第21話 十月十一日 水曜日 十二日 木曜日
水曜日。私は大山先生に一応、確認のためにデジカメの写真を見せた。
部屋の全体像の写真では反応が薄かったが、天井にびっしりとついたユスリカの写真を一瞬みて、大山先生は「もういいので、これで業者にお願いします」と私からデジカメを奪い取った。
昨日の鍵屋さんはどうやら出来高制のようで、手書きの領収書を見た佐々木さんは驚いていた。それでも、あの仕掛けを解くことの料金と考えると妥当なのかもしれない。
試験監督の持ち回りまでの時間を使って、生物の試験の採点を行う。
この学校ではマーク式の試験と筆記試験の二つを併用しているので、私が採点するのは筆記の方だけだ。マーク式の試験が導入されて、多くの先生方の負担が減ったと聞く。たまに難解な筆跡にぶち当たり、解読に時間を要する。
少し別の仕事をしてから解読に再チャレンジしよう。そう思って、ノートパソコンを立ち上げ、メールソフトを開くと、南雲先生から返事が来ていた。
内容は、踊り場で捕獲した虫の鑑別結果だった。
『この前いただいたサンプルの虫ですが、やはり久保君が持ち込んだものと同一であることが分かりました。DNA上も、ほとんど一致していたので同じ種と断定できると思います。ただ、あまりにも一致しすぎているので人為的な近親交配による個体である可能性が示唆されます。形態学的には若干の形質の変化が見られ、ブラシ状の触覚が所々融合しているのと、羽の肥大化が確認されました。恐らく、七瀬先生の持ってきていただいた論文の通り、軍事目的で選別され、継代飼育されたものと考えられます。もし、生きたサンプルを手に入れましたら、またご一報いただけると幸いです』
生きたサンプル、か。私はふと考える。研究者にとって覚虫の生み出す現象は、非常に興味深く、その羽音を分析することで、様々な分野に転用できるだろう。羽音の生み出す音波を軍事転用すれば、非破壊的に兵士の意識を喪失させる画期的な兵器になり得るかもしれないし、当時の日本に投入されれば、戦況が大きく覆っていたのかもしれない。その一方で、この学園に通う子供たちのことを考える。ずっと、覚虫を野放しにできるのか。そんなことできるはずがない。怪異におびえながら、楽しい学園生活を送れるのか。覚虫に魅了されるリスクもある。
私は研究者ではなく、教師という職業を選んだ以上、子供たちの安全を優先した。
南雲先生のメールには、『丁寧な鑑別報告ありがとうございます。非常に参考になりました。また別のどこかで、生きたものを見つけたらご報告します』と短い文章で返信した。
木曜日の放課後。今日は中間テストの最終日であり、害虫駆除業者がやってくる日だ。私は大山先生に連れられて、旧校舎の踊り場下の部屋の荷物の運び出しをしている。私が選ばれた理由は生物系の研究機材の知識があるからということだ。
私と大山先生、佐々木さん、そして若い警察官の四人で、中の荷物を旧校舎の昇降口に運ぶ。なかなかの重労働だ。水槽は悪臭を放っており運ぶたびに、水面が揺れて鉄臭さと磯臭さのある独特の臭気が立ち込める。日本の池は、ふつう淡水で、そこに発生するユスリカは淡水を好むはずだが、この水槽は何故こうも磯臭いのか、素朴な小さな疑問が頭をかすめるが、悪臭に耐えられず思わず、私は口にした。
「さすがに、捨てませんか」
「いやあ、まだ捜査は続いているので、この水槽も調べますよ」
若い警察官はそういった。
誠司先生には、まだ、覚せい剤使用の疑いがかかっているという。
誠司先生の自宅から見つかった研究ノートは、暗号化されていたようで、未だに遺品として司郎先生の元に帰ってきていないという。
私たちは、針の付いた注射筒を含めて、部屋から物品を運び出した。
警察官は、物品一つ一つにタグをつけ、写真を撮り、仲間の到着を待っていた。
ほどなくして、一台の警察車両がやってきて数人の警察官で手際よく物品を押収していく。さすがに円筒形のケージは持ち出しが難しいと判断されたようで、写真撮影と入念な試料採取が行われた。
「捜査のご協力感謝いたします」
そう言って警察官たちは去っていった。
踊り場下の部屋はがらんとしていた。
私たちは一旦職員室に戻り、各々の業務に取り組む。
一時間ほど試験の採点をして、休憩がてら、私は旧校舎の様子を見に行く。
旧校舎の昇降口前には、立ち入り禁止の看板を立てている佐々木さんがいた。
業者が入って、これから燻蒸が行われるのだろう。
私がしばらく旧校舎を眺めていると、西側の窓から煙が上がるのがみえた。
線香のような細い煙をみて、私は静かに手を合わせる。
小さな虫たちへのせめてもの供養だ。
煙は青空に吸い込まれていき、やがて消えた。
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