5
『おっ、梢ちゃん。おはよう、今日も別嬪ね。眼福眼福』
ある朝。
梢が汗を拭き拭き稽古場へ入ると、釉子がいた。
朝日奈釉子は、テレビの向こうの女優のように、この町の人々が見たこともないくらい整った顔をして、ミネラルウォーターを飲んでいた。
もはや話題にもならないほど古くから誰も住んでいなかった空き家へ入ったのが、ふらりとやって来た独り身の若い女だというので、町は一時騒然となった。背が高く、赤みがかった長い髪をいつもポニーテールにして、男前に無地のTシャツとジーンズ姿で煙草を吸っている姿は、田舎ではあまりにも目立ったのだ。
彼女は、何ら仕事をしている様子がなかった。問われるといつも『実は、都会には色々なお仕事というのがありまして』とはぐらかしていた。やれ遺産を継いだ大金持ちだの、やれ覆面の作家先生だの、誰それの隠し子だの、配信者だの、噂は絶えなかった。
ぶらぶらと散歩をし、子供たちの遊びに付き合い、見かけた家々の雑事を手伝い、町内会の寄り合いに交ざっては酒を奢られ、黛西寺で教えを乞い汗を流す。
町の誰もが、釉子のことを好きだった。
年寄りは、子や孫の嫁に来てくれないかと挙って拝み倒した。それを『あっはっは、まだまだ不勉強な年頃ですから』と笑って躱しても嫌味にならない、太陽のような女だった。
『あの……いつもそうやって言いますけど。馬鹿にしてるんですか』
梢には、彼女が同じ生き物だとはとても思えなかった。
容姿にも家庭にも恵まれず、頭の出来は並程度。人見知りで友人もほとんどおらず、唯一他人より長けていると言えることがあるとすれば――黛西寺流という誰も知らない拳法の型が少し得意で、伝承者のひとりに選ばれているというくらいだった。
しかし、梢の取り柄であるその拳法の覚えすら、釉子は超人的に早かった。
組手では、物心ついた頃から一日として休むことなく稽古を続けてきた條漸や條謙でさえも、習って数週の釉子に一歩及ばなくなってきていた。
『いいえ? あたし、嘘はつかないもの。可愛い女の子との稽古なんて最高じゃないの、ねえ』
美人は、汗に蒸れた胴着を着崩してインナーシャツを露出し、片膝を立ててだらしなく座っている姿でさえ様になる。
『……』
『若いお弟子さんたちの中には、いるんじゃないの? 梢ちゃんのこと、なんかいいなって思い始めてる子。漸ちゃんとかどうかしらね』
悪い冗談にも、程がある。
條漸こと漸之助が釉子に惚れ込んでいることなど、誰の目にも明らかだった。……老若を問わず町の男のほとんどは、まかり間違って彼女と縁がないかと願っていたことだろうが、彼の熱の入り方はそんなものではなかった。
『梢ちゃん』
相手をするのにも疲れて、梢は無視する形で荷物を壁際に置き、家から着てきた胴着の帯を締め直し始めたが。
その背中に、板張りの稽古場でさえ響かない、噛んで含めるような小さな声が刺さった。
『必死で戦っている女の子は、どんなに醜く思えたって、みんな素敵なものなのよ』
その抱き締めるような声音を、梢は、忘れたことがない。
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