第5節 国家精霊に支えられた現代日本政治

明治になってどのような政体をとるかということが問題になった。当然天皇を帝王にした君主制を選ぶのが自然な成り行きであった。伊藤博文をはじめ薩長の藩閥指導者は自然に絶対君主制を選んだ。当時西洋では、イギリス、フランス等民主主義的な政体とドイツ等開明の遅れた君主制があった。日本はそのドイツの君主制に範を求めた。しかし一方でフランス的自由思想も流入しており民権政治を求める民衆の声も強かった。自由民権運動は政府の意向に反して民衆による民主主義を求める運動であった。板垣退助を中心とした土佐の立志社は全国的な民権運動を指導した。自由民権運動は単なる民衆の政治運動ではなく、農民による武力的反政府運動となった。税金問題に端を発した秩父騒動や会津騒動等各地に暴動が起こった。政府はこれを武力で押しつぶした。しかしこの民主制への要求は国会の設立、憲法の制定という形で政府に受け入れられたといえる。この民主主義の要求は、その後大正時代には大正デモクラシーといわれる議会制民主主義を実現させることになる。つまり日本には明治の初めから民主主義を志向する流れはあったのである。

ところで政府のとった天皇君主制は神道という宗教をまとい宗教と俗権力が一体となった。

いわゆる政教一体の政治体制であった。天皇は制度上の政治権力の頂点に立つ君主であり、一方で従来の神道の主であるという両方を持っていた。いうならば正面からは軍服を着たいかめしい立憲君主であり、裏側は神主の服装を着た神道の主であった。表向きは「万世一系天皇はこれを統治す」と憲法に明記されたように絶対君主である。

しかし、天皇自身が権力を揮うことは一時的例外を除いて、平安朝依頼なかったことである。天皇には必ず補佐する勢力がついていた。

平安時代は藤原貴族であり、それ以降は平家、源氏、北条、徳川など武家政権が持った。明治になってからも同様であった。維新の時は薩長土肥など藩閥勢力が天皇を補佐した。その後次第に民主主義勢力が台頭する。大正期には、遂に議会民主勢力が天皇を補佐するようになる。しかしその民主政治も絶対君主制というくびきの下にあり、政治の流れによってはいつ排斥されるか分からなかった。そして事実、政界的軍国主義の時代の中で、ナショナリズムが強まり、軍事力強化の風潮になった。当然、軍部勢力が台頭し、天皇の補佐権力としての実験を持とうとした。軍部は「統帥権」と問題を持ち出した。統帥権とは軍事の支配権は天皇一身の権利であり議会等他勢力の干渉を認めないという考えであった。

結局、軍部の言うことには、他の政治勢力の介入はさせないという軍部の身勝手な陰謀であったといえる。統帥権というものが天皇の占有権であるという考えは、何処から来たのか私には分からないが、とにかく当時の軍国主義の風潮の中で軍部の言い分が通ってしまった。以後、政治における軍部の独走が始まる。満州事変やロシアとの戦争であるノモンハン事件という。

さらに盧溝橋事件に始まる日中戦争はこれらの次々起こる外国での事件は全てぐっぶの独断によって行われた。国民や議会政治家たちは、あれよあれよと、ただ事態を傍観するしかなかった。

軍部はこともあろうに大国中国を植民地化しようと企んだようだ。世界政治における植民地主義は当時の世界政治の趨勢であり、欧米はすでに東南アジアからフィリピンに至るまで植民地にしていた。日本もその向こうを張って中国を植民地化しようとしたのであろう。然しそれはすでに確立していた東南アジアにおける西洋植民地主義と衝突することであった。日本は大東亜共栄圏というアジア主義を掲げたが、所詮自らも植民地主義であり、植民地獲得の野望を持っていた。

もしこの時、日本がアジアを代表して西洋植民地主義に対抗するという考えを持っていれば、今日における日本の評価も大いに異なったものになっただろう。

アメリカが西洋列強代表して石油や鉄鋼の日本への輸出を禁じるという意地悪に出たため、資源のない日本は、アメリカに宣戦布告することになった。片や中国での戦争もあり、太平洋戦争はどうみても勝ち目のない戦であった。しかし日本人は、この戦いに国民挙げて快哉を叫んだ。日本人はそれまでの圧倒的西洋近代文明に対する民族的劣等意識があり、そのうっぴんを晴らすという心理もあったのであろう。

昭和20年になると日本の敗戦は決定的となっていた。この時、懸命な指導者がいれば終戦の方法をなんとしてでもとったであろう。しかし日本の軍部は以後、八月十五日の終戦の日まで敗北を認めることをためらった。その間、東京大空襲やソ連の参戦、満州国の崩壊、原爆投下の悲劇など国民は多大な犠牲を強いられることになった。この負けっぷりに日本は、最後まで戦ったとか、負けっぷりが良いとかいう人がいるが、それは犠牲を受けずに生き残った者の気楽な自己満足にすぎない。現実政治は機を見て、このような悲劇を再び起こさないことを考えることである。当時の軍部の指導者は、国体の護持ということにこだわり、みすみす終戦の手立てを遅らせたといわれる。国体とは現在では国民体育大会と思われるくらいにまったく忘れ去られた考えであるが、当時の戦争指導者は、この国体を守ることにこだわって終戦を遅らせた。国体とはアニミズムという古くからある宗教思想と、それを具現している現実の天皇のことだと思うのだが。当時の戦争指導者自身これを十分説明することが出来なかったと言われている。要するに日本人自身にもよくわからないこの国体思想を守ろうとして終戦処理を遅らせたのである。この様な国体思想を主張した当時の軍人は、全て腹を切って死ぬべきであったと私は思う。筆者自身、昭和二十年生まれの言わば戦中派の端くれであり、この辺の事にはつい熱が入る。日本人は先の大戦の反省を行っていないと言われるが、訳の分からない国体思想を戦中の一時的感情のままに主張して、それも時代が過ぎるとすっかり忘れてしまうという精神では尊層の反省などできるわけがない。私に言わせれば、天皇は戦前、政治権力の長であり、政治のことについては全て責任を負う立場であったが、しかし日本人にとって、私に言わせれば、国家の精霊であり、いわば国家のカミであるアニミズム精神からくる信仰がある。ここに日本人のジレンマがあると私は思う。

俗権力としての天皇は、責めるべきであるが、神としての天皇は責めるわけにはいかない。これが日本人が真に戦争責任を問い詰めることが出来ない理由ではないかと私は思うのである。

今日、中国、北朝鮮などによる、力による現状変更といわれる武力主義が迫っており、憲法を改正して自衛隊を軍隊にすべきだという政治方針がすすめられようとする。確かに外部状況は不穏である。しかし、日本国民は憲法を改正して自衛隊を軍隊にしようとする考えはないように思われる。日本人の多くは未だ戦前の軍国主義、軍部の独走とそれに敗戦の痛手が身に染みており、おいそれと、あの昔の軍隊を復活させようという気にはならないのではなかろうか。

かく言う私自身、自衛隊員が軍服を着て街を歩き、階級章を付けたいかめしい軍服姿の将校がテレビに登場することを考えるとぞっとする。日本は昔から「和を以て尊しとする」国であると同時に尚、武の国でもあった。江戸時代は刀を差したれっきとした武力主義者が国民を力で支配していた。日本人の平和主義の精神は、一方にある武力主義の精神を怖れるのである。



天皇は国家精霊にして神の巫女

    カミにしませばいと尊けり

アニミズムの国家精霊たる天皇は

    縄文のアニミズムから生まれたり

俗権と精霊を持つ天皇は

    それ故に権力も永遠と思わる

日本人のアニミズムが生む天皇信仰

    国家精霊にして国家の王なり

明治維新、カミの国なる俗帝国

    カミが皇帝となる矛盾あり

キリスト教真似、国家宗教とする国家神道は

    縄文時代のアニミズムの復活

現人神 神ならんとすれどいささかに

    時代に合わず戦具となりたり

現人神 人間宣言せる滑稽さも

    精霊の変身と日本人は許したり

日本は国家精霊により支配され

    その宗教にて戦いたり

青年は現人神を信じたり

    戦後日本は思想の混乱

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