『日曜日のシングルママ』

志乃原七海

第1話日曜日のデジャヴ



「ママ、おきてー!」


まぶたの裏側でまだ夢の残像が揺れているのに、お腹の上には確かな重み。3歳になったばかりの娘が、小さな体でぽよんぽよんと跳ねている。時計の針は、ようやく7時を指したところ。日曜日の朝は、いつもこうして叩き起こされる。


「んー……おはよ……」


かすれた声で返事をして、重たい体を起こす。リビングは昨夜のまま。おもちゃが散らばり、読みかけの絵本が開いている。それが私たちの日常だった。


食パンにいちごジャムを塗りたくっただけの朝食を娘に与え、自分はマグカップにインスタントコーヒーを注ぐ。娘が「おいしー!」と頰張るのを見ながら、ソファに深く体を沈めた。食べ終わった娘が「ママ、ねんねしよ?」と甘えてくる。その誘惑に、私はいつも勝てない。


「……ちょっとだけね」


娘を抱きしめて再びベッドに潜り込むと、子供特有の甘い匂いと温もりに包まれる。幸せな時間。でも、同時に何も進まない時間。このまま世界から取り残されていくような、そんな微かな焦燥感が胸をよぎる。


次に目を開けたときには、窓から差し込む光がすっかり高くなっていた。時計は12時を回っている。慌てて冷凍のチャーハンを温めて昼食にした。昨日と全く同じ、デジャヴのような日曜日。食べ終わると、娘はまたおもちゃで遊び始め、私は意味もなくスマホの画面をスクロールする。


そんなループを繰り返しているうちに、時計の針は午後2時を指していた。部屋に射す西日が、床のほこりをキラキラと照らし出している。このままじゃダメだ。何かが腐っていく気がした。


「ねぇ、公園でも行く?」

「いく!」


さっきまでの気だるさが嘘のように、娘は満面の笑みで飛び跳ねた。その笑顔に救われるように、私は重い腰を上げた。


近所の公園は、日曜日の午後を謳歌する家族連れで賑わっていた。楽しそうな笑い声が、やけに遠くに聞こえる。娘は砂場を見つけるなり、「ママ、いってくるね!」と一目散に駆け出していった。


私は一番端にある、少しペンキの剥げたベンチに腰を下ろす。バッグからスマホとタバコを取り出すと、カチリ、とライターを鳴らした。紫煙がふわりと空に溶けていく。ぼんやりと娘の姿を目で追いながら、指は無意識にスマホの画面をなぞっていた。


娘は小さなバケツに砂を詰めたり、知らない子とお城らしきものを作ったりして、夢中で遊んでいる。その姿は私の心を少しだけ軽くしたけれど、他の家族の輪の中には、どうしても入れない。タバコの煙が、まるで自分の周りに見えない壁を作っているようだった。


一本吸い終わり、また新しい一本に火をつける。何本目だっただろうか。思考はまとまらず、ただ時間だけが過ぎていく。


そのときだった。


「ねぇ!」


すぐそばから、子供の高い声がした。視線をスマホから上げると、Tシャツに半ズボンを履いた、小学校低学年くらいの男の子が私をじっと見つめていた。


「タバコ、すいすぎはよくないってママがいってたよ!」


悪意のない、あまりにも真っ直ぐな瞳。その言葉は、私の心の壁をいとも簡単に突き破って、ど真ん中に突き刺さった。


「あ……」


一瞬、言葉に詰まる。ごめんね、と口にしかけて、ふと自分の足元に目をやった。携帯灰皿から溢れ出した吸い殻が、ベンチの足元に小さな、みっともない山を作っていた。


「はは……ほんとだね」


思わず乾いた笑いが漏れた。自分の心の荒み具合が、そこに凝縮されているようだった。


「教えてくれて、ありがとうね」


私はタバコを携帯灰皿に押し込むと、目の前の男の子の頭をそっと撫でた。くせのない、柔らかい髪の毛だった。


すると、公園の奥から慌てた様子の女性が走ってきた。男の子の母親だろう。


「すみません!すみません!うちの子が、何か失礼なことを……!」


息を切らしながら、彼女は何度も頭を下げる。その必死な姿に、なんだか申し訳なくなった。


私はゆっくりと立ち上がり、彼女に向かって小さく首を振った。


「いえ。悪いのは、私ですから」


その言葉は、不思議なくらいすんなりと口から出た。母親はまだ恐縮していたけれど、私は彼女と、そしてもう一度男の子のほうを見て、少しだけ笑ってみせた。


「ママ―!」


砂だらけの手で、娘がこちらに駆け寄ってくる。その小さな手を握ると、確かな温もりが伝わってきた。


空を見上げると、いつの間にか太陽はだいぶ傾いていた。そろそろ、帰ろうか。


吸い殻の山を片付けながら、私は思う。明日もきっと、同じような一日が始まるのだろう。でも、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、違う空気が吸えるような気がした。

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