第16話 書状の真相
晩秋の江戸は、冷たい風が紅葉を散らし、道祖神の苔に薄霜を降ろす。
長屋の灯りが細く揺れる中、潔目処新左衛門は、黒崎左京から渡された書状を手に、その文字の一つ一つに視線を落としていった。
清見彦左衛門の筆跡が、月光に照らされて浮かび上がる。
端正な文字は、遠い会津の雪夜を呼び起こし、新左衛門の胸に重く響いた。
書状には、こう記されていた。
黒崎左京殿
潔目処新左衛門殿
秋風冷たく、紅葉の散る候、会津の地は混迷の裡にあり。
遠山政勝、沢村錬次の刃にて誅殺せり。
これにより武断派は大いに乱れ、一部は松平容保様の命を狙い、江戸へと刺客を送り出したる由にござる。
また一部は、容保様の会津への帰藩を阻まんと、街道に待ち伏せする動きありと聞き及ぶ。
されば、左京殿、新左衛門殿、そなたら二人に切なる願いあり。
松平容保様をお守りし、遠山の残党の魔手より護り抜き、一日も早く会津への帰藩を果たされよ。
さらにもう一つ、新左衛門殿へ。
そなたが雪の夜に斬ったは、わが身代わりなり。
遠山の策は深く、わが命を狙う刺客を欺くため、忠義の者に身を託した。
そなたの刃は見事であったが、わが志は未だ生きる。
今、そなたの力をこそ必要とす。
天保十六年 秋
清見彦左衛門 謹書
新左衛門は書状を畳み、目を閉じた。
あの雪の夜、彦左衛門の屋敷で繰り広げられた一瞬が脳裏をよぎる。
振り下ろされた刃、眉間に突き刺さった箸、雪に滲む血。そして、姉・志乃の嗚咽。
全てがあまりにも鮮明で、新左衛門の心を締め付けた。
あの男が身代わりだったという事実が、逃亡の日々を新たな光で照らす。
だが、同時に、なぜ彦左衛門がそのような策を講じたのか、疑念が心に渦巻く。
「彦左衛門殿が生きている…ならば、あの夜の男は何者だったのか。」
新左衛門は呟き、左京の鋭い眼差しを見返した。
左京は新左衛門の困惑を察し、低く、しかし落ち着いた声で語り始めた。
「新左衛門殿、遠山政勝の治世下、会津は陰謀と裏切りの坩堝だった。
彦左衛門殿は、容保様を守るため、遠山の目を欺く策を講じた。そなたが斬ったのは、彦左衛門殿の命を受け、
身代わりを務めた忠義の者――おそらく、藤川義高と近い立場の若侍だ。遠山は彦左衛門殿を危険視し、
逼塞(ひっそく)を命じ、その動きを封じた後、暗殺を企てていたに違いない。
それを逆手に取り、身代わりを立てて死を装うことで、彦左衛門殿は地下に潜り、容保様の帰藩を準備していたのだ。」
新左衛門の胸に、義高の顔が浮かんだ。
「生きろ」と言い残し、尻拭きの紙を差し出した親友。
あの温もりが、今も懐に残る。
だが、身代わりの若侍が誰だったのか、その名は知れず、ただ重い悔恨が心に積もった。
「ならば、私が斬ったのは…忠義を果たした無垢な命だったのか。」
声がわずかに震え、毒味役の体に染みた便意すら、この瞬間は遠く感じられた。
左京は新左衛門の肩に手を置き、静かに続けた。
「過去を悔いるな、新左衛門殿。そなたの刃は、彦左衛門殿の策を全うし、容保様の道を開いた。
遠山の死は新たな火種を生んだが、今、我々に課されたのは、若殿を守り抜くことだ。
書状に記された願いは、そなたの罪を問うものではない。むしろ、そなたの力を信じるが故の使命だ。」
新左衛門は深く息を吐き、懐の義高の紙を握りしめた。
長屋の灯りが脳裏に浮かぶ。源之助の笑顔、太助の無邪気な声、お徳のイナゴの蒲焼き。そして、色兵衛の改心。
あの日常が、彼に新たな「宝」を与えていた。
「左京殿、若殿を守るためなら、この命、惜しみはせぬ。だが、ケツの目処がたたぬまま、こんな大事に挑むとはな。」
苦笑が漏れる。左京は小さく笑い、刀の柄に手を添えた。
「毒味役の勘は、刺客の放つ心の毒をも見破る。私の剣とそなたの箸で、若殿を必ず会津へ送り届ける。」
翌朝、長屋の井戸端はいつもの賑わいを見せていた。
お徳は釜の火を熾しながら、新左衛門を見遣った。
その視線には、深い洞察と、かすかな心配が宿っていた。
「ケツメド、昨夜の書状の話、聞いてたよ。また命懸けの旅に出る気かい?」
新左衛門はイナゴの蒲焼きを頬張り、笑みを浮かべた。
「お徳さん、私は毒味役だ。毒が入ってるか分からない膳に口を付ける。いつしか、飯を食うのが役目になってた。
けど、ここでこうやって皆と飯を食うのが、何よりの幸せだよ。」
お徳は目を細め、茶碗に汁をよそいながら呟いた。
「四つ辻の道祖神、あんたにずいぶん縁があるね。
あたしも昔、色兵衛をあの石の前で抱いた。あの石は、迷った者を導くって言うよ。」
新左衛門は箸を止め、道祖神の苔むした姿を思い浮かべた。
色兵衛の過去、義高との友情、容保の笑顔。
全てがあの石に集まり、彼の人生の節目を静かに見守ってきたかのようだった。
だが、今、試練の足音は近づいている。
遠山の残党が放つ刺客の影が、街道の闇に潜む。新左衛門は書状を懐にしまい、立ち上がった。
「お徳さん、私はまだ生きねばならぬ。必ず使命を果たし、ここに戻って来るさ――」
お徳は黙って頷き、釜の火を見つめた。
長屋の喧騒が、朝の静けさに溶ける。
紅葉の舞う江戸の空の下、試練の道はなお遠く、道祖神は無言で新左衛門の背を見守っていた。
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