、決然とした光を宿していた。
毒味役の家に生まれし母として、登喜乃は、幼き息子に課した試練の重さを誰よりも深く知っていた。
長男・左馬之丞が病魔に蝕まれ、毒味役としての役目を果たせなくなる日が来るかもしれない。
その万が一に備え、次男を真の毒味役として鍛え上げるため、登喜乃は自らの手で強めの毒を新左衛門の膳に忍ばせていた。
姉・志乃は、部屋の隅に身を潜め、弟の苦しむ姿を静かに見つめていた。
彼女の心は、弟を案じる姉としての優しさと、潔目処家の掟に従う娘としての覚悟で揺れていた。
母・登喜乃が新左衛門の膳に毒を忍ばせていることを知る志乃は、
その事実を誰にも告げず、ただ祈るように両の手を握りしめていた。
彼女は、左馬之丞と新左衛門が形稽古で汗を流す姿を、縁側から食い入るように見つめていた。
あの無垢な日々が、今は遠い記憶となり、家族を襲う試練の重さに彼女の心は締め付けられていた。
その日の昼、染谷草庵が再び潔目処家を訪れた。
今回は千草を伴わず、一人で現れた彼の表情は厳しかった。
左馬之丞を縁側に招き、二人きりで話を始めた。
「左馬之丞殿、指の傷は一時的に落ち着いたものの、微熱と筋肉の疼きが続くのは、毒が身体の奥に潜んでいる証左。
白鼠の咬み傷が、ただの傷ではない可能性がございます。」
草庵の声は低く、重々しい響きを帯びていた。
左馬之丞は静かに頷いた。
「ただの鼠ではなかった、ということですか。」
草庵は目を細め、庭の竹林を一瞥した。
「白鼠は藩主の膳を守るための毒味に用いられるもの。だが、その鼠自体が毒を帯びていたとすれば、話は別。
誰かが意図的に毒を仕込んだ可能性も否定できませぬ。」
その言葉に、左馬之丞の胸は凍りついた。
毒味役として、藩主の命を守るために自らの身体を張ってきた。
だが、もしその毒が潔目処家そのものを狙ったものだとしたら――。
彼は拳を握りしめ、唇を噛んだ。
「新左衛門の嘔吐も、その毒と関係があるとお考えか。」
草庵は一瞬言葉を切り、深いため息をついた。
「新左衛門殿の症状は、確かに尋常ならざるもの。腹の痛み、吐き気、青白い顔色…。
左馬之丞殿と同じ毒が、彼の身体にも回っているやもしれません。」
左馬之丞は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「私が弟を巻き込んだのか。」
その声には自責の念が滲んでいた。だが、彼は知らなかった。
弟の嘔吐が、母の手による試練であることを――
その夜、潔目処家の膳はいつもより慎重に用意された。
登喜乃は自ら台所に立ち、食材を一つ一つ確認しながら料理を整えた。
彼女の手は微かに震え、いつもの落ち着きを欠いていた。
息子に毒を盛ったことへの罪悪感と、家族の未来を守る覚悟が、彼女の心でせめぎ合っていた。
志乃は母のそんな様子を敏感に感じ取り、台所に足を踏み入れた。
「母上、わたしが手伝います。」
彼女の声は小さく、だが力強かった。
登喜乃は一瞬驚いたように娘を見たが、すぐに微笑みを浮かべ、頷いた。
「ありがとう、志乃。だが、気をつけておくれ。この家には、触れてはいけないものがある。」
その言葉は、料理の食材だけでなく、潔目処家の掟そのものを指しているようだった。
志乃は黙って母の隣に立ち、野菜を刻む手を動かしながら、胸の内で葛藤していた。
彼女は新左衛門の膳に毒が混ぜられていることを知っていた。
母の決断を理解しつつも、弟の苦しむ姿を見るたびに、心が締め付けられた。
だが、彼女は潔目処家の娘として、家族の掟に従うことを選んだ。
彼女の手は、母の動きに合わせて正確に野菜を切り、まるでその行為で自らの感情を抑え込むかのようだった。
夕餉の席では、新左衛門がようやく顔を見せた。
まだ顔色は優れなかったが、弟として、潔目処家の次男として、膳の前に座ることを選んだ。
登喜乃は彼の隣に座り、静かにその背をさすった。
「新左衛門、無理はしないでおくれ。」
彼女の声は優しかったが、その裏には、毒を盛った母としての複雑な思いが隠されていた。
左馬之丞は弟の姿を見て、胸に熱いものが込み上げた。
あの純粋な眼差しで形稽古を見つめていた幼い弟が、今、毒に耐えながら家族の誇りを守ろうとしている――そう思っていた。
だが、彼は知らなかった。
その毒が、母の手によるものであることを。
安兵衛は静かに箸を手に取り、膳の上の料理をじっと見つめた。
「新左衛門、今日は私が先に毒味をしよう。」
その言葉に、皆の視線が集中した。
父が毒味を担うことは異例だった。
だが、安兵衛の目は揺るぎなく、家族を守る覚悟を秘めていた。
彼は一口、ゆっくりと料理を口に運んだ。沈黙の後、静かに頷いた。
「問題はない。」
その声は穏やかだったが、どこか張り詰めた空気を孕んでいた。
夜が更け、潔目処家の屋敷は静寂に包まれた。
月明かりが竹林を照らし、葉擦れの音が微かに響く。
だが、その静けさの中、新たな異変が忍び寄っていた。
深夜、新左衛門は再び腹を押さえ、苦悶の声を上げた。
登喜乃はすぐに駆けつけ、息子の額に手を当て、濡れた布で冷やしながら彼を支えた。
「新左衛門、堪えておくれ。試練だよ。」
彼女の声は震えていたが、どこか強い決意が込められていた。
志乃もまた、弟の部屋に飛び込み、母の隣で新左衛門の手を握った。
「新左衛門、頑張って…!」
彼女の声は涙に濡れていたが、潔目処家の掟を背負う娘としての覚悟が、その言葉を支えていた。
左馬之丞もまた、指先の激痛に目を覚ましていた。
彼は自分の病状と弟の嘔吐が繋がっているのではないかと疑い、胸に名状しがたい不安が広がっていた。
だが、彼は知らなかった。弟の苦しみが、母の手による試練であることを。
安兵衛は静かに立ち上がり、刀を手に庭へと出た。
彼の目は竹林の奥を鋭く見つめていた。
そこには、月明かりに映る白い影――まるで白鼠のような小さな姿が、ちらりと動いたように見えた。
だが、次の瞬間、それは闇に溶け込み、姿を消した。
「誰だ。」
安兵衛の声は低く、夜の静寂を切り裂いた。
だが、答えはなく、ただ竹林のさざめきが響き続けた。
翌朝、潔目処家の庭は再び朝霧に包まれていた。
左馬之丞の病状は一進一退を繰り返し、新左衛門も回復の兆しを見せない。
登喜乃は新左衛門のそばに寄り添い、静かに彼の手を握り続けた。
彼女の心は、息子を試練に晒す母としての罪悪感と、家族の未来を守る覚悟で揺れていた。
志乃は庭に出て、竹林のそばに佇んだ。
彼女は手に小さな刀を持ち、幼い頃に父から教わった形を一人で刻んでいた。
その動きはぎこちなく、だが真剣だった。
彼女は、弟や兄が背負う毒味役の重さを、自分もまた共有したいと願っていた。
だが、潔目処家の掟は、彼女にその役目を許さなかった。
それでも、志乃は家族を守るために、自分にできることを模索していた。
染谷草庵が再び訪れ、二人を診察した。
彼の表情は一層厳しく、
「この病状は尋常ならざるもの。毒を排出するには時間がかかる。希望を捨ててはならぬ」と告げた。
登喜乃は静かに目を伏せ、志乃は母のそんな姿を見つめながら、胸に秘めた決意を新たにした。
新左衛門は床に伏しながら、兄を見つめ、こう呟いた。
「兄上、私も…毒味役として、負けません。」
その言葉に、左馬之丞は苦笑を浮かべ、弟の手を握り返した。
だが、家族の誰もが知っていた。この試練が、新左衛門を真の毒味役へと鍛え上げるための、過酷な一歩であることを。
潔目処家に忍び寄る毒の影は、なおも深く、静かに広がりつつあった。
竹林のさざめきは、運命の足音を告げるかのように、屋敷を包み込んでいた。
第三章:鼠咬症
朝霧が潔目処家の庭を白く閉ざし、竹林の葉擦れが病の予兆を囁いていた。
陽光は石畳に弱々しい光を投げ、忍びし影を冷たく浮かび上がらせる。
左馬之丞は縁側に座し、鉄箸を握る力すら失いつつある指をじっと見つめていた。
数カ月前、白鼠に咬まれた傷がもたらした異変は、今や彼の身体を深く蝕んでいた。
微熱が絶えず続き、筋肉の疼きは夜ごとに増し、腎臓の辺りに走る鈍い痛みが尿を出すことを困難にしていた。
朝、床から起き上がるのにも時間を要し、縁側に出られるのは僅かな一刻に過ぎなかった。
夢には白鼠が現れ、まるで彼の命を嘲笑うかのように鋭い牙を光らせ、闇に溶ける。
その幻は、彼の精神をも静かに追い詰めていった
新左衛門は床に伏したまま、青白い顔に冷や汗を滲ませ、微かに開いた目で天井を見つめていた。
昨夜の嘔吐は一時的に収まったが、腹の奥に残る鈍い痛みは彼を苛み続けた。
母・登喜乃は息子の傍らに寄り添い、濡れた布で額を拭いながら、静かに呟いた。
「新左衛門、試練はまだ終わらぬ。耐えておくれ。」
その声は優しく、しかしどこか遠い響きを帯びていた。
彼女の心は、息子に毒を盛った罪悪感と、潔目処家の掟を守る覚悟で引き裂かれていた。
姉・志乃は庭の隅に立ち、小さな刀を手に形を刻んでいた。
彼女の動きは未熟ながらも、内に秘めた決意がその一振り一振りに宿っていた。
潔目処家の娘として、毒味役の重責を直接担うことは許されない。
だが、弟の衰弱した姿に耐えきれず、彼女は密かな行動を起こしていた。
昨夜、母が新左衛門の膳に毒を忍ばせるのを見た志乃は、台所の暗がりでその膳をこっそり安全なものにすり替えた。
彼女の手は震え、母への裏切りと弟を守りたい一心がせめぎ合っていた。
だが、新左衛門がこれ以上衰弱するのを見たくないという思いが、彼女を突き動かしていた。
その日の昼、藩医・染谷草庵が再び潔目処家を訪れた。
娘・千草を伴い、彼女の手に小さな薬包みが握られていた。
草庵の表情は一層厳しく、左馬之丞と新左衛門を診察した後、低い声で口を開いた。
「左馬之丞殿、指の傷から始まった病は、腎臓を蝕み、尿の出を悪くしております。
微熱と筋肉の疼きも、尋常ならざるもの。あの白鼠の咬み傷が、ただの傷ではないのでしょう。」
草庵は言葉を切り、庭の竹林を一瞥した。
「鼠が毒を帯びていたとすれば、尋常ならざる病を運んだ可能性がございます。
だが、その正体は、わしにもまだわからぬ。」
千草は父の言葉を受け、左馬之丞をじっと見つめた。
彼女の瞳には、幼なじみとしての心配と、医者の娘としての鋭い観察が宿っていた。
「左馬様、鼠に咬まれた傷がこんな病を引き起こすなんて…。白鼠と言えども、鼠は鼠、
所詮は油断できぬ生き物であると、わたしはずっと考えておりました。」
彼女の声は小さく、しかし確信に満ちていた。
草庵は娘を制するように手を上げ、続けた。
「千草の勘も、あながち外れてはおらぬかもしれぬ。だが、証がなければ、ただの疑いに過ぎぬ。」
左馬之丞は目を細め、草庵と千草の言葉を噛み締めた。
床に伏す時間が長くなり、縁側に出るだけでも息が切れる自分を自嘲するように、かすかに笑った。
「先生、千草、仰るのは、鼠由来の毒が私を苦しめているということですか。」
草庵は一瞬沈黙し、千草をちらりと見た。
彼女は薬包みを差し出し、言った。
「左馬様、新左衛門、この薬は先日さしあげた丸薬の毒を排出する効能を強めたもの。
ですが、左馬様の病は、ただの毒とは異なるやもしれません。飲むことでただ衰弱することも考えられます。
飲むには覚悟が必要です。」
その声には、親しみと責任感が交錯していた。新左衛門は床から身を起こし、青白い顔で薬包みを見つめた。
「千草、ありがとう。だが…この毒は、試練だ。兄上も、私も、潔目処家の名にかけて耐えねばならぬ。」
彼の言葉は弱々しかったが、その瞳には毒味役としての誇りが宿っていた。
志乃は弟の言葉を聞き、胸を締め付けられる思いだった。
彼女のすり替えが、弟の試練を妨げているのかもしれない。
それでも、彼女は新左衛門がこれ以上衰弱するのを見たくなかった。
草庵は静かに頷き、続けた。
「左馬之丞殿、体で悪さを働くモノを排除することが急務です。それが毒であるのならば、
手の打ちようもありますが、それ以外であれば洋書を更に調べつくす必要があるでしょう。」
その言葉は、屋敷の静寂を一層重くした。
左馬之丞は拳を握りしめ、弟を見つめた。
「新左衛門、お前がこんな目に遭うのは、私の不覚だ。だが、必ずこの病の元を暴いてみせる。」
彼の声には、兄としての自責と、長男としての決意が込められていた。
だが、彼は知らなかった。弟の毒が、母の手によるものであり、志乃がそれを密かに妨げていることを。
その夜、潔目処家の膳は再び慎重に用意された。
登喜乃は台所に立ち、食材を一つ一つ確認しながら、微かに震える手で料理を整えた。
彼女の心は、息子を試練に晒す母としての罪悪感と、家族の未来を守る覚悟で揺れていた。
志乃は母の側に立ち、黙って手伝いながら、胸の内で葛藤していた。
彼女は再び新左衛門の膳に毒が混ぜられるのを見つけ、母が目を離した隙に、別の膳とすり替えた。
その手は冷たく汗ばみ、母への裏切りと弟への愛情が彼女の心を締め付けた。夕餉の席で、安兵衛は再び毒味を担った。
彼は一口ずつ料理を口に運び、家族の視線が注がれる中、静かに頷いた。
「問題はない。」
その声は穏やかだったが、どこか張り詰めた響きを帯びていた。
彼の目は、膳の向こうに座る登喜乃を一瞬捉え、次に志乃へと移った。
その視線には、妻と娘の秘密を察しているかのような深い洞察が宿っていた。
食事が終わり、夜が更けた頃、志乃は、密かに千草から譲り受けた薬を湯に溶かし新左衛門にあたえた。
翌朝、潔目処家の庭は再び朝霧に包まれていた。
左馬之丞は床に伏す時間が長くなり、縁側に出ることもままならなかった。
腎臓の痛みは増し、尿はほとんど出ず、身体は衰弱の一途を辿っていた。
新左衛門は、志乃のすり替えにより毒の影響が抑えられた事と千草の薬のお陰で回復の兆しが見え始めた。
染谷草庵と千草が訪れ、二人に新たな薬を渡した。
草庵は厳しく告げた。
「この病の正体は、儂等にはまだわからぬ。だが、左馬之丞殿の状態によく似た症例が
洋書に記されておりましたが原因は不明とのことです。儂はこれを鼠咬症と名付けました。」
左馬之丞は弟の手を握り、かすれた声で呟いた。
「新左衛門、私たちは毒味役だ。どんな試練も乗り越えてみせる。」
新左衛門は弱々しく微笑み、兄の手を握り返した。
「兄上、私も…負けません。」
だが、その時、登喜乃の心は新たな決意に揺れていた。
彼女は新左衛門の回復を機に毒の量を増やすことを決めた。
潔目処家の名を守るため、息子を真の毒味役として鍛え上げるため、彼女の手は再び毒を握った。
志乃は母のそんな決意を感じ取り、胸に秘めた葛藤を抑えきれなくなった。
潔目処家の運命はそんな彼女を嘲笑うように、大きく動こうとしている。
第四章:穏やかな翳り
朝霧が潔目処家の庭を儚く覆い、竹林の葉擦れが哀歌のような調べを響かせる。
陽光は若葉を透かし、石畳に揺らぐ影を落とし、家族の絆を脆く映し出す。
その光は、穏やかな翳りの裏に潜む毒の足跡を、静かに照らし出していた。
屋敷の静寂の中、志乃はいつものように台所の暗がりに身を潜め、
母・登喜乃が新左衛門の膳に忍ばせた毒を、素早く別の膳とすり替えた。
彼女の手は冷たく汗ばみ、母への裏切りと弟への愛情が心を締め付けた。
それでも、志乃は決意を固めていた。
新左衛門をこれ以上苦しませたくない――その一心で、彼女は毎夜、秘密の行動を繰り返していた。
千草から譲り受けた薬を、志乃は湯に溶かし、毎晩新左衛門に飲ませ続けた。
薬包みから漂うほのかな苦みが、彼女の手を震わせたが、志乃は弟の回復を信じ、静かに湯を差し出した。
新左衛門はそれを受け取り、疑うことなく飲み干した。
日を追うごとに、彼の身体は汗に濡れ、厠に通う回数が増えていった。
毒が体外に排出されている証だったが、新左衛門自身は、母の毒の膳を食していると信じ、
潔目処家の試練に耐えているつもりだった。
登喜乃もまた息子の変化に目を細めた。
汗と頻繁な厠通いが、毒に耐える強さの表れだと誤解し、彼女の心は一時安堵に包まれた。
だが、その安堵の裏で、彼女は志乃の裏切りを知らなかった。
母としての罪悪感と、潔目処家の掟を守る覚悟が、彼女の胸で静かにせめぎ合っていた。
一方、左馬之丞の病状は刻一刻と悪化していた。
白鼠の咬み傷から始まった「鼠咬症」は、彼の身体を容赦なく蝕んでいた。
肝臓が衰え、腹は太鼓のように膨らみ、手足は枯れ木のように細り、眼球は不気味な黄色を帯びていた。
縁側に出る力すら失い、彼は床に伏す時間が長くなった。
夢には白鼠が現れ、鋭い牙を光らせて彼を嘲笑う。
だが、左馬之丞は潔目処家の長男として、弟と家族の誇りを守る決意を、弱々しくとも胸に秘めていた。
その日の昼下がり、潔目処家の縁側には、珍しく穏やかな時間が流れていた。
新左衛門は、千草の薬と志乃のすり替えのおかげで、ようやく動けるまでに回復していた。
彼は縁側に座り、竹林のさざめきを聞きながら、隣に腰掛ける千草と静かに言葉を交わした。
「新左衛門、あなたは生きなきゃいけないのよ。毒なんかに負けないで。」
千草の声は、柔らかだが力強く、幼なじみとしての親しみと医者の娘としての責任感が込められていた。
彼女の瞳は、竹林の緑を映し、どこか遠くを見据えているようだった。
新左衛門は一呼吸置き、ふと口を開いた。
「千草は、兄上が好きなんだろ。」
間髪入れず、千草が即答した。
「よくわかったわね。」
新左衛門は小さく笑い、縁側の木目を指でなぞりながら言った。
「まぁ、見てればわかる。」
千草は微笑を浮かべ、軽く首を振った。
「見てわかるなんて、すごいわね。」
「まぁね…。」
新左衛門の声は弱々しかったが、その瞳には、兄を想う千草へのささやかな信頼と、毒味役としての誇りが宿っていた。
二人の会話は、竹林の風に運ばれ、静かに消えた。
この穏やかなひとときは、潔目処家に久しく訪れていなかった安らぎだった。
だが、その裏には、志乃の秘密と千草の薬が織りなす危うい均衡があった。
屋敷の奥では、登喜乃が新左衛門の膳を用意しながら、微かに震える手で食材を手に取った。
彼女は息子の回復を試練の成果と信じ、毒の量を増やす決意を固めていた。
潔目処家の名を守るため、彼女は母としての愛を押し殺し、掟に忠実であろうとした。
志乃は母のそんな姿を遠くから見つめ、胸に秘めた葛藤を抑えきれなかった。
彼女は台所の隅で再び膳をすり替えたが、その手はますます重く、冷たくなっていた。
母への裏切りが、彼女の心を静かに蝕んでいた。
安兵衛は庭に立ち、鉄箸を手に静かに形を刻んだ。
彼の目は竹林の奥を鋭く見据え、月明かりに映る白い影を追い続けていた。
あの夜見た白鼠のような影は、なおも彼の心に不穏な波紋を広げていた。
妻の秘密、娘の行動、そして家族を襲う毒の正体――安兵衛の静かな視線は、すべてを見透かしているかのようだった。
左馬之丞は床に伏しながら、弟の回復を聞き、かすかな笑みを浮かべた。
だが、彼の身体はもはや限界に近く、黄色く濁った瞳には、
潔目処家の長男としての誇りと、弟を守れなかった自責の念が交錯していた。
その夜、潔目処家の屋敷は再び静寂に包まれた。
月明かりが竹林を照らし、葉擦れの音が運命の足音のように響く。
藩医・染谷草庵が訪れ、左馬之丞と新左衛門を診察した。
草庵の表情は厳しく、しかしどこか希望を捨てていなかった。
「新左衛門殿の回復は、千草の薬の効果もあろう。だが、左馬之丞殿の病は、なおも正体が掴めぬ。
鼠咬症の進行を抑えるには、さらなる手立てが必要だ。」
千草は父の言葉を聞き、左馬之丞をじっと見つめた。
彼女の瞳には、幼なじみへの想いと、医者の娘としての決意が宿っていた。
彼女は新たに調合した薬包みを差し出し、静かに言った。
「左馬様、この薬は危険を伴うかもしれません。ですが、希望を捨てないでください。」
左馬之丞は弱々しく頷き、薬を受け取った。
その手は震え、かつて鉄箸を握った力強さは失われていた。
だが、彼の心には、潔目処家の誇りと、弟を支える決意がなおも燃えていた。
潔目処家の穏やかな時間は、まるで嵐の前の静けさのように儚いものだった。
志乃のすり替えと千草の薬が新左衛門を支えていたが、左馬之丞の病状は悪化の一途を辿り、
登喜乃の決意はさらに過酷な試練を呼び込む。
竹林のさざめきは、家族に忍び寄る毒の影を、静かに、しかし確かに告げていた。
第五章:毒の果てに
朝霧が潔目処家の庭を白く沈め、竹林のさざめきが滅びの調べを低く響かせる。
陽光は若葉を透かし、石畳に淡い光を投げかけるが、その光はまるで儚く、
潔目処家の運命をそっと映し出すかのようだった。
この朝、久しぶりに新左衛門と父・安兵衛が庭先に立ち、鉄箸を手に静かな形を刻んでいた。
父の動きは厳格で、堂々たる気迫を湛え、新左衛門の箸は、幼さを感じさせぬ精妙さでその動きをなぞる。
縁側には左馬之丞が壁に寄りかかり、病に蝕まれた身体を支えながら、弟と父の姿を静かに見つめていた。
彼の瞳には、かつての自分と重なる新左衛門の純粋な意志と、自身の衰弱した姿への複雑な思いが交錯していた。
一通りの形稽古を終えると、左馬之丞は弱々しい声で口を開いた。
「父上、新左衛門、このような波乱を招いたことを詫びます。私の提案した白鼠の毒味が、こんな事態を…」
彼の言葉は途切れ、深い自責の念がその顔を曇らせた。
安兵衛は静かに鉄箸を下ろし、息子を見据えた。
「左馬之丞、詮無いことを言うな。お前の白鼠の毒味は、新たな光を我が家の務めに灯した。
失敗は鼠の扱いを誤ったこと一つだ。だが、それすらも、お前の功績の前では小さなものだ。」
彼の声は穏やかだが、どこか重々しい響きを帯びていた。
「毒味の作法は私の代で終わりだ。これからの世は、毒味など不要な世になる。潔目処家は、新たな道を歩むべき時が来たのだ。」
安兵衛はそう言うと、突然大きく笑い声を上げた。
その笑いは、庭の静寂を破り、竹林のさざめきを一瞬かき消した。
新左衛門は父の背中を見つめ、その大きさに胸を熱くした。
これまで感じたことのない、父の深い覚悟と未来への希望が、その笑い声に宿っているように思えた。
朝餉を終え、安兵衛は城下へと向かった。
その背中は、いつにも増して大きく、力強く見えた。
新左衛門は縁側に立ち、父の遠ざかる姿を追いながら、胸に秘めた毒味役の誇りを改めて感じていた。
だが、その数刻後、潔目処家の屋敷に、戸板に乗せられた安兵衛の亡骸が運ばれてきた。
藩医・染谷草庵が城に駆けつけた時には、すでに安兵衛の息は絶えていた。
純度の高い亜ヒ酸が用いられ、銀の箸すら黒く変色せず、毒を見抜けなかったのだ。
だが、安兵衛の最後の毒味は、藩主・松平容敬の命を守り抜いた。
草庵は静かに口を開いた。
「安兵衛殿が懸念していたことが、とうとう起きてしまった。
もし我が身に何かあれば、それは毒味の限界だと受け止めよ――そう、安兵衛殿から遺言を預かっておる。」
登喜乃は草庵の言葉を聞き、静かに目を閉じた。
次の瞬間、彼女の身体は糸が切れたように崩れ落ち、気を失った。
志乃が慌てて母を支え、新左衛門は呆然と立ち尽くした。
屋敷の静寂は、まるで家族の絆を試すかのように、重く沈み込んだ。
それからの登喜乃は、人が変わったように振る舞い始めた。
彼女の手は、新左衛門の膳にこれまで以上の毒を忍ばせ、さらには水や茶にまで毒を混ぜ始めた。
志乃は必死にその膳をすり替え、千草から譲り受けた薬で弟を守り続けたが、母の行動は日増しに常軌を逸していった。
彼女の瞳には、潔目処家の掟を守る狂気と、夫を失った深い悲しみが宿っていた。
左馬之丞は、草庵から登喜乃の異変を聞き、母の様子を冷静に観察した。
彼女の言葉、仕草、そして新左衛門の膳に毒を盛る姿に、常軌を逸した執念を見た時、
彼は初めて潔目処家に毒が湧いたことを悟った。
志乃がこっそり膳をすり替える姿を見て、左馬之丞は自分の目がこれまで盲目であったことを痛感した。
弟と妹を、変わり果てた母から守らねば――その一心で、彼は軍目付・清見玄斎の息子、彦左衛門に相談を持ちかけた。
内々に志乃と新左衛門を江戸屋敷へ避難させる計画を立てたのだ。
だが、新左衛門はそれを拒んだ。
「兄上、私は潔目処家の次男だ。毒味役の務めを放棄するわけにはいかない。」
彼の声は弱々しかったが、その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
志乃もまた、弟のそばを離れることを拒み、兄の計画に静かに首を振った。
左馬之丞の病状は、計画を進める中でさらに悪化した。
鼠咬症は彼の身体を容赦なく蝕み、手足は枯れ木のように細り、肝臓の衰えは腹を膨らませ、眼球は不気味な黄色を帯びていた。
ある夜、庭先で新左衛門と志乃が無数の白鼠に襲われる幻を見た。
現実と幻覚の狭間で、彼は最後の力を振り絞り、床から這うように刀を手に取った。
立てず、歩けず、動けぬ身体で、白鼠の幻に向かって刀を振り下ろした。
「新左衛門、志乃…守る…!」
その叫びは、潔目処家の長男としての最後の誇りだった。
だが、次の瞬間、彼の身体は力尽き、庭の石畳に崩れ落ちた。
月明かりの下、白鼠の幻は闇に溶け、竹林のさざめきだけが静かに響いた。
新左衛門と志乃は、兄の亡骸を前に立ち尽くした。
新左衛門の小さな手は震え、志乃の瞳は涙で濡れていた。
登喜乃は、息子の死を知り、ただ無言でその場に佇んだ。
彼女の心は、夫と長男を失い、なおも毒を握る手によって、完全に砕け散っていた。
潔目処家の屋敷は、深い静寂に包まれた。
月明かりが竹林を照らし、葉擦れの音は、まるで家族を嘲笑うかのように響き続けた。
毒味役の宿命は、新左衛門と志乃に重くのしかかり、潔目処家の未来を暗い影で覆った。
だが、その闇の中、新左衛門の瞳には、兄と父の遺志を継ぐ決意が、微かに、しかし確かに宿っていた。
第六章:道祖神は導かずとも、見守っている
朝霧が潔目処家の庭を白く霞ませ、竹林のさざめきが遠い希望の調べを響かせる。
陽光は若葉を透かし、石畳に柔らかな影を刻み、新たな道をそっと照らし出す。
その光は、道祖神の静かな眼差しのように、新左衛門の歩むべき道を、静かに示していた。
あの日から、潔目処家の日々は、表面上は何も変わらなかった。
清見玄斎の庇護が、崩れゆく家を辛うじて支えていた。
玄斎の息子・彦左衛門が、兄・左馬之丞と竹馬の友であった縁、
そして彼が志乃を見初めたことが、潔目処家を外の嵐から守る盾となっていた。
だが、屋敷の内には、静かな波紋が広がり続けていた。
登喜乃の心は、夫・安兵衛と長男・左馬之丞を失った悲しみと、潔目処家の掟への狂気的な執着に引き裂かれ、
まるで水面に広がる波紋のように、止まることなく揺れ動いていた。
登喜乃の行動は、日に日に常軌を逸していった。
彼女の手は、新左衛門の膳に、水に、茶にまで、これまで以上の毒を忍ばせた。
「他人に盛られた毒で斃れるくらいなら、この母の手ずからの毒で死になさい」――その言葉は、母としての愛を押し殺し、
潔目処家の名を守るための呪いと化していた。
彼女の瞳には、かつての温かさはなく、ただ深い闇と執念だけが宿っていた。
志乃は、清見家への訪問が増え、彦左衛門との縁談が進む中で、母の毒から弟を守るすり替えがままならなくなっていた。
彼女の手は、母への裏切りと弟への愛の間で震え続け、毎夜、冷や汗に濡れていた。
それでも、藩医の娘・千草が奥間で薬草の研究に没頭しながら、定期的に届ける薬包みが新左衛門の命をつないでいた。
千草は、左馬之丞の死後、薬草の研究に一層身を入れ、まるで自らを閉ざすように奥間から出てこなかった。
彼女の瞳には、幼なじみを救えなかった自責と、新左衛門を救う決意が宿っていた。
新左衛門は、毒の試練に耐えながら、身体を蝕む苦痛に苛まれていた。
血便や異様な色の便がたびたび出ることを恐れ、彼は厠に行くことを避けた。
腹を刺すような痛みは、幼い頃に母から与えられた毒の苦みとは比べ物にならないほどだった。
それでも、彼は潔目処家の次男として、毒味役の誇りを胸に、試練に耐えようとしていた。
そんなある日、親友・藤川義高が潔目処家の屋敷を訪れた。
義高は、新左衛門の青白い顔と、痛みに耐える姿を見かね、いつもの明るい笑顔で言った。
「新左衛門、何を怖がることがあるんだ。大切なモノが尻からぽろぽろこぼれたら一大事だが、
いらぬモノを出すんだから、ぶちかましてやればいいのさ。それに、一人でやるから怖いんだ。
景色の良いところで、俺と尻を並べて野ぐそすれば、怖くねえだろ!」
義高の言葉は、毒に蝕まれた新左衛門の心を軽やかに解きほぐした。
二人は、竹林の奥、藩境の川のせせらぎが聞こえる場所へと向かった。
初夏の風がそよぐ中、義高は大げさに笑いながら尻を並べ、新左衛門に紙を手渡した。
「どうだ? 怖くねえだろ? 尻拭きの紙、足りるか?」
その言葉に、新左衛門は小さく笑い、初めて安堵の息を吐いた。
義高の無垢な友情は、毒の苦みも、試練の重さも、ほんの一瞬忘れさせてくれた。
遠くで響くひぐらしの声が、二人の笑い声を優しく包み込んだ。
その帰り道、二人は大内宿の入口に佇む道祖神の前に立ち寄った。
苔むした石は、冬の名残を残す冷たさを宿していた。
新左衛門はそっと手を置き、その冷気が指先に染みるのを感じた。
瞬間、胸の奥に在りし日々の記憶が甦った。
あの日――母・登喜乃から渡された鉄製の箸。
重く、冷たく、指に馴染まぬその一対の箸は、毒味役としての最初の試練だった。
あの時の苦みは、舌に残る毒の味ではなく、家族の宿命を背負う重さだった。
道祖神の冷たさが、新左衛門の心に静かな覚悟を呼び起こした。
毒の苦みにも勝る、人の心と涙の苦さを知ったとき、彼の少年時代は終わったのだ。
「新左衛門殿、こんなところで何をしておる?」
丹波錦の穏やかな声が、幼き日の記憶から新左衛門を引き戻した。
振り返ると、錦が宿場の提灯を手に、静かな笑みを浮かべていた。
新左衛門は石から手を離し、苦笑した。
「錦殿、挨拶に参ったついでに、昔を思い出しておりました。この道祖神、まるで私の人生を見守ってきたようでな。」
錦は目を細め、道祖神を見やった。
「この石は、迷う者を導くと言います。そなたの道は、もう見えたか?」
新左衛門は頷き、懐から義高の紙を取り出した。
「江戸で待つ婆さんが居るのです。」
錦は笑い、「ならば、急ぐがよい。長屋の灯りは、そなたを待っておるぞ。」と答えた。
新左衛門は一礼し、道祖神に背を向け、江戸への道を歩み始めた。
懐に残る義高の紙が、ひぐらしの鳴く夕暮れの記憶と共に温かく灯る。
遠く、江戸の長屋でお徳が釜の火を熾し、源之助や太助が笑い合う姿が浮かんだ。
道祖神は無言で佇み、新左衛門の背を見守っていた。
試練を脱した彼の道は、長屋の喧騒と絆へと続いている。
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