8
「ほっ……」
だらだらと、汗が垂れる。
陽はまだ南天へ昇りきっていない。だから桝川星三の顔面を伝うこの汗は、きっと、冷や汗だったのだろう。
「本当に来たっ」
小さなスナックの裏、油臭いじめじめした路地の室外機の裏に、星三は巨体をなんとか押し込めていた。
押し殺した声に荒い鼻息が重なる。視線の先、車道の真ん中を歩いているのは、朝日奈釉子だった――以前と変わらないTシャツにジーンズにポニーテールという出で立ちで、気ままに散歩でもしているかのようにすたすたと行く。表情は、星三のいる場所からは窺えなかった。
「ほお……どれ、去年の帰り際にちらっと見た時のまんま」
後ろで、鬼桝は顎髭を撫でつけながらにやりと歯を見せる。
「やっぱりいい女じゃねえか」
のそりと立ち上がり、建物の影から身を出す。
他の坊主共を置き去りにして正解だった、と彼は思った。
「に、兄さんっ」
「うるせえ、行くぞ」
「ひいっ、痛いよっ」
兄に腿を蹴り上げられて、巨漢の弟は転がるように路地から這い出る。その身体を跨いで、鬼桝は怒鳴った。
「おい!」
ひょこりと。
朝日奈釉子が、振り返る。
薄く爽やかなリップを引いた、健康的な唇。長い睫毛、通った鼻筋。よく知る誰かに似ているような、誰もが夢に見たような、そんな美しい女だ。
大き目サイズのTシャツは汗で微かに湿っている。あっさりと留めただけのポニーテールから、後れ毛が跳ねるように飛び出していた。
「第一村人、発見っ」
ぴしりと。
広告写真と見紛うほど、理想的な形の微笑みを浮かべて、釉子は仁王立ちの鬼桝に指を差した。
「ねえお坊さま、聞いてもいいかしら? 随分静かみたいだけど……この町、何かあった? お葬式?」
それはこれからか、と顎に手を当てて首を捻る釉子。
「あと、あなた黛西寺の人? ここ最近の新しいお弟子さんかしら」
目を丸くしたのは、鬼桝の方だった。
「……儂を忘れたのか?」
面と向かってそこまで恥をかかされた経験は。
初めてだった――どこで生きていようと、桝川月次という男は大王だった。彼の野卑な粗暴さは男らしさと紙一重であり、不思議なもので、半数には嫌われるそのカリスマはもう半数を射止め、いつでも自ずから彼の周りには取り巻きが形成された。
立って歩くだけで、良かれ悪しかれ存在感を放つ男だ。
人に忘れられたことなど、初めてだった。
「おいおい、洒落がきついじゃねえか! 儂だぞ? てめえで言うのもなんだがよ、そうそう忘れなくねえか。この桝川月次の……お前、マジか? 儂らが来てた……そうだ、二年前の暮れになんか、一緒に飲みに行ったろう」
「うーん……ゴメン! あたしこの町にいた頃、毎日その辺のおじさまたちと飲んでたからなあ。いやあ、やっぱり酒が入るとアレね、男というのはちょろいもんですな! あっはっは」
ぽりぽりと白い首を掻いて、美しい女が笑っている。
「女が……」
桝川月次を、見下している。
「この儂を、無視しやがるんじゃあ、ねえっ」
男の中で、何かが噴火した。
顔も身体も関係なかった。自分を侮辱したこの女は、殺さなければならなかった。
岩のような拳を、食い込んだ厚い爪が食い込んで血が滲むほど握り締めた。
「思い出せないって言ってんでしょうがっ」
女は、突き込まれた鬼桝の岩の如き拳を、左の手刀を添えて滑らせるように躱し、そのまま右腕を伸ばして大男の頭を抱え――
手前に引き倒しながら、立てた膝を支点にして、ごぎんと首の骨を圧し折った。
たったそれだけで、暴君・鬼桝こと桝川月次の命はあっさりと果てた。
「兄さん?」
目の前で、兄が道に転がされる。
桝川月次は、欲という概念を煮詰めたような男だった。がっしりと大きなその肉体には、「やりたい」が漲っていた。
兄に意志の力を全て吸われてしまったのか、あるいは兄の決定に常に身を任せてきたからか。子供の頃から、星三は選ぶことができない少年だった。
兄が食いたいと言ったものを、一緒になって二倍食った。兄が柔道をやり始めると言ったので、その後について道場を訪れた。
月次という男は、星三という巨大な船の帆に叩きつける自由で傲慢な風だった。船の行き先は風の気の向くままだった。
それが、星三には心地良かった。
力ばかりが強く頭の回らない星三のことを、幼い頃の月次は、都合良く動かせる巨神兵だと思っていただろう。だから、どこへ行くにもその手を引いて歩いた。
自分で決めて歩いた道を歩いて、その大きな足が何かを踏み潰してしまうとしたら、それはとても怖いことだった。
「にゅっ、にっ、にっ、兄さん」
しかし、今、風は止んでしまった。
「うわあああああああああああぁぁ!」
――いいか、星三。
――怖くなったら、前に走れ。おめえはそれだけで最強だ。
「違うのよねえ。腹から声出すより、やることがある」
どっと汗をかいた顔面に、夏の空気は涼しかった。
桝川星三は、突進した。
実に百キロを超える体重差を覆してその肉塊を受け止める型は、黛西寺流にも存在しない。今のところは。殺人拳は、牛や馬を殺すためのものではなかった。
しかし牛や馬と異なり、目の前の男は二本足で走っていた。
ならば、体重は同じ位置に加わっている。
転がすのは、容易だった。
「おあっ」
回り込んで、足払いをかけると同時に、背中を肘で突く。
つんのめった星三はバランスを崩し、顔から路面に倒れ込んだ。
「ふううううぅぅっ」
汗ばんだ分厚い手を、前に突き出していた。
その手を引いて起き上がらせてくれる兄は、もういない。
代わりに目の前、太く短い首を持ち上げて見上げる逆光の中にいたのは、すらりとした女の影だった。
星三の首回りよりもよほど細い釉子の脚が、頭蓋骨を踏み砕いた。
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