第8話 十月四日 水曜日 side:鈴木朔太郎
水曜日の二限目は、物理だった。担当は相澤先生だ。
昨日の放課後、七瀬先生の生物準備室で行われた、ささやかな作戦会議。そこで僕は旧校舎の怪異を調査するために必要な機材を入手するという重要な担当を任されることになった。佐藤さんは天文サークルのメンバーたちへの根回しを、そして、七瀬先生は僕らの調査に協力してくれる教師サイドの協力者を探すということになった。
僕に課せられた具体的な使命は、今度の土曜日までに何とかしてトランシーバーのような無線通信が可能な機器を数台手に入れることだ。
最初、佐藤さんから「携帯電話で普通に通信すればいいんじゃない」と至極もっともな提案があったが、それには、僕と七瀬先生が二人そろって反対した。なぜなら、我が献栄学園の校則では、教師と生徒が個人的に連絡先を交換することは、原則として固く禁じられているからだ。
なぜ、そのような、少し過剰とも思える校則ができたのか。その詳しい理由は、僕も知らない。だが、以前、文化祭実行委員の先輩がさらにその上の先輩から又聞きしたという話によれば、かつて、この学校である男性教師が、担任するクラスの女子生徒と淫らな関係になり、その結果、精神的に追い詰められた女子生徒が校舎から飛び降り自殺を図ったという痛ましい事件が、そのきっかけになったという。
相澤先生は、学校の備品管理の責任者であるだけでなく、放送部の顧問も務めている。七瀬先生は、「あの先生は、一見、怖そうに見えるけど、本当はとても良い先生だから。きちんと、筋道を立てて相談すれば、きっと力になってくれるはずよ」と僕の背中を押してくれた。
一部の同級生からは、『鬼の相澤』などと呼ばれ、恐れられているが、隣の三組にいる物部(ものべ)という男は、一年の頃、成績がまさにどん底でこのままでは落第するのではないかと囁かれていたところ、相澤先生の放課後の補習に出会ってからは苦手だったはずの数学と物理で常に学年十位以内の成績をキープしている。物部曰く、『神の相澤』らしい。
そんな、両極端な評価をもつ相澤先生に、僕は今から相談をしにいかなければならない。
「であるからして、この問題は、クーロンの法則に当てはめて考えれば、このように、実に、簡単に解けるわけです。このあたりの、基本的な問題については、各自、配布した副教材の方で、十分に演習を行っておいてください。もし、どうしても分からないなど質問があれば、学校の公式ホームページにある私の個人掲示板に質問を投稿するのでも構いません。中間試験まで、もうあまり時間がありませんから、各自、しっかりと手を動かして演習しておくように」
二限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。僕は、意を決して壇上の相澤先生に声をかけた。席に着いたままの佐藤さんが、こちらに頑張れとでもいうように目でエールを送ってくれている様子が、視界の端に映った。
「あの。先生。少しご相談したいことがあるのですが。文化祭の準備でトランシーバーをお借りしたいと考えているのですが、先生にご相談しても、よろしいでしょうか」
相澤先生は、僕の目をじっと見た。その射抜くような視線に、僕の背中にひやりと一筋の冷たい汗が流れた。
「ふむ。それは、無理な相談ですね。そもそも、私や放送部の生徒たちが、普段扱っているようなトランシーバーは、無線従事者としての正式な免許がなければ、扱うことができない業務用のものです。素人が免許なしで合法的に扱えるものといえば、例えば、化学の鎌田先生が顧問をされているアウトドア部あたりに相談するのが、最も妥当なところでしょう。試験後の文化祭の準備に今から取り掛かるのは、結構なことですが、目の前に迫った中間試験の勉強も決して疎かにしてはいけませんよ」
相澤先生は、そのトレードマークである丸メガネの縁をクイッと指で押し上げながら、あくまでも冷めた淡々とした口調で、そう話した。
人によっては、頭ごなしに窘められたと感じるかもしれない。だが、相澤先生はテスト前にもかかわらず、文化祭の準備という、僕の突拍子もない質問に、実に誠実に、そして、論理的に答えてくれた。七瀬先生の言う通り、やはり本当は良い先生なんだろう。
僕は、「ありがとうございました」とそう言うと、深々と頭を下げ、教科書やチョークなどを片付けて、教室を後にしていく相澤先生の背中を見送った。
そのタイミングを見計らっていたのか、佐藤さんがすぐに僕の近くに寄ってきた。
「で。どうだった」
佐藤さんは、大きな目をキラキラと輝かせて、そう聞いてくる。
「いや、全然ダメだったよ。でも、鎌田先生のアウトドア部に一度聞いてみたらどうかって、そう教えてくれた」
僕は、相澤先生からの意外な提案を彼女に話した。
「でも、化学の授業は、昨日が試験前の最終授業だったから、もう、私達が鎌田先生に会えるタイミングってないじゃない」
そう言って、佐藤さんは困ったように、こちらをじっと見つめる。
さて、どうしたものか。僕にはアウトドア部に知り合いなど、一人もいない。
顔では、平静を装いながらも、僕は、心の中では完全に頭を抱えていた。
「あっ、そうだ。ねえ、鈴木君、今日のお昼ごはん、良かったら一緒に食べようよ。今日は、美空も一緒だから、きっと相談できるよ」
佐藤さんは、何か名案を思いついたというように、弾けるような笑顔で、提案してきた。
美空。先日、駅前で見た、あのロリータ風の服を着ていた小柄な子か。
でも、僕には、どうにもピンとこない。あの子とトランシーバーに一体、どんな関係があるというのだろうか。
「あぁ、そうか。鈴木君は知らないかもしれないけど、美空。小鳥遊さんはね。アウトドア部のマネージャーなのよ」
僕の訝しんだような顔を察したのか、佐藤さんは付け加えてくれた。
「えっ」
僕は、そのあまりにも意外な組み合わせに、思わず声を出してしまった。
ロリータ風の、あの可憐なファッションで、アウトドア。それは、どこか、お花畑でピクニックでもするというような、そういう類いの活動の間違いではなかろうか。
そんな小鳥遊さんに対して、あまりにも失礼な妄想は頭の中から即座に封印し、僕は佐藤さんのありがたい誘いに乗ることにした。
四限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室の中は途端に、昼休みの、どこか浮き足立ったような、賑やかな空気に包まれた。僕は自分の鞄から、弁当箱と冷たい麦茶の入った水筒を取り出す。周りを見渡せば、慌てて購買へと走っていくもの、食堂へと連れ立っていくもの、あるいは、気の合う友達同士で机をくっつけて、それぞれの弁当を広げ始めるものと、その過ごし方は様々だ。
「おい、鈴木。今日、一緒に食堂行かないか」
クラスでは、数少ない友人の一人である堂本が声をかけてくる。
「堂本、ごめん。今日はちょっと用事があって、一緒には行けないんだ」
僕は、両手を顔の前で合わせ、体全体で申し訳ないという気持ちを、精一杯、表現する。
「そうか。分かった。それじゃ、また今度な」
堂本は、特にそれ以上、深くは詮索することなく、あっさりとそう言い、自分の友人たちと共に教室を後にして行った。
堂本の姿が、廊下の向こうに見えなくなったのを、見計らったかのように、佐藤さんが、僕の席に声をかけてきた。
「それじゃ、行きましょうか」
佐藤さんを先頭に、僕は彼女から三歩程度、距離を置くようにして、その後ろを歩く。学校の廊下を、特に、用事もないのに男女が二人で横に並んで歩いていると、余計な勘繰りをされたり、変な誤解を生んだりするかもしれない。つまり、李下に冠を正さず、ということだ。
僕らは、まず、隣の一組の教室へと向かい、そこにいた、小鳥遊さんを佐藤さんが手慣れた様子で連れ出し、三人で中庭へと向かった。
昇降口でそれぞれ上履きから外履きの靴へと履き替え、外に出る。今日は、雲一つない見事な秋晴れで、時折、吹き抜けていく秋風が、実に心地よい。
少し歩くと、目的の中庭のベンチが見えてきたが、そこには、既に三人組の女子生徒たちが、先客として座っており、楽しそうに、お弁当を広げていた。
仕方がない、中庭の芝生に、直接座ろうか。僕が、そう考えていた、まさにその時だった。小鳥遊さんが、お弁当を入れているのであろう、布製のトートバッグの中から、するりと可愛らしい動物の柄がプリントされたレジャーシートを取り出し、手際よく、芝生の上に広げた。
その、あまりにもスムーズな動きから察するに、きっと、天気の良い日には、佐藤さんと彼女の二人で、いつも、こうして、ここでお昼を食べているのだろうと、容易に想像がついた。
小鳥遊さん、そして、佐藤さんがレジャーシートの上に、当たり前のように座る。
「ほら、鈴木君も座りなよ」
佐藤さんが、自分の隣のスペースを、ポン、ポン、と軽く叩き、僕に着席を促す。
僕は、「お邪魔します」と、自分でも、か細いと思うような声で、そう呟き、レジャーシートの隅に、そっと腰を下ろした。ちょうど、正面に座っていた小鳥遊さんと目が合ったので、軽く、会釈をする。正直に言うと、女子二人と、こうして三人きりで昼食を食べるという状況が、少し、気恥ずかしかったのだ。
僕らは、各々の弁当箱を開く。僕の弁当は、母さんが作ってくれたシンプルなのり弁当に好物の卵焼きが、多めに入っているもの。佐藤さんの弁当は、真っ赤なミニトマトや、緑色のブロッコリー、そして、こんがりと揚がった唐揚げなどが入った、実に、彩り豊かなものだった。そして、小鳥遊さんは、ラップに丁寧に包まれた数種類のサンドイッチだった。
それぞれが、「いただきます」と、小さな声で言い、僕は、特に会話に加わるでもなく、ただ黙々と弁当を口へと運んだ。
僕は、三人の中では、一番、早くに弁当を食べ終えてしまい、水筒に入った冷たい麦茶を飲みながら、一息つく。女子二人は、そんな僕に構うでもなく、普段と変わらない、他愛もないおしゃべりを続けているようだ。僕は、しばらくの間、心地よい秋風を感じながら、どこまでも青い、今日の、この晴天を、ただ、ぼんやりと眺めていた。
そろそろ、頃合いだろうか。僕は、そう思い、小鳥遊さんの方へと視線を移す。彼女は、ちょうど、最後のサンドイッチを食べ終えており、薄いパステルグリーンの、これもまた、細かい動物の柄が入った水筒から、お茶を注いでいる所だった。
「あの、小鳥遊さん。佐藤さんから、もう、紹介はあったかもしれないけど、同じ学年の鈴木朔太郎です。今日は、小鳥遊さんに、少し相談したいことがあって、一緒に来ました」
僕は、本題を切り出した。
「はい。小鳥遊美空です。そんなに、かしこまらなくても、大丈夫だよ」
小鳥遊さんは、はにかむように微笑むと、肩までの長さの、緩く編まれた二本の三つ編みが、さらりと揺れた。
「実は、今、どうしてもトランシーバーが必要で。アウトドア部に、僕らでも借りることができそうなトランシーバーって、あったりするかな。 免許がなくても使えるものがいいんだけど」
僕は、単刀直入に確認した。
「そうだね。アウトドア部の、ちゃんとした備品を借りるってなると、やっぱり顧問の鎌田先生の許可が、絶対にいると思うし、それに、今はテスト前で職員室が、原則、立ち入り禁止だから、すぐにお貸しするのは、難しい、かな」
小鳥遊さんは、少し、困ったような表情で、そう答えた。
「でも、そんなに、本格的な性能を求めないっていうのなら。私の、弟や甥っ子たちが、いつも遊びで使っている、おもちゃのトランシーバーが、家には、あるには、あるけど」
小鳥遊さんは、少し考え込むように、そう言葉を続けた。
それだ。僕が求めているのは、それだ。最低限の、意思疎通さえできれば、おもちゃでも、今回の計画では、十分にその役目を果たせるはずだ。
「小鳥遊さん。そのトランシーバーについて、もう少し、詳しく聞かせてもらえないか」
僕は思わず、少しだけ前のめりになって、そう尋ねていた。
「えっと。弟たちと公園で隠れんぼをして遊ぶ時に、使っているものだから通信できる範囲は、多分、五百メートルくらいが限界だと思う。音も、なんとか相手の声が聞き取れるっていう、それくらいのレベル、かな。あとは、単三電池で動いて、結構、かわいいデザインっていうのが特徴、かと」
そう聞いて、僕は公園で小学生くらいの子供たちと、かわいらしいトランシーバーを使って、一緒に、無邪気に遊んでいる小鳥遊さんの微笑ましい姿を一瞬だけ目に浮かべた。そんな妄想を頭の中から、ぐっと、振り払い、僕は、きちんと依頼する。
「そのトランシーバーを、二台、僕らの計画のために、貸していただけないだろうか」
僕がそう言うと、隣に座っていた佐藤さんの方をちらりと見た。彼女は、よし、よくやったじゃない、とでも言わんばかりの、実に満足げな表情を浮かべていた。
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